Scene 6

 列車からの車窓の光景が、次々と移り変わる様を、窓際の席で眺めている。

 普段の出勤で使う駅から数駅。更に一回乗り換えをして、目的の駅に向かう。

 一時間には満たない程度の移動時間で、かつての恋人の事を考えている。これから会う相手と話すべきことや、伝えるべきこと、聞くべきことを整理する時間に最適だった。

 電車を乗り換えると、景観は過去の記憶の中にあるものに変わっていく。

 当時勤めていた会社への通勤や、深雪と連れ立って出掛ける時によく利用した路線となる。

 一年間利用を控えた路線の、見慣れた景観を眺めていると、一気に気持ちが一年前に遡り胸が詰まった。

 約束の時間の一時間後までに、気持ちを整理しておく必要がある。

 今から向かう駅中の喫茶店で、片瀬深雪と最後に会った時に交わしたやり取りが、引っ掛かっていた。

 今でもあの時の深雪の、一言一句を思い出すことが出来る。

『今週末に予定してたデート、実は急用が出来てしまって、行けなくなってしまったの。どうしてもの急用で、要件先の人の都合もあって、内容は言うことは、出来ないんだけど』

 あの時の深雪は、メッセージや通話で済む話を、わざわざ喫茶店で待ち合わせて話した。

 大学を卒業してからの深雪は、特に思い詰める傾向があり、簡単な用事で呼び出したり、些細な失敗で落ち込むことが多かった。

 あの頃らしい深雪の行動で、特段気に留めることは無かったが、今なら違和感に気付く。

 デートの約束を反故にすることは、互いに稀にあったが、その理由を明示しなかったのは、あの時が初めてだった。

 深雪には深雪の事情があり、その深雪を受け入れて支えていくと、心に決めて曲げるつもりは無かった。

 だがそれは思考停止で、夢を諦めた深雪も彼女なりに進んでいた事実を蔑ろにする行為だったと、柊木ユキに教えられた。

 時間が遡ることはないが、あの時の深雪の真意を、どうしても知りたい。

 電車はやがて目的地の、一年前によく利用した、深雪と自分の実家の最寄りの駅に到着する。

 サラリーマンが多く行き来する、平日の駅中を抜けていくと、当時よく利用し、最後に深雪と会った喫茶店があった。

 一年ぶりに見ると、店名が変わっており、店の景観も少し変わっていた。

 今はもう用事のないその場所を通り過ぎ、駅を抜けて片瀬深雪の実家へと向かう。

 一年前に恋人だった女性で、事故死したその人の話を、一年を越して聞きに行くために。



 駅から十分ほどを歩くと、次々と見慣れた街並みが現れ始め、景観を見ないように努めた。

 未だにその郷愁が息苦しいのは、支払いを先送りし、一年間逃げ続けたツケでもある。

 しばらく記憶のまま道を進むと、やがて目的の標準的な一軒家に辿り着く。

 迷う時間を払拭するため『片瀬』という表札を確認し、直ぐにインターホンを押した。

 数秒待つと、

『どちら様でしょうか?』

 という女性の声がスピーカから聞こえる。

「ご無沙汰しています。相沢良介です」

『……今、開けますね。ちょっと待っていて』

 今頃に往訪すると伝えていたが、相手はどう切り出すべきか一瞬迷うように、言葉に詰まる瞬間があった。

 開けられた玄関扉の先で、侘しげに郷愁の念を滲ませた人物に迎え入れられた。

「久しぶりね、良介君。訪ねてきてくれてとても嬉しいわ」

「こちらこそ。一年前からずっとご無沙汰しており、申し訳ありません」

 挨拶を交わす相手は、昔から幼馴染の家族として世話になっていた、片瀬深雪の母親だ。

 子供の頃に比して、高校生、そして大学生と歳を重ねるに連れ、顔を合わす機会は減った。

 片瀬深雪の葬儀の席で、憔悴した深雪の母と話してから一年。もう二度と関わる機会はないと、決めつけていた相手でもあった。

 深雪の母に促され、子供の頃よく遊びに来た家に上がった。

 通された和室の一角には仏壇が備えられ、開いた扉には、社会人になったばかりの頃の、スーツ姿の片瀬深雪の遺影が置かれていた。

 深雪の母に一礼し、仏前の座布団に座り、遺影の中の片瀬深雪と向き合った。

 彼女の死を受け入れていない今は、まだ特に言葉が浮かばず、無言で線香を上げた。

 いつかまたちゃんと話しに来ると、今はそれだけを伝えた。

 仏間を後にすると、深雪の母にリビングへと通された。丁重に飲み物を出され、テーブルを挟んで向き合うと、何から話そうと構えた気持ちは解け、自然と言葉が発せられた。

「あれから……結構、大変でしたよね。社会の関心とかニュースとか」

「そうね。今の世の中は、きっと昔はただの事故として、ひとつのニュースになるだけだった事が、おかしな注目を浴びちゃう。知っていたけど、渦中になると思わなかった」

 やや疲れたように深雪の母は話すのは、深雪が不慮の事故で亡くなった直後のことだ。

 その世間からの注目度や、一般の人々からの、偽善的な他人事のような議論に心底の嫌気が差した。家族と住む実家や、元の職場や学生時代からの付き合い。そしてSNSの界隈や、片瀬深雪本人と、その家族からも、関わりの一切を遮断し、逃げ出していた。

 体よくある一部から逃げられるほど、自分は器用な人間ではないと判断した結果だった。

 今でも家族や学生時代の友人ら。そしてSNSとも距離を置いている。

 今でこそ収まったが、当時は親切心を装った、見え透いた好奇のコンタクトが多かった。

 中には恋人を失った男を心から心配し、声をかけてきた者もいたかも知れないが、その区別をつけられるほど、重ねて器用ではなかった。

 深雪の母は、こう続けていった。

「あの時の遺族の方々とは、当時よく話したし、今でも関わる人はいる。でも遺族も様々で、社会問題として法改正に取り組む人々や、当時からそっとしておいて欲しい人々、いろいろいた。私たちは、金額や法律のことは、弁護士さんにお任せして、ちゃんと日本の法律に則り、事故の処理が進むのを見届け、今は離れている。そんなんじゃ手ぬるいと声を上げる遺族の方々の気持ちも理解は出来たけど」

「あれほどの事故だったので、そう言う人々も、今でも多いのでしょうね」

 深雪の母は当時の資料を見て、思い出すように頷いた。

 その資料の部分部分に、事故で大破した自動車や、破損した道路のガードレール。その周囲で見分をする警察官達の映った写真が掲載されている。

 ある繁華街で起きた自動車の暴走事故で、多くの車とその運転手と同乗者。そして歩行者が怪我や重症を負い、少なくない数の人が帰らぬ人となった。

 事故を起こした自動車の運転手は、運転技術が未熟であり、小さな接触事故を起こしたことで、気が動転し、我武者羅にアクセルを踏み込んだ。現場は車と人通りの多い繁華街で、数々の接触事故や衝突を繰り返し、最終的に赤信号の交差点に突っ込み、トラックと激突して停止した。そういう経緯だった。

 交差点の手前で、通行人が歩く横断歩道も猛スピードで突っ切ったため、横断中の通行人にも多数の死傷者が出た。

 その通行人の中の一人にいたのが、片瀬深雪がいた。

 事故が起きたのがある週末の土曜日で、それは深雪から反故にしたデートの約束をしていた日付だった。

 当時は気にも留めていなかった……いや、留められなかった。

 片瀬深雪が交通事故で命を失い、二度と関われなくなったことの喪失感。周囲の社会や、SNSでの過剰な注目の中、深雪との思い出だけは誰にも触れさせたくない一心で、全てから逃げ出した。

 だが、いつまでも逃げ続けるわけにもいかないと決意させた理由が、隣に越してきた人物からもたらされた気付きだった。

「深雪が事故に遭ったあの日、実はデー……会う約束をしていました。深雪はそれを、どうしても別の要件があると、反故にしました。珍しいなと、それぐらいに考えていましたが、もしかすると、彼女は、何か俺が思いもよらないことを考えていたのかもしれない」

 そう思うに至り、往訪させて頂いたと伝えると、

「ふふ、遠慮なくデートって言ってもいいのに。両家の家族公認だったんだから」

「あ、いえ」

 いたずらっぽく笑う深雪の母に、あやふやな言葉で誤魔化すしかない。

 気を良くしたように、彼女は更に続けた。

「いつか良介君が、義理の息子になるのかなって思ってたけど。そうなったら嬉しいって、深雪によく話していた。もちろん深雪も、満更じゃなかったわ」

「ハハハ……それは光栄です」

 母娘の一致した認識による結婚相手としては、平身低頭するしかない。

 しかし深雪の母は、ふと思いつめたように表情を曇らせた。その面差しが深雪と似ていて、一瞬だけ息が止まった。

「脱線しちゃった。深雪と良介君のデートの日に、あの子が約束を反故にしたのはね、あの子が骨髄バンクのドナー登録をしていたからなの」

「骨髄バンク?」

 深雪の母が話した単語を繰り返すと、彼女は更に続けた。

「誰かの役に立ちたい。幸福のために働きたい。外国で深雪は働きたいと言っていたけど、大学での学びがうまくいかなくて、日本の企業に就職した。けど親としてはね、内心で安堵していたの。だって、外国の政情不安定な国でなんて、働いて欲しくないでしょう?」

 典型的な、利己的な親の考えだけど。そう自嘲する深雪の母に、黙して話を促すしか出来なかったのは、ほぼ同じことを考えたからだ。

 様々な事案から、夢破れた深雪に対して、夢を諦めた深雪として接していた。決して諦めたくなかっのに、諦めざるを得なかった。その気持ちの変遷を抱えた片瀬深雪を省略して。

 深雪は深雪だったが、どこか頑なところを覗かせるようになったのは、それからだったかも知れない。

「今の私なりに、誰かの助けになりたいから。深雪は骨髄バンクのドナー登録についてそう話していた。登録には家族の了承が必要だから。それは、あの子が大学を出てすぐのことね」

「骨髄バンクのこと、深雪は一言も話さなかったけど……」

「なんとなくだけど、私には娘の気持ちが分かる」

 深雪の母は、深雪によく似た面差しで、こう続けた。

「良介君、あの頃、新卒で就職した会社で、すごく活躍していたから。毎日勉強して、新しいことを覚えて、仕事にフィードバックしてた。しょっちゅう深雪はそう自慢していた。自慢の恋人が羨ましい、だなんて囃し立ててあげると、深雪も満更じゃなかったけど、私が思うより、きっと根が深かった」

 当時の会社では、活躍というより必死だったに過ぎない。勉強も渋々取り組んだが、夢破れた恋人を支えるためという、今にすれば歪んだ目的意識はあった。

「恋人と並んで、自立して進んでいきたい。自慢の恋人、だけではなく、恋人にとって自慢の私自身にならないといけない。でないと良介君と、釣り合わない」

 私でも、同じようなことを考えたかも知れないと、深雪の母は続けた。

 そんな素振りを深雪が見せることは、度々あった。良介君は立派で、がんばっていると、深雪は度々話すことがあった。弱り目を覗かせる恋人を支えるための行動は、逆効果だった。

 答える言葉も全くなく、ただ黙っていると、

「聞いてくれて、ありがとう」

「え?」

「良介君、あれから連絡がつかなくなって。でも、娘の気持ちをちゃんと聞いてくれて」

「いえ。俺はもっと早く……いえ。生前の深雪からそれを聞くべきでした」

 そうしたとしても、何かが変わったのかは、それは分からない。

 だがその先立たない後悔から逃げ続けていたのは、これまでの一年そのものだった。

「骨髄バンクに登録しても、直ぐに移植出来るわけじゃなくて、適合者が見つかるのはとても低い確率だけど、偶然に見つかったのね。深雪と適合性が一致し、骨髄性白血病という病気で、苦しんでいる人が。その移植手術をするのが、深雪と良介君がデートする予定の日だった」

「え?」

「移植は患者さんとドナー双方の都合で決めるから、その日じゃなくても良かったはずだけど、提示された中で、最も早い日付がその日だったの。患者さんは別の病院だけど、骨髄採取のために、その病院に向かう途中に。深雪は事故にあった」

 深雪は確か、数日は連絡が取れなく、会えないかも知れないと言っていた。それが骨髄移植のためとなることを、今、ようやく知ることとなった。

 思索が追い付かない中、それでも聞いてみたいことがあった。

「その、深雪の骨髄を必要としていた人がいたということは、その人は」

「ドナー側に、移植手術を欲している人の情報は、本来は一切渡らないの。様々なトラブルを回避するために。けど……」

 深雪の母は、更に手元にある資料を探し、一枚の紙を見せた。

「世間的な注目度が高かったせいでしょう。誰かが深雪が骨髄提供者で、採取の前に事故に遭ってしまったことを調べ上げた。結局、骨髄移植は実施されず、別のドナーも見つからずに、その患者さんが亡くなってしまったことまで、ネットやSNSでは拡散されていった」

 深雪が巻き込まれた大規模な事故。

 運転手の過失による、自動車の暴走事故だったこと。

 大勢のなんの罪もない人々が、一瞬で未来を奪われたこと。

 その中には、骨髄提供者として、誰かの命を救った者が、いたかも知れないこと。

 事故のことで周囲やSNSが騒ぎ立てるのに嫌気が差し、それらの一切すべてを遮断したため、初めて知る事実が多くあった。

 何ら関係のない第三者たちの、偽善的な議論が活性することは、想像に難しくない。

 当時を思い出すように、冷めた表情で深雪の母は続けた。

「骨髄バンクの情報や、患者さんの経緯は、事故には関係がないし、明かされてはならない情報だから、出所はもはや不明だけど、その情報は、粛々と削除されていったようで、今はもう残っていない」

 ある意味で、この資料は貴重ねと、自嘲気味に笑った。

 その資料はどこで入手したのかと聞くと、深雪の母はこう続けた。

「親切に、ウチの住所を調べて、送ってきた人がいるのよ。郵送なんて手段だったから、警察に話したら、送り主を調べ、全く関係のない第三者だったのが発覚。SNS上の情報を、知っておいた方がいいと、正義感で送ったみたい。別の第三者が勝手に調べた、ウチの住所の情報にね」

 当人は警察から厳重注意を受けたらしい。

 資料は処分したいが、移植手術が行われず、亡くなった人がいると知ってしまった今、安易に処分はしたくないと、深雪の母は話した。

 その資料を見ると、深雪の実名や、移植手術を受ける予定だった相手の情報まで記載されていた。そのある一点の情報に注視し、言った。

「……この方が、移植手術を受けるはずだった方なんですね」

「ええ。だから深雪の、自己管理の甘さを責める声もあったようだけど、あんな事故に対し、そんなこと出来るはずがないのに」

 悔しさを滲ませて深雪の母は呟いた。

 心中は察するに余りあるが、その移植手術を受ける人物の名前が気になった。


 柊木ひいらぎ雄太(27)


 資料には、そのような名前が記載されていた。

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