第46話 「医者の仕事と、猛毒と劇薬」

「……残念ですが、16時44分、御臨終です」


 東京実葛さねかずら病院の一室に、今日も慟哭が走る。

 抜け殻に成り果てた体にしがみつく母親。

 天成はいつも決まって、後ろから眺める事しか出来なかった。

 

 

「……!」

 

 病院の裏庭で、天成は転寝から目覚める。

 腕時計を見る――17時30分。少し長く、休憩しすぎた。

 

(……あの母親の後姿も、また夢見るのだろうな)


 雨音の調べは、微睡みを中和する薬にはならなかった。

 ベンチから立ち上がることなく、胸ポケットの煙草セブンスターに手を伸ばそうとした時だった。

 

「――林さんから聞いたよ。天成さんは多分緑茶が好きだって」

「……童子君か」


 『あたたか~い』の緑茶を差し出したのは、童子だった。

 

「久々に外に出たはいいけど、生憎の雨なんてな」

「それでもこの病院は、オムニバスが管理する連携施設だ。ガスマスクも現れないよう、特殊な技術が為されている……外の空気、堪能するといい」


 最も、その技術も有限で世界全域とはいかないのが残念だがね、と天成は続けた。

 承認と監視付きという条件ではあるが、“オムニバス連携施設”であれば童子の様な異端も歩く事が出来る。エージェントとして活動している恩恵もあり、承認は意外なほどに早く降りた。

 この東京実葛さねかずら病院も、表向きは名病院として日夜患者と戦い続けている。

 裏側では、オムニバスの活動に協力する組織となっている。

 

 珍しい事ではない。オムニバスの活動に協力する連携施設は日本だけでも万存在する。

 関連施設でなくとも、省庁や企業、組織に紛れ込んでいるエージェントは相当数いる。

 擦れ違う人間が、建物が、オムニバスに関わっている可能性だってある。

 ただ、表向きの活動しか人は知る事が出来ないだけだ。

 

 天成の本職たてまえは、医者である。

 ただ、使命ほんとうは、分析官である。

 

「悪いね。呼び出したのに、待たせてしまって」

「急患に手を尽くすのが、医者ってものだろ」


 天成の隣に座った童子は事情を悟り、それ以上は問わない。

 天成は緑茶をベンチに置きながら、煙草を剥がした口から煙を吹く。溜息に乗せて。

 

「本当は詩桜里を、あんたに会わせたかった。あの子、お礼を言いたがってたんだ」

「ああ。詩桜里さんか」

「ジェラルドの元から連れ出された後、あんたが処置してくれたおかげで、過呼吸も大事に至らずに済んだ……本当に礼を言いたい」

「礼なら、昨日詩桜里さんを助けた彼女に言うんだ。この病院に入院しているから。名前は確か――」

「あの人の所になら、いの一番に礼は言ってきた……詩桜里と一緒に」

「そうだったのか」

「ジェラルドにやられたお腹も、大火傷には違いないけど命に別状はないみたいだ」

「エージェントはメアに限らず、皆頑丈だからね」

「天成さんからは今回機密情報を話すからって、林に許可はされなくてな。それでも今度、また一緒に御礼させてくれ」


 落ちかけた陽。

 雨空に隠されて、ただただ闇だけが迫っていた。


「天成さんも、あの女のエージェントさんも……いなかったら、詩桜里がどうなっていたか分からなかった。本当にそこだけは、重ね重ね、感謝しきれない」

「命を救うのが医者の仕事だ……御臨終の時間を告げるのも」

「……」

「医者の仕事は、診断みることと死神みとりだ。研修医には、前者への憧憬しか持ち合わせていない子もいるがね」

「死神の宣告も、必要な事だと思う」


 童子は聞かずとも、理解していた。

 天成の眼鏡の下に蔓延る隈。医者の不養生たる見本市。

 これらは全て、眠れていないからだ。自然に体が居眠りをするくらいに、深い睡眠をとる事が出来ていない。

 そんな天成の優しさを理解した上で、童子は続ける。

 

「だとしても、俺は医者になる。天成さんの様な、ちゃんと命を救い、笑顔にする医者になる」

「……そうか」

「……これからは天成先生と呼んだ方がいいか? 医者の事とか、聞きたいし」

「先生はよせ」


 眼鏡を直しながらも、少しだけ表情が和らいでいた。

 童子はその機微を見逃さなかった。

 人の事を知るには、人の顔を見る事。そう、母親に教えられたのだから――。

 

「――?」


 視界が一瞬、歪んだ。

 ピントがずれた。良く見えない。

 すぐさま修正されたものの、眉間に手をやりながら童子は手元にあった缶コーヒーを拾おうとした。

 

 だが、そこにあった筈の缶コーヒーを拾い上げる事が出来なかった。

 実像は、もっと後ろにあって。

 擦る形となった缶コーヒーは、そのまま倒れてベンチの上を茶色く塗らしていく。

 

「……?」

「“視覚”が、少しやられているようだね」


 天成からの言葉が、ベンチを拭こうとした童子の動きを釘づけた。

 

「だが、眼球や視神経自体に異常はないのは分かっている」

「どういう事だ?」

「これは分析官としての報告ではない。医者としての診断だ」


 天成がシリンダータイプの携帯灰皿を開き、垂直に煙草の先端を押し付ける。

 灰皿の、蓋が閉まる音がした。




使




「俺の、自我が?」

「これ以上は、中で話すか――そもそも、君がここに来たのは、昨日のジェラルドとの戦いから得たフィードバックをする為だったな。だが、割込みの客がいるようだ」


 天成の視線を辿ると、林(衣服着用済み)が手を振っていた。

 

「そういえば、今日監視していたのは林だったのだな。メアはリジェネが完了するまでドクターストップかけておいたから、体を動かす任務は止めていたから妙だとは思っていたが」

「ああ。偶には体動かしたいってんで」

「そうそう! デスクワークはマジで肩凝るんだわ。この肩凝りをピンポイントで治す魔法も異端も無くてさー。日頃からこまめな運動をして、健康に気を使うしかないって事ね」

「よい心がけだ……して、今日来たのは?」

「勿論研究責任者として、童子っちの異端性調査報告について聞きに来たわけよ。どうやらリスクの話も聞けそうだけどね」

「アンタたちが懸念している、“安倍晴明”と同一人物って事がか?」


 童子の質問を聞きながら、どこかで買ってきたコーラを飲む林。

 いい飲みっぷりだった。「かぁー、やっぱこれだわー」と表情筋を吊り上げて、その爽快さを示す。

 

「それもあるけど、君単体として安全かどうか証明しないといけないって事。“自我”が破壊されるってどういう事か、分かる?」

「いや。ただ俺が俺でなくなるって事くらいは」

「そう。何もできない廃人になるかもしれない。理性と思考を失った獣になるかもしれない。オムニバスが気にしてんのは後者だ」


 いわば、制御不能の状態。確かに童子も納得だった。

 

「不完全状態とはいえ、Martis異端番号#16051“戦闘打者バットボーイ”を再現したのは不味かったな。あれ、使い方間違えると地球がを終わる可能性があるんだよ。それもあって、“オムニバス本部”が警戒している」


 鈴城晋の事か、と童子は思い至る。

 だが、どちらかと言えばあらゆる魔球を投げる累の方が童子には厄介に見えるのも事実だった。

 

「まさか……とか言わねえだろうな」

「ああ。そのまさかだ」

「マジかよ」

「そんなお前に、制御不能になってもらっては困るどころの騒ぎじゃないって事だ」

「……俺は世界を滅ぼそうなんてしねえぞ」

「いい心構えだ。前にも言った通り、それを証明し続けてくれ」


 託すように、林の掌が童子の肩に乗る。

 この世界には沢山の笑顔がある。命がある。歴史がある。

 

 ……きっとこの先、詩桜里は記憶処理を施された後も、この地球という同じに船に乗り続けている。

 彼女が生きている限り、この世界を滅ぼそうなど露も考えたくない。

 

「敢えて言わせてもらえば、今のお前は猛毒だ。だが猛毒は劇薬にもなり得る――更なる猛毒を駆逐する事も可能かもしれない」

「……それが本題か」

「ああ。日本列島どころか、地球なんてあっという間に緑色に染められちまうくらいの、猛毒だ」


 天成が開いたタブレットに、その猛毒たる異端番号が表示される。


「先程、私が最期を看取った女性。彼女は“首吊り”で亡くなった」



 Martis異端番号#44444――。

 ――日本人特有の感情だが、不吉を超えて恐怖すら感じる数字の羅列である。



「彼女だけではない。今、あらゆる病院が医療崩壊を起こしている――10

「……!? なんだ、それ……」

「疑問に思うのも無理はない。この異端は、つい先日発生したのものだからな」


 タブレットに表示されたのは、とある山だった。


「一つ尋ねる。この日本で一番高い山は?」

「富士山だった筈だ」

「そう。しかし今は、その事実は“塗り替えられてしまっている”」

 

 ディスプレイを埋め尽くすは、標高4444mの日本で一番高い山。

 樹海の如き密度で大樹が備わっていて、数多の葉が織りなす緑はどこまでも美しい。

 

「でもあたし達以外は誰も知らない。“あの山”は本来在るべき山ではない事。“富士山”が日本で一番高い山である事。そして、“あの山”が“連鎖自殺”の引き金になっている事」

「連鎖自殺……」

「それが“新命山”の、最高に恐ろしい特徴だ」

 

 それこそ。

 Martis異端番号#44444。

 “新命山”。

 

「という訳だ。お前とメアには、もう少しだけ無理してもらう」

 

 仕方ない。

 全てがあの緑の山に塗りつぶされる時は、直ぐそこまで来ているのだから。

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