第36話 「THANK YOU FOR STANDING BY ME.」
投影された歴史は、酷く色褪せていた。
四百年という時代に晒され、風化しない紙が無いように。
それでも馬から見た激動の安土桃山時代は、全てが確かな景色だった。
文化の二文字で形容された絵巻などではない。生き様そのものが、色彩となって童子の目に写る。
真田栗毛という。
人を友とした馬を通して。
『駆けろ栗毛! 風の赴くままに!』
『ひひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい』
――星空のような野原から跳ね返る蹄の感覚が、心を躍らせていた。そんな一枚の絵。
――背に乗せた主から擦り減る血が、許せなかった。そんな一枚の絵。
――今日も戦場から帰還し、主に撫でられる泥だらけの掌が待ち遠しかった。そんな一枚の絵。
波乱万丈ながらに満ち足りた、戦場を駆け続ける生き方だった。
どの馬よりも自由に。
どの馬よりも強く。
どの馬よりも幸せだと、信じている。
主が手綱を引くままに、時には無視して、背中で笑い声を聞きながら――。
夢見る馬は、駆ける。
駆ける。
駆ける。
駆ける。
駆ける。
駆ける。
――そして。
『のお……栗毛よ。今日……まで、色々あったな』
だが、鮮明に蘇るのは後悔の森。
深海の様に蒼く冷たい感情が、六月の雨雫と共にこびり付く。
『今日まで、こんな疫病神を背に乗せ、よくぞここまで運んでくれた。礼を言うぞ』
そんな弱音の称賛を、朽ちた声で吐いてほしくなかった。
礼を言いたいのはこっちの方だった。
だけど自分は馬だから、言葉は通じない。いつだって疾駆を以て答えるしかなかった。
しかしすっかり乾いた血塗れの手が、主が既に致命傷を帯びている事は分かるくらいには聡明だった。分かってしまうくらいには聡明だった。
背で黒煙を天まで轟かせる大阪城が、敗北を知らせる狼煙となっていた。悟れてしまうくらいには純粋だった。
『信繁様……参りましょうか……』
主の部下達は、憤怒と悲嘆で噛み締めた唇から血を流していた。
そのうちの何人かは、内臓からはみ出た血の臭いをしていた。
だが誰一人切腹という道を選ばない。肉体死すとも、その眼は死なず。骨から肉が削ぎ落ちるまで、最後の最後まで主に殉ずるつもりだった。
『我ら臣下一同……信繫様と志は同じでございます』
『あぁ……そうだなぁ……切腹なんて潔い散り方は、ごめんだ……』
けれど眼に見える仲間達も、背で草臥れている主も、誰一人絶望していない。
同じ釜の飯を食い続け、喜怒哀楽を共にしてきたこの仲間達は、最早一つの生命体となっていた。
栗毛も、他の馬たちも含めて。
家紋である六文銭の旗印の下に、一つの刀となっていた。
『誰か一人でも良い……城を落とした程度で買った気になっとる家康の喉元に刃を刺せ……!』
『おぉ……!』
――闘争心の共鳴は、馬である栗毛の心臓も深く脈動させていた。
主は左手に村正の刀を引っ提げ、右手に十文字槍を掲げる。
『栗毛よ……お前だって止まりたくないだろう……?』
止まらない。
止まる訳には行かない。
まだ主に、空よりも自由で居させてくれた恩を返せていない。
『ブオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!』
吼えた。
戦の始まりを告げる法螺貝の様に、全てを出し切った。
今まで自分達がやってきた事の正しさを証明する、栗毛なりの答えだ。
そして。
命一杯、手綱が引かれる。
『ならば行くか……家康の首を今度こそ狩りに――!!』
そして、最後の疾駆が始まった。
栗毛が一歩進めば、仲間達も一歩進む。
栗毛が一歩駆ければ、仲間達も一歩駆ける。
栗毛が疾風になれば、仲間達も一陣の風へ昇華する。
やがて流星となり、箒星となり――木と木の間を一直線。
『う、うわ、敵――』
『さ、真田隊――』
突如現れた鬼に慄く敵兵達の首が飛び、血飛沫が飛ぶ。
前に何があろうとも躍進は止めない。疲れ果てようと脚を止めない。
ここは戦場。主の庭であり、自分の庭なのだから。
『ぐぅ……無念』
『うっ……』
途中、仲間達が次々と倒れる。
だが振り返ることは許されない。弔う暇もない。そんな事、仲間達も望んでいない。
ただただ、自分達の死を乗り越えて突き進んでほしかった。
徳川の首を狩り、悲願の勝利を手に入れる。
それが主を含めた仲間達と共に築き上げた、疾風の願い。
『だらああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ』
けれども。
その時は来た。
最期の絵は、統率された鉄砲部隊が構えた銃の風穴。
『
主が背から落ちた瞬間、栗毛の歴史も幕を閉じた。
後に大坂夏の陣と呼ばれた戦の終焉であり、主である真田信繫の最期でもあった。
その時、信繁は何かを言った。
最早聞き取るだけの、記憶するだけの体力は無かった。
だって、栗毛は、もう。
――長い夢を見ていた気がする。
しかし栗毛が目を覚ますと、脚下は硬い地面だった。
主が言っていた。生き物は死んだら、輪廻の世界へと征くのだと。
ここが輪廻の世界ではない事は分かった。
目前にあった鉄の箱。
見たことも無い、車輪の突いた巨大な箱。
その尻から溢れる黒い気体で嫌な味がしたが、紛う事なき大阪の空気の味がした。
栗毛は確信した。
自分は、蘇ったのだと。
だが自分の鍛え抜かれた脚は車輪になっていて、体中に鼻を摘まみたくなるような油だらけの液体が溢れていて、頭頂部に何やら針の様なものが備わっているではないか。
しかも、主や誇り高き仲間達にのみ許した背に、空っぽの男が乗っている。
『うわっ! なんだっ!? こいつ、いう事を聞かねえ!』
折角蘇った事だって、天命。
こんな軟弱で脆弱そうな男を乗せるのは嫌だ。
こんな奴の言う事など、訊いていられるか。
それよりもやらなければならない事がある。
主は死んだ。けれどもそれを悲しんではいけない。
死ぬか生きるかの戦場においては仕方のない事。
不平不満を漏らそうものなら、その戦場を愛していた主に軽蔑される。
『ヒヒイイイイイイイイイイイイイイイイイ!!』
だからこそ、ならば主が果たせなかった悲願を果たしたい。
それだけが唯一、真田栗毛に許されたたった一つの願い――。
「真田……栗毛?」
その名前を、久々に聞いた。
誰に言ったでもなければ、馬であり“バイク”と呼ばれる乗り物である自分には口に出来ない筈なのに。
主によく似た、強くとも優しい眼をしながら、その少年は自分の名前を遂に口にしたのだった。
■ ■
と、その呟きを耳にした途端、メアと十合は打ち合っていただろう
「動きが……止まった?」
エンジン稼働はそのままだったが、明らかにバイクの暴走は停止していた。
代わりに、童子の方にヘッドライトを向けている。まるで童子という存在に興味を抱いたかのように。
「童子君。何をした?」
童子の後ろで寝そべっていた天成の質問に、童子は訝し気な表情をするしかない。
「いや。何も……ただ、あのバイクに取り付いている……いや、あのバイクに転生したのが、真田栗毛だって何となく思った。これくらいなら霊を見る時によくあるんだけど」
言葉を手探りにしながら、童子が続ける。
「何というか、あの真田栗毛の生き様が……鮮明に頭の中に入ってきた。正直こんなのは初めてだ」
「……そうか。やはりな」
意味ありげに天成が頷く。
「君の霊が視えるという能力。正確には霊を視ている訳ではない。対象の歴史を視ているのだ。だから霊的存在を目視しているというよりも、現在続いている対象の歴史の最先端を視ている、と言った方がいいだろう」
「えっ? それってどういう……」
童子が聞こうと振り返ったが、先に天成がそれを遮る。
「説明は後だ。今は
「あ、ああ……メアさん、こいつ俺に任せてくれないか」
「……はい」
メアも童子が馬の正体を言い当てた事に気付いていた。しかし実際に暴走すれば童子では分が悪い。それを感じ、観客席を降りていく童子に同行する形となった。
真田栗毛のヘッドライトは、童子をずっと捉えている。本当に眼があるかのような動きだった。
「真田栗毛……だよな」
例え霊体であろうと、童子は馬の鳴き声を翻訳する事は出来ない。
増してや、鳴かぬ馬の声を分析する事はどんな技術でもできない。
ただ、間近の芝生で胡坐をかいた童子を、ただ真田栗毛は見つめているだけだった。
何となくわかる。
かつて、犬の霊を見たこともあった。言葉は通じなかったけれど、言葉を通して仲良くなった。
何となく、感情が見て聞いてとれた。
「信繁さん、かっこよかったな」
『……』
「……お前、かっこいいな。相棒の為、真田信繫さんの為、ここを出て徳川家康を倒そうとしていたんだよな」
『……』
「そんで、悔しかったんだよな」
『……グゥ』
低い唸り声があった。図星のようだ。
「徳川家康はとうの昔の人間だ。お前達が戦った大坂夏の陣の一年後に、亡くなっている。もう四百年も前の人間だ」
『……』
童子の唇が、信繫と同じように動く。
まるで二人の生き様を見てきた、戦の神であるかのように。
「信繁さんも最期、言ってたよな――戦は終わった。一緒に野原で寝ようぜってな」
――真田栗毛は、思い出してしまった。
炸裂した鉛玉の痛みすら感じずに消えゆく意識の中で、目が合った信繁は、これまでにない晴れ渡る顔をしていた。
きっと。
真田信繁は、後悔していたのだろう。
武士として生まれた自分と違い、人間の勝手なエゴに付き合わせてしまった愛馬に、もっと別の駆け方があったのではないかと。
例え、そう懺悔する事が愛馬への侮蔑だと分かっていても。
所詮人間は、主観と価値観で象られた積木細工。
仲間の戦死が天晴なものだという美徳もあれば、仲間にいつまでも生きてほしいという祈りも、数多の矛盾と共に内包している。
武士としての誇りと、人間としての優しさの分水嶺で迷ってしまったが故に。
だから、せめて相棒があの世で間に合わないように。
間違って、怨霊となって未来へ場違いの復讐を果たさないように。
「幸せだよ」と、心の地図を忍ばせた末期の会話を、してくれたのだ。
もう。
お前は、戦う必要は無い。
来世ではただ、眠りたいように眠り、駆けたいように駆けろと。
「……それでも徳川家康はお前にとっては怨敵かもしれない。だけど彼が築いた未来は、きっとお前の味方だ。戦は終わった。今はただ、不安定だけどそれでも沢山の命が生きている未来がある」
『……グゥ』
「俺も千年前から来てるんだけどさ、物凄い様変わりしてんぞ。四百年前から見ても明らかに天変地異くらいに世界が入れ替わってるからさ。お前頭いいから、絶対驚くぞ。だけど確かにそれは、信繫さんとお前がかっこよく戦った大坂夏の陣の延長線上に在る」
栗毛のヘッドライトが最高潮に光ったのは。
童子の言葉に納得したからだろうか。
――童子の満面の笑みと、信繁の最期の愛が被ったからだろうか。
「不安なら、後で俺が色々教えてやる。もっと気持ちよく走れそうな野原、一緒に探そうぜ」
そして、目を瞑ったかのように。
真田栗毛のヘッドライトが、切れた。
――この事件を機に。
――
「……この戦も終わったという認識でよろしいですかね」
『ああ。やれやれ。後処理分の工数が増えてしまったな』
レーヴァテインがひびの入った外壁に溜息をつく。
「しかし……解せないですね。そこのエージェント」
一方で未だ回復仕切らない左脚を引きずるようにしながら、メアは意識を取り戻したエージェントに寄り添う。
どうやら彼も大怪我には至っていないようだ。異世界出身ではなくとも、エージェントは頑丈でなければやっていけない。
「この時間、第六総合競技場は使われない予定でした。先程タブレットで調べたらあのバイクの実験時間はもう少し後って言うじゃないですか。どうして時間をずらしたのですか」
確かに“真田栗毛”の運動能力を調べる目的で、第六総合競技場を実験場とするスケジュールになっていた。
だが確保された時間はもう少し後だ。それに、エージェント一人というのもおかしい。
今回の様に暴走の可能性は十分考慮されていたので、メアの様な取り押さえの為のエージェントないし部隊も同席するはずだからだ。
だがエージェントは逆に怪訝な表情になって、メアに訊き返す。
「えっ? でもこの異端を担当しているジェラルドさん、実験の時間変更したって言ってましたけど」
「えっ、ジェラルドが!?」
寝耳に水。
確かに“真田栗毛”の主担当は同じ異世界出身のジェラルドだ。
だがジェラルドが何故、わざと時間をずらしたというのか――。
『ピピ』
振動とアラート音。
左手首に着けていたウェアラブル端末のディスプレイに、林からの着信を告げるメッセージがあった。
「林……? どうしたのですか?」
『メア。緊急事態だ。すぐに第八インタビュー室まで来てくれ』
口調には若干のいら立ちが含まれていたものの、焦燥感は聞き取れなかった。
さりとていつもの冗談交じりの口調が抜けている辺りは、本当に緊急事態なのだろう。
『くっそ……あの野郎、私の所長室を“空間隔離”しやがった……今すぐ私は行けない。一番近くて対応できそうなのがお前だ!』
「“空間隔離”!?」
ジェラルドは、空間の連続性を操る事の出来る魔術師である。
それゆえに、かの異世界では頂点争いを繰り広げていたギルドのリーダーを務めるだけの実力を保持している。実際メアは異世界最強の聖剣使いと銘打っているが、世界最強の存在ではない。ジェラルドという対抗馬がいたからだ。
だが、その空間を自由自在にできるが故に、空間的に隔離する事も出来てしまう。
それを、林に使うとは――。
「ジェラルドが何をしてんですか!?」
『恐らくは、あのバイクを意図的に解放したのもジェラルドの狙いだろう』
レーヴァテインの言う通り、“真田栗毛”を暴走させたのもこの後に何かをする布石に違いない。
その答えを――遠くで童子も聞いていた。
『良くは分からんが――青原詩桜里に接近した! インタビューしているエージェントを無力化させてまで!』
童子は思わず顔をメアへ向けた。
「……詩桜里?」
その悲痛の呟きを聞いて。
後ろで、再び“真田栗毛”のヘッドライトが光る。
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