Scene 8

 ◇

 兄の病室が普通の個室から無菌室へと移動になった。

 私や家族親類とはヒト白血球抗体の型が一致せず、骨髄移植が不可能だったからだ。

 私と兄の型は一致していて当然。最悪でも、家族の誰かとは一致している。それぐらいの認識だった私のショックは大きかった。

「ねえ、本当に親戚全員に検査を受けさせるの? 絶対、後から文句言われそうなんだけど」

 赤の他人よりは血縁者の方が型が一致する確率は高い。自身らが一致しなかった両親たちは、親類らに検査を受けさせる事を渋っていた。

 ──型が一致もしない。協力もしないとか、役立たずが。

 内心で両親を罵ってみても、結果は変動しない。私が主導で親類に連絡を取り、検査を受けてもらうための話をつけた。

 兄が入院をしてから殆ど高校に行ってない。呑気に勉強している場合ではなかった。

 兄のために病気の事を調べ、必要な準備を進めるため、一分一秒も無駄にしない。その一秒が兄の病状改善に繋がるなら、無駄に出来ようはずがない。

 結果的には全てが徒労に終わっていた。

 親類の中に型が一致する者はいなかった。遠縁の者には遠回しに見返りの金品を要求してくる者もいた。そのような利己主義者は適当にあしらい、両親らに対応を投げた。

 私は兄のためだけに行動している。それ以外の一切に興味はない。

「きっともうじき見つかるよ。骨髄バンクドナーは五十万人もいるんだから、見つからない方がおかしい」

『ああ。のんびりと待ってるさ。しかしユキ、ちゃんと学校に行っているのか?』

「行ってるよ。ちゃんとしてる」

 無菌室の兄とは直接対面が出来ないため、通話やメッセージでやり取りをした。

 相変わらず、自分より私の心配をする兄に嘘をつくのも、もう最近では恒例行事だ。

 高校なんて最悪もう一年やり直せばいいし、何なら中退してもいい。兄の健康に代えられるものではない。

 兄は異常白血球の増加に反比例し、化学療法の成果が低下していることに伴い、体内の免疫力が低下しているため、無菌室に移動している。

 時々ビデオ通話で兄の様子は伺えるが、どちらかという固太り体形の兄が、記憶より一回りも細くなっていて胸が痛んだ。

 兄の為に出来ることを考えて、寝る時間も惜しんで行動していく。

 骨髄移植のため型の一致するドナーが必要なら、ドナーの母数を増やせばいい。骨髄移植を待っている人がいるという趣旨のビラを作り、骨髄バンク登録を促すため、街頭で通行人にビラを配った。

 SNSやインターネット上で、署名や賛同を募るシステムを活用し、骨髄バンク登録を促していった。

 いずれも私の主張に賛同する者や、何なら活動のための金を出してもいいと、SNS上でコンタクトしてくる者もいたが、直接登録をしたいという者は皆無だった。

 活動に協力をし、名前を売る計画がありありと透けて、連中の一切を遮断した。

 食い扶持のため兄を利用するだけの両親と同じだ。今の日本は利己主義者の巣窟だ。

「既にお兄さんにも伝えてありますが、改めてご家族にもお伝えします」

 無菌室の兄の様子を見に来た私に、主治医の医者が話しかけてきた。

 兄は無菌室から出られないので、同席して面談が出来ないのだ。

「朗報です。骨髄バンクドナーの中から、お兄さんと型の一致する方が見つかりました」

「本当ですか!」

 十七年の人生で最も嬉しい朗報だった。

 現在は移植手術に向け慎重にコーディネーターが調整している最中だと主治医は言った。

 型が一致するドナー登録者の中にも、骨髄採取のリスクを恐れたり、予定が合わなかったり、職場や家族から理解を得られず、移植手術が実現しないことはザラにあるらしい。

「骨髄バンクのルール上、ドナーの方の情報は患者さん側に渡ることはないし、私も知りません。ドナーから骨髄採取されるのは、また別の病院で、別の医師がやります。今回とてもスムーズにコーディネートが進みました。きっと快く承諾をしていただけたのでしょう」

「ありがとうございます。よろしくお願いします!」

 私は深々と頭を下げた。溢れそうになった涙を見られたくなかったからだ。

 泣くのは兄が回復した時と決めている。溢れそうになったのは光明が見えたから。その光を確実に掴むまで、私は泣かない。



 ……それから移植手術に向け、順調に準備が進んでいく日々が綴られる。

 だがその日々は長くはなかった。

 何故なら、移植手術が中止となったからだ。

 ドナーが交通事故で他界するという、最悪のアクシデントにより。



 ◇

 いつだったか。こんな日々も思い出話のひとつになると兄と笑い合った。

 兄が骨髄性白血病で病臥すると想像もしなかったが、現状は予測可能な領域をはるかに超えていた。

【白昼の暴走事故。被害者には骨髄移植ドナーも?】

【またアクセルとブレーキの踏み間違いか? 複数の死傷者が】

【問われる安全管理。ドナーの命の重さ】

 SNS上のニュースサイトでは、好奇心を煽る見出しを掲げ、一連の事故の事が勝手に報じられている。

 それを見て世の偽善者たちが身勝手な正義論を振りかざし、どこかにでっちあげた加害者をしきりに糾弾している。

 端的に言うと兄の骨髄移植手術は中止となった。

 正確には新たなドナーが見つかるまで延期となったのだが、同じことだった。

 私は主治医に食い下がった。主治医がドナーに関わってないと把握していても、我慢ならなかった。

「私にも分かりません。つとめて順調であると話だけは聞いていました。正直に言えば私も大変に遺憾です」

 主治医も正真正銘に訳が分からないという素振りだった。

 移植手術が中止となる旨を聞かされたのは病院だったが、ライブや演劇の公演とは違う。中止となったと言われても、はいそうですかと納得は出来ない。

 だが主治医も詳細を知らず、取りつく島がない。

 兄より先に家族である私に知らされたが、その事実を兄にどう伝えていいのか分からない。

 結局、どうすることも出来ずに、お昼の病院の待合ロビーでスマートフォンを無目的に操作していた時のことだ。

「これ……まさか」

 気になるニュースを発見した。

 他県のある繁華街で、暴走した自動車が、多くの通行人を跳ね飛ばし、死傷者が大勢出ているというニュースだった。骨髄移植のことで今日は昼までSNSを見ていなかったが、話題に上り始めたのはもっと前らしい。

 時系列を遡ると、ある繁華街での暴走事故が起きたのが朝。

 衆人環視の中で起きた事故で、すぐに凄惨な事故現場の写真や、事故整理、現場検証をする動画がSNS上で拡散していった。

 世間の注目度は高く、大勢の人間たちがコメントをしていたが、その流れが思わぬ方向に進んでいったのが、つい今しがたの昼となる。

【繁華街暴走の犠牲者に、骨髄バンクドナーが?】

 という見出しの記事が目に飛び込んできた。

 昨今多い自動車の暴走事故は「またか」という気持ちが先行したが、ドナーの件の情報は見過ごせない。記事を調べ、あらましに目を通していった。

 繁華街の暴走事故のけが人たちは、付近の拠点病院に即時搬送されていった。

 その衆人環視の中で、大勢の目撃者の中、瀕死の重傷を負ったある若い女性が、救急車が到着するまでの間に、応急救護のため集まった一般人たちに伝えていたらしい。

「……私は骨髄バンクドナーです。今日、骨髄の採取をしないと、助からない命がある」

 だから私が死んでも、骨髄採取をして欲しい。お医者さんにそう伝えてほしい、と。

 付近大勢の人がその発言を聞き、瀕死の若い女性に代わり、救急車で到着した救命士たちにそう伝えた。

 現場での口伝かSNSでの拡散か、スクープを扱う記者が噂を聞きつけ、付近で重大事故が発生した場合に患者を受け入れる病院へ向かった。

 記者のごく一部は、けが人のうち若い女性が骨髄バンクドナーであることを把握していた。

 現場写真はSNS上で広く拡散され、中には血まみれのけが人も映っていた。

 その中で若い女性と目される姿はひとつしかなかった。

 中止になった骨髄移植手術と、暴走事故に巻き込まれた骨髄バンクドナー。

 ただの偶然の一致とは思えなかった。兄に骨髄提供する予定だったドナーとは、この若い女性だったのではないか、と。

 やがて昼間から夕方、夜に至るうちに情報が整理され、私の元にも正式に届く。

 骨髄提供者のドナーが今朝がたに事故に遭い、その日の夕方ごろに緊急手術もむなしく息を引き取った。

 骨髄移植手術は中止せざるを得ないと、主治医から告げられたのはその直後だ。

 交通事故の被害者は、警察により名称が公開される。いくつかの名前が公開され、事故はテレビニュースでも大々的に報じられていったが、SNS上では、放送倫理に抵触しテレビでは公開できない情報も、構わず公開され、拡散されていく。

【暴走事故の被害者の骨髄バンクドナーが死亡】

 という見出しの記事を発見した。記事にはこうあった。


 ──繁華街の暴走事故により、骨髄バンクドナーだった片瀬ミユキ(23歳・仮名)が、搬送先の病院で死亡した。近年多発する暴走事故による大勢の人々の死傷に胸が痛む限りだが、『誰かの命を救えたかも知れない者の死傷』により、安全運転、セーフ機能や、免許所持不適格者の扱いをどうするか、という議論に、更なる波紋を呼び起こしそうである。まずは骨髄バンクのシステムを紹介しようと思う……。


 出来事を客観的に伝えるニュースではない。

 昼の三時にやっていそうなワイドショーのように、社会的テーマを真剣に討論する素振りをし、視聴者の好奇を煽って視聴率を稼ぐだけの番組と同等か、それ以下の記事だった。

 この記事は議論の素振りすらせず、記者の個人的見解をさも大多数の意見と見せかけているだけの記事だった。

 暴走事故に世間の注目が集まっているこの時期、記事の注目度は秒で上昇を続けているようだった。

 記事にある名称とは、仮名でも何でもない。今しがたの警察からの発表にあった内容と一致する。若い女性の被害者が一人だったことから、仮名と称して掲載している。あくまで仮名だから違っていても問題ない。低俗で、姑息なやり方だった。

 何故なら警察から発表があった中に、片瀬深雪という名前があったのだから。



 ……移植手術が中止となった後も日記は続いている。



 ◇

 兄はあまり話さなくなった。

 移植手術が中止になった理由が正式に兄に伝わることはなかったが、世間の報道で把握していた。無菌室の中にもスマホはあるし、Wi-Fiの電波も届く。

 仮に骨髄バンクドナーの側の事情で手術が中止となっても、ドナー側の事情が患者に届くことはないが、情報が拡散する現代社会で、適切に遮断されなかった。それが今だった。

『事故に遭った子は可哀そうだったな、まだ若いのに。ドナー登録しなければ、こんな目にはきっと遭わなかった。家族や恋人に、申し訳が立たない』

「兄さん何言ってるの。若いのは兄さんも一緒。ドナーはきっと見つかるから、兄さんは安静にして待ってて」

 兄もSNS上の情報で、ドナーが事故で亡くなったのを把握している。

 だというのに兄は、至ってサバサバとして、落ち着いている。私の方が取り乱しているくらいだ。

『ユキもこれを機に、俺のことばかりじゃなくて、自分の学生生活や、人生のことを見つめていって欲しい』

 俺はもう、十分にユキには世話になった。そう締め括った。

 兄とはスマートフォンで通話していたが、それからの兄は、通話をしても元来の寡黙さに輪をかけて、話をしなくなった。

 代わりに、未だに面倒がって、骨髄移植実施前後にしか病院へ往訪しなかった両親たちと、時折話しているようだった。

 何を話しているのか不明だが、相変わらず自宅で日々の生活だけに取り組み、兄のことに関与しない両親たちには、何ら影響を与えていないようだ。

 兄の体調は、長い坂道を降りていくように、ゆっくりと下降線を辿っていった。

 薬物による化学療法の成果が出ず、放射線治療により異常白血球を駆逐する手法も取られていったが、それは正常な細胞も攻撃する方法であるし、兄の病状の場合の根治には至らない。

 骨髄バンクドナーが見つからないのか、それとも見つかっても事情があり移植手術に至れないのか。

 事故のせいで余計な情報が頭に入り、心が散々に乱れていた。

 道行けば、あの男性もあの女性も、実は兄と型の一致する骨髄バンクドナーなのに、何らかの事情で骨髄提供に踏み出せないのではないか。そんなことばかり考えてしまう。

 兄は自分の人生を見て欲しいと言った。だが私は、私自身の人生と、兄のため生きる人生が、もう既に区別されていない。

 そればかりを考えているうち、兄は起きているより寝ている時間の方が長くなった。

 兄は面会謝絶で、身の回りの世話は看護士たちに任せるしかないが、私は毎日病院に来て、ロビーで過ごしていた。やることもないのに、ただスマートフォンで情報収集に明け暮れていた。

 そんなある日に、主治医から話があると伝えられた。本来は家族全員で聴くべき事案だが、私しか来ないので、代わりに伝えてほしいとも頼まれた。

 主治医が話した内容はこうだった。

「未だにドナーは見つからず、もし見つかっても、今のお兄さんの体調では、手術と術後の経過に耐えられないので、移植手術は出来ない」

 つまりそれは、兄はもう助からないということか。

 そう伝えると、主治医は「そうです」と答えた。私は何も返せなかった。

 とぼとぼと帰宅し、母に兄がもう助かる見込みがないことを伝えた。

「そう……残念ね」

 と、まるでバーゲン品目当てで向かったデパートで、狙いの商品が売り切れだった時みたいに、サバサバと答えた。

 元来人間と見なしていない人物を、このままでは生ごみでも扱うように処理してしまいそうで、私は自室に引きこもった。

 それから暫く時間が過ぎていき──。

「……面倒なものを、着せられているな。手間をかける」

「別に面倒じゃないよ。兄さんと話すためだもの」

 私はクリーンスーツを着て、兄が過ごす無菌室に入った。

 正常白血球が減少している兄にとって、雑多な菌がいる学校や屋外、自宅で過ごす私が近づくのは、それだけで大変なリスクがある。

 だが、そうして欲しいと主治医から頼まれた。

 リスクを考慮する必要はもうない。つまり、兄はもう長くないということだ。

 クリーンスーツを着るのが面倒だと、両親らは待合室のロビーにいる。彼らのことを私は頭から排除している。

「学校、ちゃんと行っているか」

「うん、行ってるよ」

 嘘ではない。学校で何もしていないが、学校には行っている。

 兄がしきりに言うから、そのためだけに。

「そうか」

 と答えたきり、兄は何も語らなくなった。眠ったのだ。

 それきり兄は、目を覚ますことがなかった。

 兄は、眠るように息絶えていた。

 私は声にならない声で泣いた。

 今はもう、兄にしてあげられる事は、それしかなかった。

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