第7話 同居人は、母親のように話を聞いてくれる義理の妹

 やはり、新命山しんめいざんなんて名前に心当たりは無かった。

 しかしスマートフォンの液晶が示すのは、新命山は標高4444mの日本で一番高い山である事だった。

 

「うーん……確かに富士山が日本一な筈だったけどな」


 童子はそう言って、自宅マンションのエレベーターに乗った。

 

 少し遅れて、さらなる情報を入手する事が出来た。

 富士山と違い、新命山には登れないらしい。あまりに垂直すぎる構造故に、そもそも登山コースが存在しないのだ。

 ヘリコプターを使っても、激しい凹凸だらけの頂上に到着する事さえできない。ゆえに月に行った事のある人類も、実は新命山に登頂したことはないのだ。

 ならばよじ登ってやると意気揚々と登り始めたクライマーたちも、その殆どが帰ってこなかったらしい。平成になるころには悪魔が住む呪われた山として、世界中の名のあるクライマーも新命山を恐れて名を呼ぶこともしない。

 

 更に特筆すべき情報としては、新命山の周りに犇めく新命樹海しんめいじゅかいの存在である。富士の樹海や、青木ヶ原樹海に比べれば規模は小さいものの、日本で一番自殺者が多い死の森と貸している。

 字こそ“新命”と書くものの、明らかに命を馬鹿にしている山や森だ。

 情報の記事を閉じてスマートフォンをポケットにしまいながらも、未だ閉じることの無い思考がもやもやと繰り広げられる。

 

「うーん」

 

 やはりどう考えても、富士山が日本で一番高い山だ。少なくとも昨日まではそうだった筈だ。

 更に言えば、日本で一番自殺者の多い樹海は青木ヶ原樹海だった筈だ。行ったことは無いが、彷徨える自殺者の魂が悪霊化している事は想像に容易かった。準備が出来たら行って、自殺者達の魂と対話したいと考えていたくらいだ。

 

 その厳然たる事実が、塗り替えられている。

 富士山は日本一高い美しい山から、ただの美しい山へとなり下がっている。

 童子を置いて、明らかに世界単位で書き換えられている。

 

 心霊現象やら、亡霊やらに関わってきて異常事態に対して免疫がある童子も、流石にこればかりは唸るしかなかった。

 

「あの子と関係があるのかなぁ。今度会ったらそれとなく聞いて、逃げるか」


 呟いて、今日自分を親の仇の様に追い回したメアの事を思い出した。

 彼女もやはり“からくり”なんてものでは説明が出来ない“魔術”を使い、重さは何十キロもあるであろう長剣を軽々しく振り回していた。あの体躯でだ。

 異世界から来たという出自が、何分童子よりも吹っ飛んでいる。

 そんな少女が何故、自分を管理しに、そして最悪の場合殺しに来ているのだろう。

 

 それにしても、だ。

 自分が安倍晴明で。陰陽師で。

 世界を滅ぼすとは、どういう事だろう。

 

「あ、やべ。鍵出てこないな……」


 気付けば自室の扉まで来てしまったので、鍵を学生鞄の中から探す。

 しかしこういう時に限って、鍵は鞄の中を逃げ回って出てこない。焦っていると、一人でに扉が開く。

 こういう時、気が回るのがエプロン姿で出てきた同居人、青原詩桜里あおはら しおりである。

 

「お帰り。やっぱり鍵、忘れたと思って……」


 同じ高校のワイシャツに重ねたエプロン姿で出てきた志桜里が掲げた鍵で、童子は鞄にない理由を「あー」と声を上げながら納得した。

 

「もしかしたら、鍵落としたと思って探してるから遅くなったのかなって。一応、LINEで送ってたんだけど……やっぱり気づいてないかな」

「……今気づいた」

「うん。今、既読着きました」


 同じLINEのトーク画面を参照。青原詩桜里の画面に既読マークがついたのは丁度今だった。

 苦笑いで笑窪を作る詩桜里。黒の真っ直ぐなショートヘアも合わさって、清楚さななめらかさを引き立てる。極めつけの眼鏡が嫋やかさを強調する。

 

「今日は何作ってんの? ん? この匂いは」

「今日はね、肉じゃが」

「当たった。いい匂いだと思って。調味料替えた?」

「実はね、隠し味なるものに脚踏み入れてみようと思ってるの」


 そんな会話をしながら、二人が向かったのは台所ではなく居間だった。

 居間にある仏壇だった。

 備え付けの香炉に線香の跡がない事を確認すると、小さく笑う。

 

「別に俺が帰るまで待たなくてもいいのに」

「義母さん、私達二人が揃った方がいつも嬉しそうだったから」

「それもそうだな」


 一人一本ずつ、灯した線香を香炉に差して拝む。

 この仏壇には二人の母親が眠っている。霊が視える童子にとっては、既に母親の魂は成仏している訳だがこの一連の儀式が無駄とは思わない。きっとこうして死んだ人を思い出す自己満足を、無駄とは思えない。

 同時にとっては平安時代から一緒にタイムスリップしてきた母親。

 この時代で彼が生きていけたのも、この母親――葛葉くずはのお陰だ。

 

 役所に登録されている情報を参照するならば、童子とは兄妹である。

 童子が今年18歳の高校三年生。詩桜里が今年17歳の高校二年生。

 当然血も繋がっていないどころか、そもそも苗字が違うし、何より生まれた時代すら千年違う。というわけで、義理の兄妹だ。

 養子同士の、兄妹だ。

 

 一人目へいあんの養子が童子であり、二人目れいわの養子が詩桜里。

 二年前に体調を悪くするまでは、台所の肉じゃがも葛葉くずはが作っていたのだ。

 それからは二人で葛葉の看病をしていたが、甲斐なく半年前にこの世を去った。

 

「明日実。そういや日本で一番高い山って何だったっけ?」


 それを聞いたのは、二人きりの食卓の時だった。

 肉じゃがを口に運ぶ動きを停止し、全焼アパートの怪の住人達みたいに回答に迷い始める。首を傾げながら問い返してきた。


新命山しんめいざん……だよね?」

「やっぱ、そうだよな」

「もしかして、新命山しんめいざんに登る、とか言わない、ですよね……?」

「無理無理。世界の名だたるクライマーたちが踏破出来ていない前人未到の魔境だぜ?」

「だよね……もしかして、新命山の霊に干渉しに行く気なのかと思っちゃって……」


 詩桜里は、唯一童子の出自や能力を知る人間である。

 平安時代から来たことも、帰りがけに彷徨える霊を励ましている事も、詩桜里は知っている。

 家族になった時に話した最初こそ困惑したが、今ではしっかりすっかり信じている。

 

 童子と共にタイムスリップしてきた葛葉という母親がどんな存在であるかも、詩桜里は知っている。

 知った上で、義理とはいえ母親として今日も敬う。

 

 しかしそんな詩桜里でさえ、日本一高い山は富士山であるという厳然たる事実を忘れてしまったようだ。


「ど、どうしたの……た、体調悪いの?」

「いや。別に」


 務めて冷静に見せていた。詩桜里の心配する顔は見たくない。

 だが収まる事の無かった狼狽を、どこに向けたらいいというのか。

 

(本当に、どうなってんだ……?)

 

 タイムスリップしてきた時には、事情の裏側に葛葉がいたから現実を受け止められた。

 千年分違う文明に憂う時もあった。しかしまだ五歳だった童子は葛葉に手を引かれて、びっくり箱のような小宇宙を今日まで生き抜いてきた。

 足元の時代が変わる分には、意外と大したことは無い。

 

(本当に、本当に、どうなってんだ……?)


 食事が終わって、蛇口から流れる水道水の音をBGMに、一人童子は悩みを深めていた。

 時代ではなく、認識がおかしくなっているのは、駄目だ。

 自分ではなく、他人の認識が勝手にどこかに行っているのは、どうしようもない。

 

 明日から自分の中で新命山が日本で一番高い山である事に納得させる日々が始まる。

 それは同時に、標高4444mの不穏な高山が何故突如現れたのかという疑問と戦う事になる。

 この日本に物理的にも、皆の認識に精神的にも、どうして自然に現れたのか。

 逆に何故自分だけ置いて行かれているのか。


 一体、この世界に何が起きているのか。

 安倍童子という個体に、何が起きているのか。

 でも、答えは出ない。

 どんな事だって検索という技術を用いて答えを出す令和のからくりは、役立たずの結果しか出さない。

 たぶん、食後に何故か胃を鷲掴みにされている。

 

『陰陽師――安倍晴明』


 ふと、フリック入力画面でその名前を打ち込んでいた。

 まさか自分だけ認識が変わっていないのは、安倍晴明だからじゃないか。

 あのメア曰く、“陰陽道を用いて世界を滅ぼさんとする悪魔”らしい。

 

 戯言と切り捨てるには、メアの様子は迫真だった。

 心当たりもないし、完全に信じている訳ではない。

 しかしこの異常な状況に置かれていては、それさえも縋りたくなる嘘と化していた。

 

『――平安時代の呪術であった「天文道」や占いなどを、体系としてまとめた思想としての“陰陽道”に関して、卓越した知識を持った陰陽師ともいわれ、当時の朝廷や貴族たちの信頼を受け、その事跡は神秘化されて数多くの伝説的逸話を生んでいった』


 検索結果の文字を、ただ目が滑っているだけだった。

 書いてある事は分かる。だが重要な情報である気はしない。

 ただ一つの記載を除いて。

 

『安倍清明の母葛葉が“妖狐”である伝承があり――』


 思わず歯軋りしながら、忌々しそうに記事を見つめていた。

 背をもたれるソファが、硬く感じた。


「人のお袋を……好き勝手言いやがって」


 違う、今はそっちじゃない。

 混沌とした思考に、怒りはいらない。


 自然と思考は、出口のない迷宮へと戻った。

 安倍晴明が誰なのか。そして新命山とは結局何なのか。

 もう一つだけ分かった手がかりと言えば。

 

『安倍晴明の幼名は、安倍童子と呼ばれており――』


 出てきた。自分の名前が。

 心当たりない、歴史のパーツとして。


「安倍晴明……お前は、一体誰なんだ?」


 安倍童子はここにいる。この安倍晴明の幼名が童子な訳がない。

 だとしたら、歴史に名を連ねた安倍晴明とは何者なのか。

 どうしてメアと言う少女は、自分を安倍晴明と連ねたのか。

 

「……くそっ、駄目だ、訳わかんねえ」


 スマートフォンを見る事さえ嫌になってきた。これでは受験勉強も手に着かない。


「……お袋」


 視界に映っていたのは、母親が祀られた仏壇だった。

 不思議な光を内包した女性だった。いつまでも横にいるような、縋りつきたくなるような暖かさを持った女性だった。

 彼女が、人間ではない事は知っている。人間として生きようとも、結局造りは人間ではないのも知っている。

 

 “妖狐”であった事を知っている。

 更に言うならば、“本当の母親ではない事”も知っている。

 

 それでも、令和の時代に飛ばされて右も左もわからなかった童子を守ってくれたのは、葛葉という母親だった。

 母親を、童子は愛していた。

 この時代ではそれをマザコンと呼ぶのだろうが、呼びたければ呼べばいい。

 母親を好きな事を、後ろめたいとは思わない。


 しかし唯一の心残りは、十分な親孝行をしてあげられなかった事だ。

 結局頼ってばかりのまま、彼女は逝ってしまった。

 布団の上で衰え弱ってゆく葛葉を、救う事も守ることもできず、手を握って御粥を作るくらいしかしてやれないまま。

 

 こんな自分を見て、情けないと思うだろうか。

 それとも。

 

「……やっぱり、どうかしたの?」


 隣に座った少女を見つめる。

 一瞬、葛葉が天国から頭を撫でに来たのかと思った。


詩桜里しおり


 時々、詩桜里に葛葉の暖かさを重ねる事がある。

 儚く、壊れやすいくらいに線の細さも滲み出ているが、同時に縋りたくなるような光は葛葉譲りだ。

 平安時代から連れ添ってきた母の病死から立ち直れたのは、この義妹のおかげと言ってもいい。

 

「話してみて!」


 普段は優しい詩桜里だが、本気で心配している時は梃子でも動かない。

 迫ってくる物憂げな表情は、童子にとって弱点でもある。

 

「話を聞くことくらいなら、私にも出来るから。一人で抱えなくて済むかもしれないから」

「……」

「私を、童子君とお母さんは、そうやって私を助けてくれたんだよ!」


 大きく目を見開いて説得する詩桜里に、童子は観念した。

 それから、話した。

 非常識だ、あり得ない、そんな風に否定する返答はなかった。

 うんうんと頷いて、理解をしっかりしてくれた。

 一応童子の出自を知っているとはいえ、俄かには信じがたい筈なのにだ。

 必死に口を真一文字に結んで、聞いてくれた。

 

 自分を異端として捉えようとする組織、非営利団体オムニバスの事。

 異世界から来たという魔術を使う少女と聖剣。

 富士山に成り代わって日本一になってしまった新命山の話。

 

 きっと語るには余りに受け入れがたい話だろう。

 だけど、それを嘘だとは思わず、気のせいだなんて思わず、世迷い事なんて思う事さえない。

 

 ……誰かに悩みを聞いてもらえるという事が、心の重荷を和らげる事だと改めて悟った。

 そういえば葛葉も母親として、真正面から話を聞いてくれていた。

 

「……信じるのか?」


 大まかでも、今日あった感じた出来事を一通り話し終わって、恐る恐る聞いた。

 そういうと、への字に口を曲げて不満そうに詩桜里が返してきた。

 

「やっぱり、半信半疑だよ? でも、童子君が嘘をついてるか、ついていないか分かるくらいは、童子君と一緒にいるつもりです!」


 むー、と口をへの字にする詩桜里。


「もうそんなに俺達、兄妹やってるのか」

「あと、私が一番心配したのは、火事のあったアパートで幽霊と話をしたって所だよ……崩れたら危ないよ」

「それは。まあ気を付けるよ」


 苦笑いをしながら童子は目を逸らす。

 

「勿論、幽霊なんてよくわからない存在に近づいて、大丈夫なのかなって。いつも心配してるんだから……」

「それに、幽霊は別に怖いもんじゃないって。肉体があるか、ないか。それくらいの違いしかないさ」

「お願いだから、危険なことはしないでね」


 ここは信じる事と、心配する事は別という事だろう。

 詩桜里のような一般人からすれば、心霊現象は見たことは無くとも、恐怖すべき存在として信じ込んでしまっている。

 こればかりは平安時代から変わらない価値観だ。

 

 今度は詩桜里の心配そうな顔を解きたくて、話を変える。

 本音も含めて。


「でも、話せて楽になったよ。ありがとう」

「……良かった」


 嘆息し、僅かだが余裕が出来た思考を働かせる。


「詩桜里。今週の土曜日、空いてるか?」

「えっ、う、うん」


 4月を示すカレンダーを見て、童子が提案する。


「花見しにいかないか?」

「ふえっ? ど、どうしたの藪から棒に」

「いや。ここ最近二人とも勉強勉強でいっぱいいっぱいだったし。いや、別の予定が入っているなら仕方ないんだが」


 素っ頓狂な声が詩桜里から返ってくる。

 ただ想定外なだけではないようだ。先程までの聖母のような雰囲気はどこへやら。紅潮した顔が、ただ異性との事に不慣れな少女の特徴を晒す。

 

「なんだよ今更。昔は二人で公園行ったろ? そもそも登校は一緒じゃねえか」

「だだ、だって……私、もう17歳だよ? 童子君だって、18歳、なんだから……二人きりでいきなり行くっていわれると、その、恥ずかしい気持ちも、あるわけ、で……学校に行くのも、本当はね、あの……ね」


 断っておくが、童子だって恋愛観は持っている。

 平安時代にも紫式部や清少納言然り、恋愛を語る風土はあった。いつの時代も、少年と少女は愛を育んで大人になる。

 正直、そんな反応をされるとこちらが恥ずかしくなって、頬を描いてしまう。

 

「嫌か?」

「い、いやじゃ、ないです……寧ろ、こちらからお願いしたいくらいでね……」


 甲高い小声の反応に、童子は頷いた。


「じゃあ行こう。なんか今は、そういう気分なんだ」


 詩桜里は相変わらず恥ずかしそうにしていたが、破顔一笑、終いには心から嬉しそうな表情になった。

 

「うん。私、行きたい場所があるんです、こんな所なんですけど……」


 スマートフォンの画面に、優雅な桜道が映った。

 天は笠のように左右の葉桜が覆いかぶさり、地は散った桃色の絨毯が敷き詰められている。

 デートコースとしては、これ以上にお誂え向きなスポットは無かった。


「綺麗だなぁ」


 ぼそりと呟いた言葉は、意識したものではなかった。

 空想の中で見上げた豪勢な春色に、心が奪われた。


「屋台も沢山あってね、シート引いてゆったりできないかな、って」

「分かった。ここに行こう」


 桜のように桃色に紅潮した詩桜里を見て、また照れ隠しに頬を描こうとした時だった。

 

 

 窓ガラスを、数発の光線が貫いていた。

 

『……異端名“安倍晴明”を認識、これよりプロトコル“Halt of yin and yang”を開始』


 直前に反応した童子が見たのは、窓ガラスの向こうで銃口を突き付ける、“ガスマスク”姿の誰かだった。

 

『安倍晴明の生命活動及び異端能力の無力化を強行する』

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