第17話 「世界中の誰もが忘れても、童子君が童子君である事。ずっと私が知ってる」

 結局童子はメアが出た後で、詩桜里の隣に腰掛けた。

 座ったベッドは、家の物よりも柔らかかった。確か詩桜里のベッドと自分のベッドは同じものを使っている筈だから、きっと寝心地は良かったことだろう。

 だが童子には、昨日詩桜里が安眠できたかと言えば絶対にそうは思えなかった。

 

 彼女の眼が晴れている理由は、今彼女が滂沱のような涙を流しているのは、昨日死にかけた経験を受けたからだ。

 自分が死した時の恐怖で、深い睡眠に辿り着けなかったのだろう。だから目が晴れている。

 その恐怖がまた同時に襲い掛かると分かってしまって、平常心ではいられないのだろう。だから今彼女は、泣きじゃくっている。

 

 童子と出会った、10年前と同じ。

 7歳の頃の詩桜里と同じ。

 詩桜里は、泣き虫だ。誰かのためにだって泣いてしまえる。

 

「落ち着いたか?」


 項垂れていた詩桜里の顔色は、先程よりも悪くなっていた。

 下を向いていた事で顔を隠す形となったボブの黒髪から、詩桜里の辛そうな表情が見える。

 

「……なんとか」

「そういえば、ここには“薬”が無いな……」

「童子君、あれからもう8年だよ……大丈夫、お医者さんも最近じゃもう通わなくていいって言ってたし」

「昨日殺されるような経験したんだ。悪化していてもおかしくない。家戻った時に処方箋も持ってくるよ」

 

 そう言いながらふくよかな胸を抑えられても、説得力に欠けるという物だ。

 しかし詩桜里にとって胸を抑える程の痛みはとある病気などではない。そう訴えかけるかのように、大きく見開いた瞳のまま再度童子の裾を掴んだ。

 掴んで、首を横に振った。

 童子はそんな詩桜里から目を逸らして、安心材料を探す。

 

「大丈夫。メアさん強いし」

「……」


 そんな言葉では納得しない。胸騒ぎは収まらない。


「今は何がどうなってるのか……私にはまだ、理解できてない。ここがどこかも、説明は受けたけど、腹落ちしてない……でも、今ここでこの手を離せば、あなたが……どうしてもあの銃に打たれちゃう事だけが想像できて、怖いんです……」


 人が最も恐れる時は一体どんな時か?

 四方八方から銃を向けられた時? 否。

 聖剣と呼ばれる程の鋭利な刃物が首筋で光った時? 否。

 底知れぬ魔物が跋扈するダンジョンで追放されたとき? 否。

 

 命がどうなるか分からない、そんな時だ。


 ワンルームに閉じ込められている方が安全かもしれない。その外では異形が死屍累々の絨毯を蠢いているかもしれない。

 助かる道があるかもしれない。でもその道で待ち受けるのは致死率100%の墓場かもしれない。

 今ここで手を離さなければ童子は明日を迎えられるかもしれない。今ここで手を離したら童子は昨日までの人間になるかもしれない。

 

 一番不安視する命は、自分のものとは限らない。

 人によっては、一番大事な家族のものでもある。

 詩桜里が後者の人間である事は、血が通わなくても一緒に家から学校まで通う童子には分かり切っていた事だ。

 

 個体差あり。諸説あり。異説あり。

 しかし今間違いなく詩桜里が一番恐れるのは、この手を離して永遠に童子と別離してしまう事だ。

 自分がこの世界を離れるならまだいい。でも、童子が離れる事だけは身が裂けても許せない。

 

 ガスマスクに童子が殺されそうになった時、曲がった包丁をガスマスクに突き付けたのもその性格ゆえだ。

 葛葉が永眠した時、隣で自分の何百倍も泣いていたのもその性格ゆえだ。

 今みたいに、詩桜里は沢山泣いていた。泣いて泣いて、止めどなく哀しくなって、そして泣いていた。

 

「詩桜里」

 

 だから童子も、詩桜里を一人にしたくなかった。

 詩桜里が自分の巻き添えで“管理”されている事が怖い。もしかしたらその状況のせいで、外界の危険に対して麻痺しているのかもしれない。

 

 その詩桜里の笑顔をいつまでも見続けていたい。

 それが童子の、生きる最大の理由なのかもしれない。誰かの笑顔を作りたいと願う心の源なのかもしれない。

 けれど、源はもう一つある。

 

「家はまた建てればいい。でもお袋の体は、たとえ遺骨であってもかけがえのない物なんだ」


 13年前。

 タイムスリップした時、まだ5歳の童子を繋ぐ葛葉の掌の暖かさを思い出していた。

 

「母さんは人として死んだんだ。だから死後も、人であってほしい。オムニバスの実験道具にも、ニヒルの廃棄リストにもさせない。だから俺はお袋を取り返す」

「……」

「三人でまだ、何気ない日常を生きよう。お袋が見守る中で、料理食べて、家事して、勉強して……まあ、詩桜里はいつか嫁に行くだろうけど」

「行かないですよ……!」


 あっ、と恥ずかしそうに顔を逸らす詩桜里の顔に、良くなった血行が駆け巡る。

 それを見ていつもの詩桜里が帰ってきたと、はにかむ。

 

「約束するよ。ちゃんと帰る。お前の下へ」

「……約束、だよ。いつもの、やっていい?」

「ああ」


 小指と小指が絡まり合う。

 二人の視線が、その一点に集中する。

 

「指切りげんまん」

「嘘ついたら」

「はりせんぼんのます」

「……お袋が生きてた頃は、指切ったって言ってくれたんだけどな」

「私、あれだけは嫌でした。指切ったなんて、その約束も切れたみたいな感じじゃないですか」

「大丈夫。この小指だけは切れないから」


 童子はそう気休めを言って、立ち上がる。

 今度は裾を掴まない。帰るって約束したから。

 

 しかし童子は裾を引かれてもいないのに、また立ち止まる。

 詩桜里に振り向いて、少しだけ不安そうに話す。

 

「一つだけ、弱音吐かせてくれ」

「どうしたの?」


 詩桜里は情けないなんて言わない。

 ちゃんと話を聞く。傾聴する。抱き留める。


「詩桜里だけは、俺の事。ただの人間だって思ってくれるよな」

「うん。童子君は、童子君……です。世界中の誰もが忘れても、童子君が童子君である事。ずっと私が知ってる」


 それを聞いて、童子の顔に少しだけ元気が戻った。

 比例して、詩桜里も少しだけ空元気の含まれた笑顔が戻った。


「じゃあ、行くわ」

「うん。行ってらっしゃい。夕ご飯までには帰ってきてくださいね」

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