第32話 「いつもそこにある晩ご飯という魔法」
部屋に入った時、ただいまって言いそうになった。
不思議だと思った。何故ならこの部屋は住み慣れたあの2LDKの賃貸住宅では無かったのに、だ。
玄関を開けたらすぐそこにキッチンがある。あったのは廊下の筈なのに。
壁の色も質感も違う。
床の色も質感も違う。
天井の色も質感も違う。
あらゆる家具も、あらゆる内装も、あらゆる空気も、何もかもが違う。
変わらないのは。
キッチンの真ん中で、まな板を叩く音。
童子の帰りを待って、料理をする一人の詩桜里だった。
「おかえり」
童子が一人にしたくない、一人にしてほしくない女の子だった。
制服の上からエプロン。これもいつもの格好だった。
「……あっ、今日ね。ハンバーグ、作ったんです。中にチーズ入ってるの。童子君の、一番の好物」
たどたどしい、しかし優しい芯の通った声。
コンロから放たれる火を消すと、まだ油を蒸発させるフライパンから晩御飯をさらに盛り付ける。
子供の頃、これを童子は魔法だと思っていた。
どんな時でも、泥んこになるまで遊んだ時も、叱られたときも、テストで低い点数だったときもあった食卓。
葛葉が亡くなっても、家が変わっても、自分が異端の化物だと分かっても、その食卓は並べられていた。
掛け替えのない、詩桜里という家族によって。
「昨日から、何も食べてないですよね? ……もし食べれないなら、御粥も用意してあるから、遠慮しないでね」
「遠慮なんか、しないさ。ハンバーグ、丁度食べたかったところだ」
しかし微妙に違っている所と言えば。
物憂げで泣きそうな表情で、一々詩桜里が童子の顔を覗いてくること。
でも、泣かずに最後は精一杯の笑顔になること。
「じゃあ、食べよっか」
「ああ」
美味しかった。
中に入ったチーズと、それを包む挽肉の香ばしさと、外を流れるミートソースの芳醇さ。
全てが際立って、主張する。
でも、それをひとまとめにしたのが、目の前のやさしさだった。
「美味しい」
「……うん。良かった、です」
満面の笑みは、詩桜里の裾に隠された。
ブレザーからはみ出た、カーディガン。水色のカーディガン。
しかし洗った後なのだろう。石鹸の香りがする。童子の好きな匂いだった。
そもそも詩桜里なのだから、いつもいい匂いなのだけれど。
轢きつけられる香りじゃない。一緒に居て、和らぐ匂い。
アロマセラピーのアの字も知らない童子だから、違いは言葉にはできない。ただ、いつもそう直感しているだけだ。
「そうか」
童子は頷きながら、声を漏らしていた。
(もう、この料理も食べれないのか)
流石に見ず知らずの人間に、こんな丹精真心を込める事は出来ないだろう。
(もう、この好きな顔も見れないのか)
そもそも、童子の事を忘れてしまうのだから。
(もう、おかえりって言ってくれる人もいないのか)
童子の記憶を処理され、詩桜里は何も知らずに生きていく。
それが幸せな事だ。
童子にとって迷うべくもない事。
昨日、ようやく自分の立ち位置が分かった気がする。
平安時代から変わっていない。死と背中合わせ、隣り合わせ、合わせ鏡の生き方しか出来ない。
童子が望まなくとも、ガスマスクは襲ってくる。鈴城累や晋は襲ってくる。話ではニヒルの“実業団”はまだまだいると聞く。
メアのような無双乱舞の剣士なら安心できる。
彼女はきっと、死んでも死なないだろう。何故かそういう安心感がある。
しかし、詩桜里はそうではない。ただの、優しい子なのだ。
耐えられない。
詩桜里がいなくなる事が。
きっといなくなるくらいなら、まだいい。
命に相応しい詩桜里が、命を失う事こそが――
「ねえ、童子君」
自分を取り戻した童子は、唇が動くのを見た。
「私は忘れないよ。童子君の事……ずっと、忘れませんから!」
先回りされた。
「忘れないって……まさか、記憶処理の事聞いてるのか?」
「なんとなく、そういう事もあるんじゃないかなって……思ってる。こんな組織が公に口外されていない時点で、記憶処理に纏わる何かはあると思うから……」
「……」
あたり。と言う事すら憚ってしまった。
それを首肯したところで、未来は変わらない。
変わらない方がいい。
忘れた方がいい。
そして、どこかの優しいお似合いの男でも見つけて、二人で幸せになってほしい。
「それにね。例え、童子君の事忘れても、私絶対思い出すよ。思い出せなくても、ずっとそばにいるよ」
「詩桜里……」
「約束は、記憶を失ったからって消えない、から」
約束。
確か、詩桜里は約束をくれた。
葛葉が亡くなって、喪に服していた時。隣に泣きじゃくった詩桜里が来て、『ずっとそばにいる』って慰めるように言ってくれたのは覚えている。こっちの台詞だよ、と言いたくなりながらもそれに甘えていた。
「……話して、ください」
真向いの席から、隣の席に来る。
メアよりは背が高いにしても、平均女子から見れば小さな体格。150cm。
しかしいつも通り、眼鏡の奥の瞳は真っ直ぐに童子の事を捉えている。
大きく見開いて。
瞳の光が、童子の瞳に届くようにと。
少し恥ずかしいのか、耳まで赤らめる所もいつもの事。
だけど、瞳の中が潤んでいるのは、今回が初めて。
そして、話した。
沢山、話した。
ガスマスク達に襲われた事。
マンションが滅びた事。
途中で幼い男の子が瀕死になっていた事。
“
空から降り注いだ天の光の事。
母親を、見た事。
「つまり、俺は化物だ。それが詩桜里に伝わるのが二番目に怖かった……で、一番怖いのは、さ。詩桜里。お前まであんな戦場に巻き込まれて、死んじゃうんじゃないかって事なんだ」
「……うん」
童子の立ち上がり、部屋の奥まで進んだ。
これ以上、真っ直ぐに詩桜里の眼を見て話せる自信がなかったからだ。
本音を話す事で傷つける事から、傷つく事から逃げた。
「だから、俺から詩桜里は離れてほしい。詩桜里はちゃんと表の世界で、自由に生きてほし――」
言葉が詰まった。
背中に、柔らかい感触が合った。
胸に回った二つの腕は、か弱くとも強い。解けるけど解けない。
暖かくて、温かい。
「頑張ったね。良く言えたね……」
「ああ。言っちまったよ。少しは怖がってくれると思ったんだけどな」
「怖がらないよ。童子君がどんな人かは、私が知ってる。もっかい言いますね。童子君は、童子君……です。世界中の誰もがそれを忘れても、童子君が童子君である事。私は知ってるって」
「だけど、俺は化物だ。お前を殺すかもしれない」
「じゃあ、もっと童子君の事知りたい、です」
むぎゅ、と。
抱擁が強くなる。距離が近くなる。
息遣いも伝わる。胸の柔らかさも伝わる。心臓の鼓動が伝わる。やっぱり恥ずかしいのだろう。
同時に――怖いのだろう。目の前の化物を忘れて、一人になってしまう事が。
目の前の化物のそばにいられない事が。
だから詩桜里はとうとう泣き出して、眼鏡がずれる事も構わず童子の背中に額を預けている。
「童子君の事もっと知りたい。忘れたくない、です」
「死ぬかもしれないんだぞ。命よりも優先するものはない」
「それなら、一緒に命を守りながら、一緒にいる方法考えよ?」
詩桜里はそう提案した時には、童子も振り返っていた。
涙ぐみながらも、童子を安心させようと笑顔の詩桜里がいた。
「勿論、最終的にはここを出る。で、童子君の夢の、医者になって、一人でも多くの命を救う、だよね」
「医者、か……あっ」
思わず後ろによろけてしまった。
今になって昨日の戦闘のダメージが来たか。
「わわっ」
童子に体重を半分依存していた詩桜里も、一緒に転びこけてしまった。
後ろはベットで、マットレスの柔らかさの為に今更ダメージはない。それでも上に乗っかる形となった詩桜里を無視はできない。
詩桜里はやってしまった、という顔で紅潮した顔を童子に見せる。
「だ、だ、だだ、大丈夫!? ど、童子君」
「あー、大丈夫。お世辞でも何でもなく、詩桜里軽いから」
「でも、さっきまで、あんな風に寝てたから……」
「それよりもほれ。お尻」
「……」
ずっと童子の体調に集中しきっていた詩桜里が、自分のお尻を見る。
前に転び、お尻を突き出す形で倒れてしまったが故に――制服のスカートが捲れあがっていた。
ほっそりとした太腿の上。雪のような白地に、無数の星。
小さなお尻に、無限の夢が詰まっていた。下着にもそれが現れていた。
レース模様の輪郭や、若干安物感が否めない素材なのも含めて白日の下に晒された下着を無言で隠す。
「悪い」
「いえ……私、とんでもなく、悪い物を」
「そうはいっても、実際洗濯物とかで見ちゃってるからな」
「そこは突っ込まないで……」
「えっと……いいお尻、だな」
「……そんなことない」
「……いつの間にか、胸もこんなに大きくなって、さ」
「フォローに……なってない、よ」
フォローしようとすれば、か細い声だけが返ってくる。
噴火するんじゃないかというくらいに、恥ずかしさに満ちた顔色で。
「でも……ちょっと……意識してくれると……ね。嬉しい……ね、やっぱり」
「なんかいった?」
決して童子の耳が遠かったわけではない。
詩桜里の声があまりに小さすぎたからだ。
童子が立ち上がろうとすると、詩桜里が中々離れない。
詩桜里が上に乗っかって、童子の胸に抱き着いている状態。流石に童子も邪な思いを抱かないでもない体勢だ。
「ごめん……なさい」
「詩桜里?」
抱きしめるというより。
手放したくなくて、服を鷲掴みにされていた。
もう、そんな余裕が詩桜里にある訳なかった。
「……ひとつだけ、私も本音、言いたいです」
「……」
「よか……だ……童子、君……生ぎでて……ほんとうに……良がったよお……」
すすり泣く声がした。
泣き顔を童子の胸に伏して隠す形をとっても、到底誤魔化しきれるものではない。
詩桜里はずっと、泣きたかった。
童子が怖かったから。童子が死ぬのが怖かったから。
童子のいない未来で、料理を一人だけ作ってる寂しい未来が、怖かったから。
それを察し、童子は想いを受け止めた。
「悪かった。ちゃんと生きて、帰ってくるからさ」
「…………」
暫く肩を震わせながら詩桜里は滂沱の涙を垂らしていた。
それでも、いつかは記憶を失わないといけないのだろう。
現実は厳しい。異端の世界であろうと存在する現実は、本当に厳しい。
だけど、この子の覚悟が出来るまで。
童子の覚悟が出来るまで。
もう少しだけ、詩桜里の隣に居させてもらえないか。
そう願った、童子だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます