第43話 凍てついた道

 今更引き返すに引き返せない。

 この扉をノックして今すぐにでも割って入るべきかも知れない。

 しかし、それは今では無い。


 彼の真意をまだ聞いていない。

 

 はらちゃんの問いに、少し間を置きジジイが口を開く。


「いや~どうだろう~わかんないなぁ」


 ジジイも酔いが回っているようで、舌足らずである。

 とはいえ、酔いが回っている時こそ本心が出るというものだ。

 『酔ってました』などという言い訳は通用しない。


「いまちょっとかんがえたでしょ~あたしとどっちがすきなの?ほんとは」

「いや~まいったな~えらべないよ」


 私という存在がありながら、別の人を選ぶのか?

 即断即決が出来ない時点で、私はその程度の存在ということだ。


 私は彼にとってどういう存在だったのだろうか?

 単なる暇つぶしの相手?暇すぎて私のような手軽な友達に手を出したということか?

 でもよくよく考えれば遊びだったのかもしれない。元々は大学時代からのサークル仲間で、社会人になっても関係がズルズル続いて、お互いにどこか足りないものを感じていたのだろう。


 ここにきてようやく本心に触れる事が出来たような気がする。

 遠慮という壁が邪魔をして近づけなかった距離を、はらちゃんはいともたやすく縮めてみせた。

 もう私はその間合いに入る事は出来ない。


 二人の会話が止まり、衣擦れの音がし始めたところで、私はその場を去った。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 自室に戻り呆然としてしまう。


 やっぱり二人の間に割って入るべきだっただろうか。

 いや、あの時点で部屋に入ろうとしなかったということは、既に私の中で事切れていたのだ。

 あの状態からもう一度やり直したとしても、何も元には戻らない。

 あの時の二人のやり取りを知ってしまっているから。声や音が脳内にこびり付いてしまっている。その事に触れる度に心がざらついてしまう。


 これ以上ここに居たら、自分が自分でなくなってしまうかも知れない。

 はらちゃんを憎み続け元の関係に戻れなくなってしまうだろう。


 夢のような時間はここで終わったのだ。

 

 今すぐにでも家に帰りたい。

 でも家に帰ればジジイとの思い出が蘇ってきてしまう。

 また地獄のような負の思考ループに陥ってしまうだろう。


 もう帰る場所は私の故郷しかない。


 志成とジジイの部屋の前に書き置きを残し、私はその足で実家に帰ることにした。


 私の実家は鬼怒川温泉から一度栃木まで行き、両毛線、上越線、吾妻線に乗り換え、中之条から更にバスで30分のところにある。


 温泉街に程近い場所にはあるが、うちの家にはそれほど関係は無い。

 強いて言えば、近所でやたら温泉卵が売られているだけか。


 久しぶりに実家に帰って来てしまった。

 旅行で持ってきたトランクケース一つしか、荷物は無い。


 突然実家に帰ってきたので、家族は驚くかも知れない。

 上京して成功するまで帰ってこないとまで言っていたのに、自分が勝手に傷ついたのでノコノコと戻って来たなんて、良い笑いものだろう。


 職場の近くのホテルでしばらく落ち着くまで暮らす事も考えたが、今回は会社の人間も絡んでいるので、それも出来ない。


 そうなると、頼るところは実家しかないのだ。


 実家の玄関の前に辿り着く。

 実家は借家で既に築50年は優に超えている。

 ところどころに赤錆が見えており、年季による味わいが出ている。

 その御陰で年中天井からの水漏れに悩まされているわけだが。


 相変わらずボロボロのガラスの引き戸。

 鍵は当然の如くかかっていない。


「ただいま」


 嘆息混じりの挨拶が玄関にこだまする。


「おかえり。あら、どうしたの突然?」


 母は目を丸くしていたが、深く聞くこと無く迎え入れてくれた。

 その瞬間、私の中で押さえ込んでいたものが一気に、止めどなく溢れてきた。

 しばらく玄関に突っ伏し、落ち着くまで母になだめられたのであった。

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