夜明けまで

TODAY IS THE DAY

第1話

人に期待しなくなったのはいつからだろう。

好きな人の好きなものを好きになれなくても絶望しなくなった。

人に期待しなくなったのはいつからだろう。

大切な人からの世知辛い言葉にも心は千切れなくなった。

作り笑いが上手になった。なんでも許せるようになった。

自分に起こることが全て他人事のようで、耳に聞こえる音はいつも少しくぐもっている。


私の痛みも喜びも心と遠く離れたところで表層的に巻き起こっている。

毎日は可もなく不可もなく回っていく。

私はただ心を平坦にして、あの日なりたいと願った優しい人に近づいている。



 朝、スーツ姿の男女に紛れて電車に揺られる。百円で買った古本を読む。空っぽになった心を主人公の心情で彩る。体温を上げる言葉をに縋るようにセロファンを貼り付ける。大丈夫。私はきっとまだ大丈夫なんだ。


 駅から職場に向かう道。音質の悪いイヤホンからは言い回しを変えただけのラブソングが流れ続けている。信号待ちの時間にぐるりと周りを見渡す。散歩中の犬が微笑んでいる。白いマンションには茶色い木漏れ日が落ちていた。

 ふと気がつくと涙で頬が濡れている。頼りないマスクの不織布が涙を全部吸い込んでくれる。

 大丈夫。大事な人たちが言ってくれた大丈夫が心の中で光るから私はずっと大丈夫なんだ。

 どうかこの道を歩き終わるまでに涙が止まりますように。すれ違うおばさんが私の顔を訝しげに覗き込む。

 辛いことなんて何もないのに。毎日がいつだって新しくて楽しいのに。電車に揺られている時、朝起きて顔を洗ったあと、信号待ちの少しの時間。毎日の隙間でいつも私はひっそりと泣いている。理由はわからない。



「○○○○病ですね!」


 五畳ほどしかない診察室で医師は明朗にそう言った。


 心の不調を感じて駆け込んだ病院で断言された病名は、なんだか初めて聞く言葉の響きで、うまく聞き取ることができない。

心の病気なのに?と思いつつ、言われるままに撮ったレントゲン写真は人体模型にはない異様な何かを捉えている。白黒の写真を眺め続けるうちに、頭の中がチカチカしてきた。


「最近多いんですよこれ。現代病の一種です。外出自粛の重圧とか、働きすぎとか、頑張りすぎとか。慢性的に溜め込んだ精神の疲労が心の中で腫瘍になります。この腫瘍が更なるストレスに晒されてある程度成長すると栄養を蓄えて種子になってしまうんですよ。」


体内に種子ができるなんて設定は二次創作でしか見たことがない。私のぽかんとした顔を見ながら医師は淡々と説明を続ける。


「お姉さんが流した涙を皮膚が吸い込むでしょ。その水分で種子が育って、最終的に体内に花が咲きます。花が咲くまでに養分を体内から吸い取るのでこのままだと確実に死にます。最近寝て起きても疲れがとりきれてないままでしょ。わけもわからず泣く回数が増えてるでしょ。大変に危険です。今すぐ治療が必要です。」

「治療ってどのようなものですか?」

病状的にカウンセリングに毎週来てくださいとか、レントゲン的に摘出手術しますとか、そんな感じだろうか。


「しばらく仕事を休んでもらいます。あなたには明日のことを思い煩わずに生きる時間が必要です。沢山寝て食べたいものを食べて、毎日遊んでください。充分に休むことで種子が体内で弾けてなくなるんですよ。パチンとね!」


 得意げに指パッチンまでしてくれた。こんな治療、聞いたことがない。なんだか浮世離れしている。夢なのだろうか。自分の手の甲をつねってみる。ただただ痛い。


「お姉さんはまだ種から芽が出たくらいの段階だから大丈夫。すぐに良くなります。」


「何日くらいの入院になりますか?会社に状況を説明して有給を取らないと。」


私の有給はあと8日しか残っていない。


「会社には病院から連絡をします。明日から君には12連休が与えられる。この病気は特別だ。ちなみに君は入院しないよ。明日から君は…」


先生はぱちりとウインクをすると当たり前のようにこう言い放った。


「明日から君は火星に行くんだ。」



おもちゃみたいなスペースシャトルで星を渡った私は火星にいる。

火星はとても住みやすいところで、宇宙の星々を間近で見つめられるし、なぜかわからないけど酸素もある。

空気からはなぜか苺味の綿飴のような匂いがして、その空気を肺いっぱいに吸う度に私の心もとろけていく。

移住するなら火星!という研究結果にも深く頷ける。それになにより、まるで実家のようにしっくりと心に馴染む。

火星人は今のところおらず、他の人もいない。

 「ここで暮らしてください」と言われた家のテーブルにはお菓子の詰め合わせがぎっしりと並んでいる。

 テレビは私の好きな番組ばかりを流してくれる。

 読めないまま本棚の前に積まれていた本ばかりが、なぜかこの家の本棚に並んでいる。


火星には昼や夜という概念がない。眠っている時だけが私の夜らしい。

火星にやってきた日から、好きなお菓子を食べて、大好きなテレビ番組ばかりを観た。

読みたかった本を飽きるまで読んで、疲れを感じるたび目が覚めるまで眠った。

 どのくらいそうしていただろう。テレビでひとしきり笑って、そろそろ眠ろうとしていた時、家のドアを叩く音がした。首を傾げながらもドアを開けると、そこに医師の姿があった。


「調子はどうですか。」


にこやかに語りかけてくる。


「涙は流れません。火星はとても快適です。」


診察っぽいやりとりが不思議だ。


「実はあなたが火星に来てから、地球では11日が経過しました。このままいけばお姉さんが火星にいられるのは地球で言うところの24時間です。気持ちを確認しにきました。貴方は今後の人生を選ぶことができます。きちんと考えてみて。ずっとここにいたいですか?」


火星に来てからのぬるま湯のような安心感にずっと浸りたいような気もする。しかし思えばずっと小説を捲る時やテレビを見る時、心の隅で仕事に復帰した時のことを心配している自分がいた。

地球で泣きながら、それでも頑張っていた時を思い出す。

あの時の自分は、涙を流しながらも、地に足をつけながら、毎日を生きていたように思う。


頼りにしています。

力のある人がいてくれないと。

残業ばかりですみません。

誰でもミスはしますからね。

あなたに仕事を頼みたくて今日を待っていたの。

ここにきた目的を忘れないで。

どうか伝えることをやめないでね。


 仕事をする中でもらったかけがえのない言葉が心の中で音として響く。ここにいる理由なんて一つもなかった。恋人はいないけど、7畳の部屋のヘッドの上でパンダのぬいぐるみがわたしを待っている。


「帰ります。帰らなきゃ。」


強く言い放った瞬間、体の奥底で何かがパチンと弾ける音がした。



 目を開けると家の中のベッドで寝ていた。やはりあれは夢だったのだろうか。

 いつも通りの電車に乗って出社すると、私は過去11日間も、休まず毎日出勤したことになっていた。

見かける度つい買ってしまういちご味の綿飴を朝食がわりに口で溶かして、私は今日も電車に揺られる。

まだまだ泣きたくなることばかりだけれど、時には1人でファミレスに行って、時には大切な友達に会って、休みの日を読書に捧げて、私はなんとかやっていってる。

どんなに辛くても私を続けていく。鏡の前でシャツの襟を正す。いつもより少し口角を上げてみる。頼りなく笑う自分の顔が面白くて笑えた。

分からないことだらけの毎日だけど、私はきっと大丈夫だ。

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