Scene 9

 柊木ユキの兄は、型の一致する骨髄バンクドナーが見つからず、骨髄移植手術を受けられず亡くなったことが、日記には記されていた。

 彼女の日記は、聡明で頭の回転の早い人となりを表すように、正確で率直だった。

 彼女の兄の死は不幸だったが、彼女はその死を乗り越え、その上で正しく人生を全うできる人物像だったはずだ。

 だが、一致した型を持つ骨髄バンクドナーの片瀬深雪が事故死した事情を知った彼女は、あらぬ行動に移っていく。

 兄の葬儀から日記はパタリと止まったようだが、再開された日付は割と最近だ。

 柊木ユキは卒業し、大学進学をせず、ある企業に就職をしたようだった。

 身の上は多くは語られないが、彼女の行動は、兄の葬儀からおよそ一年弱後の日付から、つぶさに記されていく。



 ◇

 しめやかに行われた兄の葬儀からしばらく経った。

 両親とは兄の葬儀から口を利いていない。私は高校三年生となったが、予定していた大学進学を、家の都合という一言で撤回し、最低限の就職活動で地元の企業に就職をした。

 兄の稼ぎに期待していた両親は、その身代わりとして私の動向を気にかけたはずだが、予想に反し何も言わなかった。

 まあ、家に金を入れろと強要されても、びた一文渡さなかったろう。

 進学せずに就職を選んだのは、一秒でも早く家から出たかったからだ。

 もし人に魂と呼ばれるものがあるのなら、きっと兄は私の側にいて、「ちゃんと学校に行っているのか?」と言いたげに、寄り添っているだろう。

 つまり、私がいつまでもこの家にいては、兄の魂までこの家に留まらせることになる。それはどうしても避けたい。

 死してなお兄があの両親たちの奴隷のようで、我慢がならなかった。

(大丈夫。私はもう学校に行かなくていい身分だから)

 兄が死んでから、兄のことを考えない日はない。

 考える事を止め思考停止したら、私は悲しみに押し潰されるだろう。そのために考える事を止めるわけにはいかない。


 骨髄バンクドナーの片瀬深雪が被った事故は、しばらくの間、連日のSNSでの議論や報道により、世間の注目の的だった。

 問われる自動車の安全性。運転行為に不適格な人物像の選別。その検討に社会的意義。ないし社会的意義があると思いこんだ者たちは、日夜熱心に議論を交わしていたが、私はそうした行為に異議を見いださない。

 私は、ただ兄の事を考え、行動したかっただけだ。

 事故のことはともかく、骨髄バンクドナーが被害者にいたことは、程なくSNSの世界から情報が削除されていった。これは明るみにすることが許されない情報だからだ。無根の事実をでっちあげ、拡散させていった者たちが、一定の処罰を負わされていくに連れ、情報の拡散は止んでいった。

 だからこそ私は、早急にドナーのことを調べる必要があった。

 兄を救うはずだった片瀬深雪とはどんな人物像だったのだろう。

 ドナーという選択をしなければ、兄は助からなかったろうが、少なくとも片瀬深雪は事故に遭わなかった。

 ならば、どうして骨髄バンクに登録した?

 どんな人生を、どういう風に歩み、その結論に至ったのか?

 『ミユキ』と『ユキ』という名前のニアミスも、探求心を後押しした。

 事故直後にSNSで拡散した情報により、おおよその居住地は知れているが、それ以上の情報は入手出来なかった。住所や家族構成も、虚実入り交じった情報が転がっていたが、その住所にのこのこ向かっても、不審者と目されて終わるのがオチだ。

 どうも、情報を平面的に集めるばかりでいけない。

 その日の仕事を終えて、一人暮らしを始めたばかりのアパートへ帰宅する最中に、コンビニに寄った時のことだ。ふと窓際に並ぶ書籍棚に目線が奪われた。

 女性向けのファッション誌や、風水や運勢、スピリチュアルな雑誌が並んでいる中に、けばけばしい色合いで、いかにもゴシップ誌という装丁の雑誌が並んでいる。

 ──週刊誌。

 私は直感した。SNSの情報はそれなりに有力だが、この週刊誌の情報というのは、同じ事実の異なる面をきっと暴き出すと。

 パラパラと手に取りめくると、政治家や芸能人の下世話なスキャンダルや、過去の恋愛や不祥事のことが、数多く掲載されていた。

 SNS上にはびこる偽善的な記事とは一線を画し、それらの情報は、シンプルに好奇をあおり、消費させるだけに特化した情報だった。

 その中に、気になる情報を発見した。

【事故死した骨髄バンクドナーの妹、配信者として活動停止】

 そんな記事が小さく掲載されていた。記事を読むと、それは片瀬深雪の妹の記事だった。その子は動画配信者として活動していたのだが、身内の不幸の直後にも活動していたことをSNS上で非難され、活動を休止したとのことだった。

 スマホで調べると確かに、記事にあった動画配信者のページがあった。

 ハルカという名で活動するシンガーだった。プロフィールの紹介文には活動休止中と記載がある。

 動画の再生回数はいたって少ない。そのため、SNS上で注目されることがなかったのだろう。

 いくつかの動画を閲覧したが、確かに歌も曲も稚拙ではあった。

 だが、それはどうでもよかった。プロフィール欄から消し忘れたのか、『ご依頼等はこちら』という表記の横に、メールアドレスが記載されていた。メールをハルカなる人物が見るか不明だが、そのアドレスにメールを送信した。

 何かを包み隠し誤魔化すつもりは無い。本文にこう記載して返信を待った。

『骨髄バンクドナーだったあなたの姉から、骨髄を提供される予定だった者の妹です。あなたの姉のことに関して一度お話がしたい。返信を待ちます』

 メール本文に心当たりがなければ、速やかに当メールを削除し忘れてほしいと付け加えた。

 仮に心当たりがあっても返信はないと踏んだが、翌日に返信がもたらされていた。

『話ぐらいなら構わない。会う?』

 という返信があった。私は急ぎ返信を書いた。



 ハルカと会うまではスムーズだったが、肝心の姉の事故の件を話すまでに信頼を得るのは骨が折れた。時に一緒に活動し、休止した動画配信再開までの目処を立て、ようやく目当ての話が出来たのが、会って数か月後だった。

 間違いなくハルカは、あの一件の渦中にいた片瀬深雪の妹だった。春に歌うと書き、本名は片瀬春歌といった。

 彼女とは歳が近く、話がよく合った。

「お姉さんとは仲が良かった?」

「あまり。どっちかっていうと苦手だし、共感できなかった。偉そうな題目をいつも掲げてる割に頼りなくて、いつも彼氏に頼ってばかり。そういうところも、好ましくなかった」

 昔はそうでもなかったけど。思い出すようにハルカは言った。

「へえ、どんな彼氏?」

「事故があってから会社辞めて。今は別のところにいる。幼馴染なんだって。詳しくは知らないけど」

 調べようか。ハルカはさもつまらなそうに続けた。

「ユキのお陰で活動再開の目処が立った。誰でもいいから仲間を探してたところだった。そこにメール寄越してきたアンタを信じたのは賭けだったけど、正解だった」

 だから恩は返すと、往年のロック歌手のように斜に構えた様子で話した。

「たぶん、ユキは姉さんの彼氏と話した方がいい」

「失恋した女はすぐ靡くって言うけど、男の場合は次にいくの時間かかるんじゃない?」

 恋愛経験もないくせに、それらしい男女論を持ち出すと、ハルカは面白そうに笑った。

「ハハハ、違うって。ユキはきっと、同類を求めてるんじゃないかなって思った。私は悲しんでない。だから同類じゃない」

 ハルカへの答えに窮した。男女の関係は冗談だが、同類との傷の舐め合いは趣味じゃない。

 だが私は、きっと同類を求めていた。私は私の行動原理の輪郭を、ようやく掴み始めていた。

 後日、情報を得たというハルカから、片瀬深雪の彼氏のことを聞いた。

 もう会うこともないと思うけど。それはどうかな。そんなやり取りをしてハルカと別れた。

 私は新たな住処を探したが、当の片瀬深雪の彼氏が住むアパートに向かい、その目論見も果たされた。

 そのアパートは保証人も不要で、家賃は激安。当然のようにボロボロなのは閉口したが、たまたま空き部屋があった。入居を決めた日に管理人にも挨拶をした。

「こんなボロボロのアパートに若い女性とは珍しいですな。いや、当時は新築だったわけで、いないわけではなかったか」

 ボロアパートとなって初ですな。そう管理人は呵々と笑った。随分な変わり者だ。変わり者には、変わり者として対応すればいい。

「大丈夫です。どうせ長居はしないので。ある人目当てで来ただけです。話しを聞けたら出て行きます」

「ほう。若い男性ですかな?」

 と言われ返答に詰まった。正鵠を射ていたからだ。

「ま、若い女ですんで」

 そう答えて誤魔化した。はっはっは、若いとは素晴らしい。ちょうど隣室が若い男性の方ですよと言い残し、管理人は去っていった。

 気を取り直して部屋に向かった。平日の昼間に隣室に人の気配はない。

 冗談ではなく、私はその部屋の主に会うため、ここにやって来た。

 その日の夜に、隣室の住人の気配を確認し、引っ越しの挨拶に向かった。

 ノックをすると暗い声が聞こえた。

 玄関の扉を開けて顔を見せた人物の表情を見て、私は確信した。

 この人は事故で恋人を失って一年が経っても、未だに悲しんでいる。

 そして私は、私と同じように悲しんでいる人を探していたんだ、と。

「初めまして。隣に引っ越してきた、柊木ユキと申します。夜分にすいませんが、ご挨拶に伺いました」

 暗かった顔が訝しげなものに変わる。

 それが片瀬深雪の彼氏、相沢良介との出会いだった。



 ……柊木ユキの日記はそれからも続いているが、この先は当事者として把握している。

 おでんを差し入れてきたことや、部屋に不法侵入し、掃除を敢行したこと。

 大晦日に喫茶店で話し、改めて隣人が片瀬深雪の恋人だと確認したことが記されている。

 勝手に個人情報を調べ上げられ、恋人の妹まで巻き込み、身勝手なストーカー紛いの行為に手を染めた。

 情もなければ、好みのタイプでもない。知り合って間もないし、そもそも知り合いとすら言えない間柄だ。

 俺はまだ、あの夕暮れの屋上で告白をし、恋人同士となった片瀬深雪を愛している。

 そんな非常識な相手に関わらず、存在を肯定するしかないのは、きっと同類だからだ。

 何もかも捨てて逃げ出した者と、既に目的を失っても追い続けた者。どちらもただの同類だった。

 彼女は向き合うべき悲しみから目をそらし、しなくていい事に身をやつして、現実を生きる振りをして、現実逃避している。

 それはとりもなおさず俺自身にも当てはまる事だ。

「……だからって、他にどうすればいいんだ」

 柊木ユキの日記は自分自身の鏡写しだった。何かがひとつ違えば、同じように悲しんでいるであろう、深雪が骨髄移植するはずだったドナーの妹を、ストーキングしていた。

 だから呟きは、誰に届けるわけでもなく、率直にこぼれたものだった。

 しかしその呟きを聞き届けている者がいた。

 ガタリ、という物音に気付いて振り返ると、ある人物が声をかけてきた。

「ようやく読んだんですね。明日にはその日記、郵便受けにでも突っ込んでおこうと思ってたんですけど」

 玄関口に立っていたのは、この部屋の家主であり、日記の主人公でもある、柊木ユキだった。黒い服を着て、じっと醒めた目でこちらを見つめていた。

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