Scene 7

 片瀬深雪の母との話は、二時間程で締めくくられた。

 謂れなき社会の好奇に苛まれた事を話すのは、心が痛む行為だった。

 子供時代から世話になった相手との、思い出話や近況報告は、同時に久しく遠ざかっていた人と人との対話でもあった。

「今日は時間作ってもらい、有難うございました」

「いつでも遊びに来て欲しい。夫と春歌も、良介君と話したがっていたから」

「ええ。また気持ちに一区切りがついたら、是非」

 温厚に笑う深雪の母にそう答えるが、今はもう関わりない片瀬家に出入りする機会は、きっと多くない。

 片瀬春歌はるかというのは深雪の妹で、事故の時は高校三年生だった。

 深雪とは親しい間柄だが、妹と関わりはなく、あれ、と思った。

(そういえば、二か月程前に春歌ちゃんから電話がかかってきた)

 以前に勤めた会社を辞め、どこで何をしているのか聞かれた。

 残された姉のスマートフォンから連絡先を知ったらしいが、意図は分からなかった。

 それよりも今は、目の前の事案を検討すべき時だった。

 片瀬家を後にして、電車を乗り継いでアパートへ帰宅している最中、深雪の母の持つ資料に載っていた名前について思索する。

 骨髄移植手術を受けられず、骨髄性白血病で早世した、柊木裕太という人物。

 やや珍しい苗字だが、隣の部屋に引っ越してきた人物と同一名である事は、ただの偶然で片付けるのは困難だった。

 隣人の柊木ユキは、「生前の片瀬深雪に世話になった」と説明をした。

 内容は未だ不明だが、骨髄バンクへのドナー登録の件と無関係とは思えなかった。

 一連の断片的な情報から、関連性を示唆する根拠を獲得するための手段はひとつしかない。

「……柊木ユキに話を聞いてみたい」

 それ以外の手段を、今は思い付きそうになかった。

 寒々しい灰色の空の雲間から、薄っすらと日の光が滲んでいる。まだ夕刻には早い時間に、アパートへ帰還をした。

 自室の扉も、隣の部屋の扉にも、出かけた時との差異はない。

 隣人は数日前から不在にしていると、管理人が話していた。

 連絡先は分からない。ふらっと出て戻らなければ、話す機会はもう二度とない。その可能性を危惧し、アパートの廊下に立ち尽くしていた時のことだ。

「柊木さんが気になりますかな?」

 だしぬけに声をかけてきたのは、アパートの管理人だった。

 返答に窮していると、管理人は返事も待たず、善人顔で続けた。

「や、相沢さんの事情は知りませんが、管理人として気にしとるんです。暫く留守と伺っておりますが、思ったより早く戻ってから、閉じこもって不測の事態に遭う恐れもある。それは困るのですわ」

 昨今は一人暮らしの孤独死が増加の一途で、管理人としては気を揉んでいると話していた。

「相沢さんは気になりますかな?」

「個人的に話したい件はありますが、別に今である必要はないので」

「私は管理人として気になるので、柊木さんの部屋をあらためます」

 事もなげにそう告げ、柊木ユキの部屋の扉をノックした。

 ノックの音に返事がないのを確認し、管理人は無造作に合鍵を鍵穴に差し込んだ。

 鍵を開けて合い鍵を引き抜き、ドアノブに手をかけると、しばし間を空けて管理人はこう言った。

「ハハ、ちょっと怖いですな。相沢さん良ければ開けてみますか」

 責任は私が取りますと、変わらぬ調子で続けた。

 半ば呆れつつ、茶番劇は早々に打ち切るべきと判断した。管理人と扉の間に割り込むように入り、「開けます」と宣言しドアノブを捻った。

 扉を開けると、暫く人の出入りが無かった部屋の、冷たい空気が流出する。

 眼が慣れてくると、カーテンを閉め切った部屋の中の景観が、露わになっていく。

 自室と全く同じ間取りで、玄関から見通せるリビングには、調度の類が一切ない。

 掃除は行き届いているが、引っ越したばかりを差し引いても、生活感がない部屋だった。

 台所だけは器具や調味料が所狭しと置かれているのは、料理をかなりやっていたからだ。

 部屋の観察はそこそこに、ただの留守中をを確認し、廊下で控えている管理人に伝えた。

「何事も無さそうです。早く鍵をかけて引き揚げましょう。管理人さん?」

 返事がないのを訝しむと、背後に管理人の姿がなかった。どういう了見なのか不明だが、鍵をかけねばこの場を離れられない。

 室内に視線を戻すと、殺風景な部屋の中、居間のテーブルの上に、ハードカバー調の帳面が置かれているのに気付いた。

 本や雑誌が一冊もない部屋に、帳面が一冊置いてあるのは、奇妙に異質だった。

 片瀬深雪に世話になったと自称する柊木ユキ。

 骨髄バンクへの登録と、事故で移植手術が不能となった一件。

 それらを繋ぐ根拠が、あの帳面に記されている気がしてならなかった。

 以前に自室に不法侵入された一件が管理人の勝手な判断が原因なら、今回の件もまとめて管理人のせいにすればいい。

 それぐらいの気持ちで、柊木ユキの部屋に、無断で侵入をした。

 家探しをするためや、年若い女の部屋に対する好奇ではなく、あの一冊のハードカバー本が、どうしても気になったのだ。

 部屋に入り、速やかにテーブルの上の帳面を確認をした。

「日記帳か」

 DIARY、とハードカバー調の帳面の表紙に記されていた。

 隣人が思わせぶりに残した日記帳に興味惹かれたが、自室に持ち帰れば窃盗になる。

 そして管理人はどこかへ姿を消して戻る気配がない。

 状況に後押しされるよう、そのハードカバー調の表紙の日記帳を、1ページずつ捲っていった。

 柊木ユキの日記は、日付を連続し記述する箇所と、数日、ときに数週間の間を空けている箇所で構成されていた。

 始まりはおよそ二年前の日付に遡り、その時の柊木ユキは高校二年生だったようだ。

 彼女には、一回りほど年の離れた兄がいた。

 日記は兄がある病気に罹患し、入院したことを契機に始まっている。

 病名は、急性骨髄性白血病。血液のガンとも呼ばれる病だった。



 ◇

 今日、兄が入院をした。

 半年ほど前から顔色が優れず、体調の不安を訴える素振りが度々あった。

 普段のように力が入らず、疲れやすく、睡眠を十分取っても疲れが取れない。

 当初は加齢による現象と決めつけ、病気のせいと思い至るのに時間がかかった。

 病院で診てもらうよう都度強く勧めたが、休みの取りにくい職場で、元来、体の頑強さに自信を持つ人だったのも、病魔の進行を許す一因となった。

 寡黙で働き者の兄を肉親として好いていた。ああでもない、こうでもないと好き勝手に話す私の言葉をちゃんと聞き、現実的な返答をもらえた時、私は安寧を抱いていた。

 そんな兄を病院に向かわせたのは、たまたま流れ出た鼻血が止まらなくなったからだ。

 父母はたかが鼻血と興味がなく、私が兄に一緒に付き添い、公共交通機関で最寄の拠点病院へ向かった。

 血が止まらなければ急患だ。応急処置を受け鼻血は程なく止まったが、兄は同日のうちに精密検査を受ける運びとなった。

 精密検査の結果は、急性骨髄性白血病だった。

 先天的な遺伝子の機能不具合などにより、骨髄中にある造血幹細胞がガン化し、正常な血液が作られなくなる病気だ。

 異常な疲れやすさは正常な赤血球の減少。

 鼻血が止まらなくなるのは、正常白血球細胞減少による。

 いずれも骨髄性白血病特有の初期症状だった。

 放置して進行すると、異常な白血球細胞が全身の臓器に浸潤し、機能低下を引き起こして患者は死に至る。

 臓器への影響が第二度とすれば、兄はギリギリで第一度の初期症状に踏み留まっており、あと一歩遅ければ命の危険もあったらしい。

 大きな体躯で、似合わない病院着を着込んでベッドに横になった兄は、さも気軽そうに言った。

「すまんな、高校を休ませてしまった。ユキには迷惑をかけている」

「そんなの気にしないでいいよ。兄さんこれまでずーっと真面目に働いてたんだから、これを機にしばらく休んでいなさい」

「ハハ、了解した」

 応急的な手当てで、幾分顔色を良くした兄は、ベッドでからからと笑った。

 急性的な症状は落ち着いたが、しばらく入院しての治療が必要だった。

 化学療法により、異常な白血球細胞を体内から駆除する治療を進めていくと、インフォームド・コンセントにあたった主治医の話だった。

 本来は家族立ち会いで同意を得るのが一般的だが、しばらく入院していれば直る、程度の認識しか持たない父母は、病院に往訪すらしなかった。

 むしろ、有給休暇取得日数のうちに病気が完治せず、休業扱いで給与が減ることを懸念していた。父は現役で働いていたが、もうじき定年を迎えるに当たり、正社員から嘱託社員扱いとなり、給与額が減少したため、兄の収入に依存する割合が増えていた。

「いつごろ復帰できるのかしら。入院中も在宅勤務扱いで働くことは出来ないのかしら」

 そんなことばかり気にする母を無視し、兄の入院のための準備をした。

 危機意識のかけらもなく、ただ親は親だから親。子は子だから子。子は親が働けなくなったら代わりに働くもの。そのうち嫁をとり、子を成し、同じことを繰り返していく。化石のようなその考えを信じて疑わず、思考停止した父母を私は人間と認めてなかった。

「明日もお見舞いに来るからね」

「勉強が遅れるから程々にしてくれ……十分、看護士さん達に面倒みてもらっているから大丈夫だ」

「じゃあここで勉強するから大丈夫」

 テコでも動かない私を、兄はしょうがないなと折れて、許してくれる。

 木訥で真面目だが、私には甘い兄が、私は大好きだった。

 病院の清潔な個人部屋で、私たちは笑い合っていた。

 私の人生はまだ二十年にも満たないが、長く生きていればこういう事もある。

 一年も後には、あんなこともあったねと笑い合えるだろう。そう思っていた。



 ……日記はそれからも、入院した兄との事を記述している。

 化学療法が始まり、入院した兄とのやりとりや、世話をしていることを書き、独自に骨髄性白血病という病気についても調べたことも、細かく記載されていた。

 あの柊木ユキの手による日記とすれば、さもありなんという内容だった。

 いわば不幸な出来事ではあるが、そんな状況を受け入れ、乗り切るために、親愛なる兄を支えていく。その気概と、実際的な行動がよく記された日記だった。

 それからも日記は続いているが、兄の症状が思ったより好転していかない事実に、焦りや苛立ちを募らせる色を、徐々に強めていく。



 ◇

 今日は担当医師から説明があった。

 父母は相変わらず同席をしないので、その日もお見舞いに来ていた私が、兄と一緒に説明を聞く運びとなった。

「かつて、こういうことは患者さんご本人には伝えなかったのですが、時代は代わり、医療も進化しています。そのことを踏まえて聞いてください」

 主治医はそう前置いて話し出し、兄と私は神妙に頷き聞いていった。

 入院してすぐに始めた化学療法は一定の成果を上げているが、想定より異常な白血球細胞の増殖が早く、いずれ化学療法の薬剤が通用しなくなる恐れがある。人間の体は外来物に適応していくので、異常細胞が薬剤に耐性を持つと、投与に対する成果が減少していく。

 つまり、今以上に化学療法では成果が上がらない。

 増えすぎて薬剤で対処しきれない異常白血球細胞を放射線治療で取り除く手法もあるが、根治には至らず、正常な細胞も傷つける恐れがある。

 そうなると、新たなる手法に手を伸ばす必要がある。

「異常な白血球細胞を生み出す骨髄を治療するため、造血幹細胞移植手術、という手段を進めていきます」

「かつて骨髄移植とひとくくりに呼ばれていた手法ですね。正常な骨髄細胞を、患者さんの骨髄に移植する」

 私はそう答えた。ここのところ私は白血病について徹底して調べている。

 主治医は頷くと、かつては医療技術や精度の問題で、術後の予後が悪かったが、今は手法に様々な改良が施され、生存率と術後のQOLも目に見えて向上していると説明した。

 しかしながらその手法には、越えねばならない問題がひとつある。

「妹さんは承知しているかも知れませんが、患者さん。つまりお兄さんの、ヒト白血球抗体が一致した骨髄提供者を探さねばなりません」

 兄弟姉妹間であれば約3割。親子では稀の一致のみ。

 そして非血縁者では数百万分の一しか一致しないと言われている。

 それがヒト白血球抗体だ。

 主治医の説明は、私が調べていた内容と一致していた。

「私を調べてください。一致していたら好きなだけ使ってください」

 そう身を乗り出すと、

「ドナーにも危険が及ぶ可能性があると聞いたことがあります。妹を危ない目には遭わせられない」

 隣に座る兄が更に身を乗り出した。

「兄さんの命の危機でしょう!」

「おまえの命の方が大事だ」

 そんな兄妹喧嘩を、主治医はまあまあとやんわり手で制してくる。

 先ずは親族から骨髄細胞の検査をし、ヒト白血球抗体が一致すれば、移植手術の準備を進める。

 もし一致しない場合は、骨髄バンクに登録されている骨髄提供者ドナーから一致する型を探す。国内での登録者は五十万人を超え、うち骨髄移植に至ったのは二万五千例となる。

 移植手術の実施数と生存率は増加の一途で、かつての印象ほど、一縷の望みを託すほど細い道筋ではない。十分に現実的な視野内にある治療法だと、主治医は話した。

 ドナーへの危険もゼロではないが、移植手術自体と同等の万全体制で臨むため、仮に何か異変があっても迅速に対応出来るとのことだった。

 それならばと、兄妹の二人は納得した。

 その日のうちに私は検査を受けた。結果が分かるのは数日後だが、父母や親族間でも、検査を進めるよう主治医は提案をした。

 同時進行で骨髄バンクのドナー登録者の検索も進めていくと方針を決定した。

 ──骨髄バンク。

 ドナー登録は十八歳から可能。私はまだ歳がひとつ足りないが、兄の病状が回復をし、退院の日を迎えたら、私も骨髄バンクに登録をする。そう決めていた。


 だからどうかお願いします。

 私と兄の型が一致していて欲しい。でなくとも、家族親族と一致していて欲しい。

 私はそう祈っていた。

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