第23話 「俺達は思う。だから俺達は、ここにいる」

釈迦ブッダはね。実は輪廻転生なんて説いてないのよ。ママも生まれる前のお話だから、諸説ありって奴だけどね』


 平成の奈良を旅していた時、平安にも存在した東大寺の大仏を見上げながら、葛葉はそういった。

 幼いながらに童子にはその大仏よりも、手を引いていた母親の方が大きく見えた。

 何故ならあれだけ平安の僧たちが崇めていた大仏は、一切の何もかもが感じられない、ただの石だと感じた体。

 

釈迦ブッダは死んでもその業に終わりはないと言っただけ』

『お袋、業って何?』

『その人を象る歴史――そうね。例えば童子が盗みを働いたとする。そうしたら童子は悪い歴史が積まれ、悪い童子になってしまう。逆に童子が人を笑顔にしたとする。そうしたら童子には良い歴史が積まれ、良い童子になった。その歴史を業って呼ぶ』


 柵の向こうで右手を掲げていた大仏が、まるでその歴史を見守る神を気取っている様に見えた。

 実際、この大仏の基となった釈迦ブッダという人間は、それだけの涅槃りょういきにまで達している。


『魂とか精神が輪廻を巡ると言ったのは、釈迦ブッダの弟子や孫弟子達。でもそれはそれで世界の在り方を必死に伝えていた』

『じゃあ釈迦ブッダは何を言いたかったのかな』

『物事には理由がある。現象には必ず原因がある。人には歴史がある。例えば今息を吸っているなんて些少な行為から、童子がこの平成にタイムスリップしたという壮大な事件まで。釈迦ブッダが修行の末に伝えたかったのは、そんな単純で、でも突き詰めてみると人生一個分じゃ足りない事だったのよ』


 そこでもう一度、大仏の顔を拝んでみる。

 何にも感じてはいないけれど、何にも苦しんでいない。何かから解放されたような顔だった。

 それはきっと、所詮は目の前にある物体が石だからだ。しかし本当に釈迦ブッダがこのような顔をしていたのなら、と好奇心がとくとくと童子の中に注ぎ込まれる。

 

 実際、後々聞いた話の中で仏教を極め悟りを得た人間は、物事に対して苦しまなくなったそうだ。

 目前の物事に心を動かされることは無く、ただそこにある物として捉える。

 心は時に、物事に対して本能的な暴走を働かせる。

 心のフィルタを暴走させることなく、あるがままを捕える。

 故に、心の機微に疲れる事も無く、苦しむ事もない。

 

 勿論、そんな生き方が良いと思ったわけではない。

 しかし平成という恵まれた貴族のような生き方をしているくせに、表情がマイナスな方向へ豊かな大人達を思い出す。

 少しは釈迦の爪の垢を煎じて飲むべきだ――と言ったら、『じゃあどうしてそんな顔を大人たちはするんだろうね?』と後々葛葉と一緒に考えた。

 

 母親と一緒に居て、退屈することは無い。

 女手一つで童子を育てながら、女の体一つで童子と一緒に考える。

 世界の在り方を。これまでの歴史を。そしてこれからの未来を。


『死んだらそこで終わりじゃないの? 業に終わりがないってどういう事?』


 大仏から出ても、童子と葛葉の会話は続いていた。

 東大寺の前には鹿がいた事を覚えている。鹿に煎餅を食べさせていた。童子がちゃんと葛葉の方を向いてから、葛葉は質問に返した。

 

『童子。どこからが終わりで、どこからが始まりだと思う?』


 うーん、と同時は悩む。

 

『童子は人が死んだ後が見える。その筈なのに、どうして死んだら終わりなんて思う?』

『分からない。分からないけど』

『じゃー、言葉にしてみようか。きっとその気持ちが大事だから』

『終わりだと思ったのは、この前隣のおばあちゃんが亡くなった時だった』


 話している内に、幼き童子の顔が愁い始める。


『この前葬儀の後、おばあちゃんと会ったんだ。おばあちゃんは葬儀が開かれてる事も知らないみたいだった。あんなに葬儀で、お坊さんは必死に念仏唱えて、家族の人があんなに泣いていたのに。おばあちゃんは知らなかった。家族の人は知らなかった。いいや、分からなかった。その時、思ったんだ。ああ、おばあちゃんはこの世界の人間としては、終わっちゃったんだ。おばあちゃんは終わって、僕らの世界と分離されたんだなって』

『ふむふむ。良くできました。はなまる、だぞっ』


 くしゃくしゃと頭を撫でられた。

 哀しい気持ちだったのに、その母親の笑顔は全てを暖かくしてくれた。笑顔と一緒に髪の毛をぼさぼさにする彼女の掌が、一番好きだった。

 

『おばあちゃんは昨日、幽霊としても消えたよ。ねえお袋。やっぱり魂が輪廻転生しているんじゃないの?』

釈迦ブッダはね。その瞬間魂からも解放されるって言ってる』

『魂からも?』

釈迦ブッダに言わせれば、童子が見ているのは肉体から解放された魂。けれど魂にも賞味期限はある。いつか水中の氷のように、消えてしまう』

『じゃあ、死んで幽霊としても消えちゃったら、本当に終わりなんだね』

『童子、あれを見て?』


 童子が見たのは、木の幹に止まるさなぎだった。

 雪解けが始まった公園でも、あれなら暖かそうだ。

 

『さなぎの幼虫は?』

『イモムシ?』

『よくできました。でも正直変わり過ぎだよね! あのイモムシが、真っ白なさなぎになっちゃうなんて!』


 正直驚き過ぎじゃない? オーバーリアクションじゃない? と子供心ながらに突っ込みたくなるくらいに、出来過ぎた笑いをしていた。

 

『こう考える事が出来るんじゃない? あの虫は、イモムシとしては終わりました。でもイモムシとしての業、歴史があったから、さなぎとして始まりました。ってね』


 童子の両肩を後ろから掴みながら、顔を近づけて一緒にさなぎを見る葛葉。

 自分も何かを発見したかのように、うんうんと頷いていた。


『おばあちゃんもおばあちゃんとしては終わったかもしれない。そして、さなぎみたいに、別の誰かに歴史が受け継がれたのかもしれない』

『でもそれだったら、俺も誰かの歴史を覚えていなきゃおかしくない?』


 童子は今思えば、良く聞く少年だった。

 まだ詩桜里もいない頃だったから、葛葉を独り占め出来ていた。

 けれど所謂前世の記憶がない事は、童子にとっては看過できない事である。

 

『前世が、記憶がないからと言って、歴史が無いわけじゃない。そう、童子とママがいなかった1000年のように。この世界だって歴史が積み重なって、気づけば別人のように変わっちゃった。平安はいつの間にか終わって、それから何度も何度も魂じゃなくて歴史が引き継がれて、江戸時代、近代、昭和、そして平成……更に次の元号へと輪廻していく』

 

 まとめるように、葛葉は優しく伝える。

 

『肉体でも魂でもない。輪廻するのは業という歴史。そうやって歴史は永遠に繰り返されてきた』

『じゃあお袋は、俺が死んでも悲しくならないの?』


 そんな訳はない。そう思いながらも、意地悪に訊いた質問だった。

 咎める事なく、葛葉は童子の掌を引きながら答える。

 

『悲しいよ。童子がおばあちゃんが死んだ時に泣いたように、私も泣いちゃうから。童子は優しくて強いから、この先色んな人に関わると思う。その途中で、死んだら死ぬくらい悲しいって想ってくれる人に会うんじゃないかな』


 葛葉は、鳥でも眺めるように右の空を眺めていた。

 童子の未来を眺めているのだと思った。

 

『だからね、童子。生きてね。死んでも業は続くけど、安倍童子はそこで終わっちゃうんだから』




 ――消滅していく全焼アパートの住民達が伸ばす手に、童子はその言葉を重ねた。

 

 “おやっさん”は魂だけになっても、迫るほのおから助かりたくて童子に掌を伸ばした訳じゃない。

 生きてほしい。逃げてほしい。息子を見守る親のような顔で、その霊は消滅した。

 役割を終えたと言わんばかりに、童子の背後にあった漆黒のアパートも、影も形も残さず跡形も無く消え去っていった。

 

 だからきっと、これは親不孝なのだろう。

 結局童子は逃げ道をガスマスク達に塞がれ、目前には世界最強の野球青年が佇んでいる。

 全勝アパートの皆が残したたった一つの希望。

 そして葛葉が残したたった一つの願い。

 

 どちらも、果たせそうにない。

 野球ボールに殴られるか。バットに吹き飛ばされるか。それとも光線銃に蜂の巣にされるか。

 静かな面持ちで、童子は全員の得物を見た。

 

「ほーう。うちの高校の監督を思い出すなぁ。どんなに追い込まれた時でも、そういう冷静な顔を崩さなかったんだ」

「0対100の9回裏2アウト走者なしの場面でも、常に勝利の可能性に賭け、戦況を見つめる物静かな人だった」


 二人の高校の監督がどんな人間かは知らない。何ならこの二人が普通の高校出身である事の方が驚きだった。

 冷静。しかしそう言われて、童子は疑った。

 ただ単に、生きる可能性が無さ過ぎて力を失っているだけのような気がしたからだ。

 

 パニックと言う概念がある。

 人はブラックホールに星ごと巻き込まれるような、絶体絶命のピンチでは意外と慌てない。

 慌てるのは少なくとも『生きたい』と思えるくらいには、生きる可能性がごくわずかに残っている時だけだ。

 

 童子が静かに死を待っているのが、そういった諦観から来るものだと察したのだろうか。

 同情するような目で、累と晋が見下げていた。

 

「もしかしたら、この死の先に異世界転生が待っているかもしれないぜ? 眉唾だが、オムニバスではそういった実例が“管理”されてるとも聞いた」

「実際、異世界Sランクギルドの聖剣使いだって実在した訳だしな」

「生きるか死ぬか。分かりやすい世界の方が、案外絶望は生まれにくいかもしれない」


 釈迦ブッタのように、悟ったかのような口調で累が話す。

 すぐにその比喩が間違いである事に童子は気づく。

 

 釈迦ブッタの悟りは、物語らない物。

 この“烈火寿命オーバーバッテリー”の悟りは、語りたくて仕方ない闇を漏らしていたからだ。

 

「平和なんてのは、仮初よ。法律で、道徳で、教育で縛った所で人は暴力をやめられない」

「人間は原始で生きてきた百万年から何も進歩していない。皮一つ剥がせば、中には獣を狩っている」

「俺達は“こっち側”に入っちまったから、ただ強ささえあればいい。けれど現実はそうじゃない」


 二人の声が、低くなる。

 二人とも、まるで古傷でも痛がるように肩を抑える。


「お前は、もしかしたらまだ数年前はこんな哲学的な事を考える年齢じゃなかったのかもしれないな」

「ちょっと前、流行ったろ。COVID-19コロナウィルスだよ」

「コロナが教えてくれた。現実に必要なのは、誰からも睨まれないように上手く生きていく事」

「この世界は、野球をやるには窮屈すぎる」

「生きたいって思う気持ちが、こんな異端きせきでも無きゃ生まれないくらいにな」


 二人で一人。何か一つの共同体である様に、会話も連携している。

 彼らも少なくとも、生きたいという意志を持たなかった時代があるのだ。

 様子からはうかがえないが、人は業と歴史の積み重ね。

 釈迦が言ったように、全ては連続体だ。10年前の自分と今の自分は違う。

 10年前は自殺志願者でも、10年後は生存主義者に転じているかもしれない。

 

「死にたいのなら是非もない」

「なら怖気づかない様、一瞬で殺してやるよ」

 

 じゃあ翻って、童子には生きたいという意志がないのだろうか。

 童子は自殺志願者だったのだろうか。

 ただ振り下ろされるバットに、大きく振りかぶられたボールに、向けられた光線銃の銃口を歓迎するだろうか。

 

「……違う、そうじゃない」


 と。

 童子は呟いて。

 累の方に突進する。

 

 これまで溜め込んできた生への渇望を前面に、全面に押し出して。

 

「お!?」

「やっぱ、生きたいんだわ」


 揺さぶられる本能のままに、素人同然の体当たりを向ける。

 だがまるで壁でも相手にしているかのように、累と激突すると逆に弾き飛ばされてしまった。

 相手は腐ってもスポーツマン。筋肉の量が違い過ぎる。

 

「長々と語って悪かったな。死への覚悟が揺らぐ時間稼ぎになっちまったか? 安心しろ、もうお前は来世への片道列車に乗りかかってんだよ」

「だったら途中下車してやる。無理なら窓からだって飛び降りてやる!」


 ガスマスク達に押さえつけられても尚、体中をのたうち回らせて暴れまわる。

 死ぬのが怖いから。それもあるのだろう。

 しかし童子を突き動かすのは、もっと大事なものだった。

 

 それは。

 業という、歴史。

 

「おやっさん達に死んだらおしまいって言われてんだ! これで死んだんじゃ、あの世でおやっさん達に顔向けできねえ!」


 全焼アパートで飲んだジュースは美味しかった。

 いつか一緒に、彼らが飲むワンカップの味を堪能してみたかった。

 叶わないのなら、彼らがいた歴史を思い浮かべながらワンカップを堪能したい

 

「メアさんにここまで散々守ってこられて死んだんじゃ、俺は俺を許せねえ!」


 ほんの数時間、一緒にいただけだったけど。

 もう少し彼女の事を理解してやればよかったと懺悔するほどに、意外と濃かった。

 世界を滅ぼされた彼女の悲しみを、覚えている人間が必要だ。

 

「お袋からも生きろってずっと言われてきた! ここで死んだら、最悪の親不孝じゃねえか!」


 いつも生きろと、抱きしめられてきた。

 葛葉は、自分のためにすべてを捨ててこの時代に逃げてきたのだ。

 夢半ばで無くなる事は、母親への最大の不敬だ。


「何より――ここで死んだら、詩桜里を独りぼっちにさせちまうだろうが……あいつが泣く姿は、想像もしたくねえんだ!」


 いつか葛葉は言った。自分のために泣く人が現れると。

 ……詩桜里は、一人すすり泣くだろう。泣いてくれるだろう。

 だけど泣いてくれる人が現れるから嬉しいのであって、しかしその涙が一番流させてはいけないものだと童子は今悟った。

 

「死ねねえ! 死ねねえ! 畜生、俺が本当に安倍晴明って言うんなら、俺が陰陽師って言うんなら!!」


 ほんのわずかで、少し上下に動く程度ではあったが、自由になっていた右腕を晴れ間が見え始めた曇天に翳し始めた。

 

「俺が! 安倍晴明に! 陰陽師に! 俺だけの何かに! なったとしても! 俺は――生きる!!」


 ふと。

 童子の中に、一つの情景が想起された。

 その公園の少女も、童子と会う約束をするほどに、童子の生存を願っていた少女だった。

 

 今はもういないけれど。

 次の生命へと、きっとその業となって移ってしまったけれど。

 だけど童子は覚えている。

 

 その業を、歴史を覚えている。


 “どこに在るか”。

 

「俺達は思う。だから俺達は、ここにいる」



 曇天の間に、あの公園の少女の位置を知った時。

 差し出された掌を見つけた時。

 その手を掴んで、一気に――曇天から一条の光を帰す――!!

 

 

 光は。

 筆になって。

 輪郭を、描く。



釈迦ブッタの理論は、始まりも終わりも無い。それを前提に、業の輪廻転生が説かれている』


 次の瞬間、童子は葛葉の言葉を思い浮かべながら、自由になっていた。

 馬乗りになっていたガスマスク達が、かなり遠くにまで吹き飛ばされていた。

 かなり遠く。

 

 ありえない。

 ここは小路で、そう遠くにまで吹き飛ぶなら壁に激突している筈だ。

 しかし視界は開けていた。

 

「……何故だ」


 そう、ありえない。

 童子にはガスマスクを振り切る力なんて、今の今まで無かったはずだ。

 しかし、目前に広がる異端的光景を見て、無理矢理二人は納得する。

 

 

「“公園”、だと」



 ここは見知らぬ公園。

 滑り台。ブランコ。アスレチックがある公園。

 “一年前の少女殺人事件から怪奇現象が発生する心霊スポットに成り果ててしまった公園である”。


 少女の亡霊に後ろから袖を掴まれても、遊ぼうよと声かけられても振り返る事なかれ。

 ずっと、少女の遊び相手にさせられてしまうから。

 “公園”の住民として、永遠に居座る事になってしまうから。

 

「あそ、ぼう」

 

 ――こっちの世界に帰ってこれなくなるから。

 

 ほら。

 一体のガスマスクが、遊び道具になって。

 そして――。

 

『でも業を無から作れる。そうじゃなくとも、業を再現できる人がいたら。釈迦の理論は全て崩れるかもしれないね。永遠を前提とした釈迦ブッダの理論が。それこそ、“どんでん返し”の様に』



 累と晋は、目前の怪奇現象に慄いていた。

 ――確かにもう、その力を失い成仏したはずの異端だったからだ。

 

 しかし自分達は先程までいた小路から外れ、いつの間にか彼女のテリトリーの中にある。

 その舞台を、少女の後ろに佇む童子が整えた。

 間違いない。

 

 突如移動された公園。

 消えたはずの怪奇現象。

 蹴散らかされていくガスマスク。

 

 その異端の中心は、童子だ。


「生きる……俺は、生きる。君の事も、忘れないで生きていく」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る