Scene 10

 喪服姿の柊木ユキは、異分子が自室にいることを気にせず、醒めた目で室内に上がり込んだ。

 俺が持っていた日記を一瞥すると、同じ顔のまま話し出す。

「日記を読まれたのも、不法侵入も気にしません。そのために相沢さんの部屋に侵入したんです。日記を読ませようと焚きつけるためです」

「そのためだけに部屋に侵入したのか?」

 日記なら普通に手渡しすればいいのに、回りくどいことをする。

 柊木ユキは、醒めた目を逸らすと

「……別の女性ヒトの痕跡を探したんです。深雪さんが亡くなって、こんなボロアパートに引きこもる理由が、新しい女と乳繰り合うためなら、私はもうここに用はない」

 けど女性の痕跡はありませんでした。柊木ユキはつまらなそうにそう続けた。

 そこまでして、どうして?

 その理由は、日記で彼女が正確に表している。

 兄の死を受け入れて悲しみを払拭してしまえば、兄が過去になる。

 だからその悲しみと向き合えず、現実逃避をしている。

 そして俺たちは、まるで同類が引き合うように、邂逅を果たした。

 畳敷きの部屋で、テーブルを挟んで何も言えずにいると、間を持たせるように柊木ユキはいった。

「片瀬深雪さんの妹を利用したことは謝罪します。彼女は悲しんでいないと自己申告したけど、救われたがっていた。きっと私はその役割を果たせた。でも利用したことは許されない」

 柊木ユキは両膝を畳につくと、額を畳につけ土下座をした。

 謝罪は深雪の妹に向けて必要だが、土下座という行為自体に意味はない。やめさせようとした時、彼女の肩が震えているのに気付いた。

「今日、兄さんの一周忌だったんです。兄と話して、こんな生き方を終わらせるつもりだった」

 でも話せなかった。畳にぶつけるように苦悶の言葉を吐き出した。

「兄さん……私、どうすればいいの」

 柊木ユキは泣いていた。聡明で気丈な人物像にひどく不釣り合いだが、同時に歳相応でもあった。

 聡明で頭の回転の早く、行動力もある彼女だが、これ以上追いかけるのは不可能だ。

 何故ならこの先には、何もないからだ。

 相沢良介の先には、もう何もない。

 もし彼女と近しい間柄なら、悲嘆する彼女を慰める必要はあるが、彼女とは何の関わりもない。相沢良介の中に、柊木ユキに対する慰めや、助力の欲求はない。

 こんな時に思い出したのは、かつて深雪が話した言葉だ。

『誰かの役に立ちたい。世界中で困っている誰かを助けたい』

 その夢が果たされることはなかったが、抱き続けたその理念が、現状の呼び水となった。

 彼女の理念とは違うが、絶望した彼女を助けたい。そう思った。

 そのためには相沢良介の言葉では届かない。ただの傷の舐め合いになるだけだ。

 だからこう言った。


「──ユキ」


 はっとしたように柊木ユキは俯けていた顔を上げた。

 相沢祐介としてではなく、彼女の兄、柊木雄太として声をかけた。

 柊木雄太の人物像は、日記や彼女の口振りから推察は出来る。寡黙で堅実で、妹を大事にしている人柄だ。だから彼女も兄を愛したが、柊木雄太はもういない。

「俺は充分にユキのために生きれたよ。お前は今、俺のために生きてくれているのかも知れないけど、俺はもういない。だからお前は、お前が生きたいように、お前自身のために生きてくれ」

 そう伝えた。

 彼女の兄の真似事など言語道断。死者への冒涜だと当の柊木ユキからもたらされても文句は言えない行為だ。

 だが柊木ユキは温和な口調でこう返した。

「兄さんはそれでいいの?」

 立ち上がってユキはそう答えた。

 ただ単に俺が始めたママゴトへの付き合いなのか、それとも兄と対話をしているつもりなのか。彼女の目にどう映っているのかは分からないが、兄として答える。

「ああ。お前にはちゃんと学校に行って、ちゃんと生きて欲しい。俺のことはいい」

 学校にちゃんと行けと、柊木雄太はしきりに話していた。

 きっと彼はそれを望むのだろうと確信し、柊木ユキにそう伝えた。すると、泣き笑いのような顔で柊木ユキは答えた。

「……学校、もう卒業しちゃったけどね」

「そうか。なら、学校に行きたいならまた通えばいい。働いていけそうなら、その方がいい。お前が、お前のために決めてくれ」

「うん」

 柊木雄太としての言葉が彼女の心のどこまで届いたのか分からない。

 だが、彼女の醒めたような瞳は、親愛なる肉親を見る目に変わっていた。

 柊木ユキが求めたのは、救いではない。兄を失った悲しみを終わらせる目処が立たず、兄のために生きる、という失われた目的を求め続けた。そんな生き方に、ひとつの区切りをつけたかったのだ。

 きっとそれは、俺も──。

 すると柊木ユキは、目尻に溜まっていた涙を拭うと、畳敷きの部屋で一歩を踏み出しこう言った。


「──ところで良介君は、今、何をしてるの。充実してる?」


 と。



 俺はボロアパートで柊木ユキと話していたはずだった。

 だが今の俺は、学ランを着ていた高校時代に、制服姿の片瀬深雪と、夕暮れの屋上で話しているように錯覚していた。

 相変わらず小難しい夢を語っていた深雪の話に頷いてやりながら、ひょんなことから俺の話になった。そんな雰囲気だった。

「……ああ。今はITは辞めて、百貨店で働いてる。毎日戦争のように忙しいが、同僚と話も合うし、信頼できるから、それなりに充実してる」

「彼女いないみたいだけど、作らないの? 魅力的な子がいない?」

「いや、そういうわけじゃないけど」

 お前のことを未だ想っているから彼女は作らないし、その気もない。

 それを本人を前に伝えるのは、いささか気恥ずかしい気もした。

 すると深雪は──いや。深雪を演じる柊木ユキは、小さく舌を出して快活そうに笑った。

 年齢なりの深雪らしい応対で、近年の心を弱くした深雪とは印象の離れた、懐かしい片瀬深雪らしさだった。

「ごめんね無神経なこと言っちゃった。でも良介君、ちょっと無愛想だけど、格好いいし優しいんだから、すぐに」

「俺は今でも、深雪が恋人であって欲しいと思ってる」

 遮るようにそう言うと、深雪は口ごもった。

 しばし考える素振りを見せ、やがてこう答えた。

「でも、私はもういないんだ。触れ合ったり、抱き合ったり出来ないの。どうしよう」

「どうすればいいんだろう」

 率直にそう答えたが、その答えを知っていれば、元の職場とも、人間関係とも、家族とも離れて逃げ出すこともなかった。

 やがて深雪は切り出した。深雪は頭のいい子だったが、柊木ユキは輪をかけて回転も早い。とうに結論は出ていたのだろうが、きっと深雪のパーソナルに寄せて話している。

「私はもう良介君の彼女にはなれないけど、良介君が、誰かの役に立ち、助けるために生きてくれたら、きっと私は、良介君の中で生き続ける」

 既に同じように悲しむ誰かを助けているかも。いたずらっぽい顔で深雪はそう言った。

 誰かを助けたい。幸福にしたい。それは深雪が夢に見て叶わなかった夢。

「それしかないのかな」

「そうなってくれたら、私は嬉しい」

「分かった。じゃあ深雪は見ていてくれ。約束だ」

 うん、と深雪は頷いた。


 次の瞬間に、深雪は──いや、柊木ユキは、魂が抜けたように崩れ落ちた。

 放心したように虚空を見つめていたが、やがて焦点が定まってくる。

 相沢良介は、柊木ユキのために、柊木雄太として話した。

 そして柊木ユキは、相沢良介のために、片瀬深雪として話した。

 ただそれだけの話だが、そんな状態をずっと続けられない。

 たかが十秒、数十秒のやりとりだが、それだけで充分だった。

 柊木ユキはノロノロと立ち上がると、

「……この部屋、出ます。手続きは後でやりに来るので、管理人さんにそう伝えてください。お世話になりました」

「ああ。きっと俺もこのアパートを出る。こちらこそ世話になった」

 もう二度と会うことはありません。そう告げて柊木ユキは部屋を出て行った。

 しばし間を空け続けて部屋を出ると、アパートの廊下に管理人が立っていた。

「話はつきましたかな。安否確認で二人で部屋を覗いたけど、心配した相沢さんが部屋に留まったと説明はしておきました」

「ええ、一応は。説明痛み入ります」

 相変わらず善人そうに話す管理人にそう答える。

 二人が交わしたやりとりを説明するためには、俺の誤謬はあまりにも不足している。

 こじれた別れ話の精算でもしていたと思われているだろうが、それでも大差はないため、説明は省略した。

 自室に戻ると、どっと全身から力が抜け、壁に寄りかかるように座り込んだ。

 涙が目からとめどなく溢れ、止まらなくなった。

 誰かのために生きるという理念が、深雪のではなく、自分の理念になった時に、きっとこの悲しみが終わるはず。

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