Scene 5

 百貨店の新年の初売りは、日本人にとって魅力的な行事に映るらしい。

 普段の十割増しでお客の多い売り場を行き来していると、一瞬で勤務時間が過ぎていく。

 商品の種類や値段の問い合わせ、迷子の世話。陳列と在庫の補充で息をつく間もない。

 また正月の初売りには定番のアイテムも、今日の集客と混雑を一層に助長している。

「福袋をお求めの方は、整理券を受け取り、こちらの列にお並びください。お会計は別になりますので、専用のセルフレジでご会計お願いしまーす」

 管理センター担当の上司役の女性同僚の明るい声が、混雑する売り場に響いていく。

 福袋の売り場に大勢のお客が殺到し、今日はフロアも兼任するフロアマネージャの彼女が、お客の整理と誘導を一手に引き受けていた。

 空いた時間でタブレット端末で、在庫の確認や、チームの予定も作成している。

 決して仕事不熱心のつもりはないが、彼女の仕事ぶりを見ていると、熱心な仕事ぶりに自分は程遠いと自覚をする。

 忙しさが好ましいのは、余計な事を考えずに済むからで、熱心に仕事に取り組みたいわけではないが、それなりに力を発揮しないと今日一日を乗り切れない。

 最低限の休憩時間を挟んで、業務に取り組んでいるうちに、徐々にフロアからは人けが少なくなっていく。元旦は時短営業のために夕方の六時に閉店となる。とっくに福袋も売り切れて、六時近くなり閉店の準備を進めていた。

 フロアマネージャの女子社員が、疲れた素振りも見せず話しかけてきた。

「今日はお疲れ様。今年は相沢君がいてくれて助かったよ。君は手際がいいよね」

「普通にやってるだけだよ。ともかくお疲れ様」

 営業は六時までだが八時まで業務は可能のため、彼女は明日以降の予定や準備をしていくはず。その仕事ぶりには頭が下がる。

 手早く片付けを終え、終礼を済ませると、事務フロアではやはりフロアマネージャの女子社員が、PCに向かい業務していた。戦争のような元日業務と現場での指示連絡に、売り場とは反対に、大して暖房も効かず、空調のよくない事務フロア。疲れないはずがなかった。

 ロッカー外の飲み物の自動販売機に向かい、直ぐに戻ってくる。

 フロアマネージャの女子社員のデスクに寄っていき、飲み物の缶を置いた。

「あまり無理しないように。明日も明後日も忙しいだろうし」

「え? あ、ありがとう。貰ってもいいの?」

「そのために買ったんだ」

 デスクに置いたのは、缶入り汁粉の缶だった。数秒も持っていられない程に熱々で、中には甘い餡子が詰まっている。興味も嗜好もそそられない飲料だが、彼女の好みの品物となる。缶を両手で持ち、手や頬を温めたりしている様は、小学生のようだ。

「ありがとう相沢君。でもあまり優しくすると、好きになっちゃうから気を付けてね」

「あくまで同僚としての気遣いだよ」

 知ってる、とどこか見透かしたように彼女は言った。

 その理由が不明でも、今は恋愛事に消極的なことは、同年代の女性には見通せるだろう。

 実際問題として下心や他意は全くなく、寒い時期に温かい食べ物や飲み物を貰うと、心と胃の両方が満たされると最近知ったからだ。

 挨拶をして事務フロアを出て、正月らしく静まった街の中、帰宅のため最寄の駅へと向かった。



 アパートに帰宅したのは夜の七時前頃だが、一見して自室の異変に気付き硬直した。

 部屋の明かりが点いていて、中からは人の気配がするという異常事態だった。

 もちろん部屋の鍵はちゃんと締め、電灯も消灯させて出発している。

 予想外の事案が過ぎて、硬直していた時間は短くなかったが、まずは警察に連絡をするか、それとも管理人を通すべきか。在室する人物が、どういう目論見なのか不明だが、命に係わる危機には違いない。アパートの廊下を、慎重に後ずさっていたその時だ。

 部屋の玄関ドアが唐突に開き、思わず声を上げて飛び上がった。

「あ、おかえりなさい、相沢さん」

 中から顔を覗かせたのは、特別構えた様子も見せない柊木ユキだった。すぐ隣となる彼女の部屋と間違えたのかと確認をするが、よもやそんなはずはない。

「……何してるんですか柊木さん。部屋を間違えたんですか。あなたの部屋は隣でしょう」

「ふふっ、相沢さんの冗談って面白いですね」

 そう言って柊木ユキは快活そうに笑うが、冗談を言ったつもりはない。黙って無反応でじっと見つめていると、彼女はこう切り出した。

「実は昨日お話を聞かせて頂いたお礼をしたくて、相沢さんのお部屋のお掃除してたんです。大掃除とか、ご挨拶に伺った時とか、部屋の中ちらっと見えた時、やってなさそうに見えたので。折角なら正月らしい料理も振舞って差し上げたいなって思って」

「どうやって俺の部屋に入ったんですか?」

 立て板に流した水のように話す彼女の言葉を、半分くらい遮るように疑問をぶつけた。

 事と次第によっては、やはり警察に通報する必要があるが、柊木ユキはこう答えた。

「管理人さんに鍵を開けてもらいました。最初は当然断られましたが、どうしても、ご恩返しがしたいからと伝えたら了承頂きました」

「……ちょっと待っていてください」

 すでに室内にいる柊木ユキに今更何を言っても、状況は変わらず、徒労しかない。

 自室前から離れ、アパートの入口に戻り、管理人へ電話をかけた。夜分という時間帯だが、構ってはいられなかった。管理人はごく離れた別の場所に住んでいるが、何せ自室に別の誰かがいる状態で、いちいち出向いてはいられない。

 幸い管理人はすぐに電話に出たため、挨拶もそこそこに本題をぶつける。

「困りますよ。いや、困るというレベルじゃない。住人の部屋に、赤の他人の別の人間を勝手に入れさせるなんて、常識はずれにも程があります」

 すると管理人は、特段悪びれもせずにこう答えた。

『いや、どうしても恩返ししたいからと押し切られましてな。相沢さんのこともよく知っているとのことで、親しいご様子だったんで』

「俺は彼女のことを殆ど知らないので、向こうの一方的な認識で、親しい間柄ではありません。何なら事前に俺に確認をしたっていいはずです」

 問題点を指摘するが、管理人はのらりくらりと躱し続ける。指摘もしつくされた頃合いで、管理人はこう言った。

『どこで知ったのか、相沢さんの隣の部屋を所望して、越してくる変わり者。何か大それた、切実な目的があるんじゃないかなあと、情が移ってしまったわけです。相沢さんの妹みたいなものですとも仰っていたもので……』

 そういう人の目的を阻むのは気が引けたと、管理人はようやく本音らしき発言をした。

 保証人も要らず、築四十年は下らないボロアパートに、リフォームもせず、格安で住人を住ませている。そんな物件には、何か目的があるのに辿り着く手段を持たぬ者や、悲しい現実を儚み、世捨てのように逃げ込んでくる者が集まってくる。

 いずれにせよ、このアパートから出ても行く場所はない。

「今回は大目に見ます。今後、自重してもらえると助かります」

『それはもう、重々と』

 上から言ってせいぜい留飲を下げるくらいしかなく、管理人との通話を締めくくった。

 妹みたいなもの──ただの方便と言えなくないが、あの柊木ユキが、その場しのぎの方便を使うとも思えない。

 いずれにせよ目下は別の問題に取り組まねばならない。

 自室前に戻ると、同じ格好の柊木ユキが、相変わらず快活そうに「お部屋の掃除しておいたので見てください」と、入れ替わる形で室外に出る。

 応答すべき言葉もなく、室内へと入ると、見慣れた自室は、既に空気から違っていた。

 室内を勝手にされた憤りは、すぐさま感嘆の溜息に変わっていった。

 年代物の木造建築特有の湿気た空気は、高性能な空気清浄機でも作動させたように、新鮮さを取り戻していた。

 もともと調度の類は殆ど持たないが、部屋の電子機器や、戸棚の間。部屋の端に適当に積んであった本の類の周囲に、薄っすらと積もっていた埃が取り払われ、何もかも新品のように輝いていた。

 部屋の古い畳や、台所の板張りも入念に磨いたらしく、畳は新品の息吹を取り戻し、板張りの床は、顔が映り込む程に艶めいていた。

 取り立てて散らかしてもいなかったが、とにかく徹底して室内が清掃されていて、同じ部屋、同じレイアウトに関わらず、モデルハウスとして生まれ変わったような有様だった。

 室内をチェックしていた後ろからついてきていた柊木ユキが、

「基本的なことを徹底的にやっただけです。あ、物はなにひとつ動かしたり、捨てたりしてないのでご安心を。エッチな本とかあったら、対処に困るなって思ってたけど、そういうの無かったです」

「いつの時代の話をしてるんですか?」

 残念そうにしている柊木ユキに、用があったとしても、スマートフォンで事足りると言外に込めて言ってやった。

 布団も乾燥させ、皿やコップも磨いてあると、柊木ユキは自慢げに話した。

 普通は大掃除というのは年の瀬にやるものだが、元日にこれだけ徹底してやるなら、さぞかし周囲の住人たちにとっては騒々しかったはずだ。

 後で謝っておく必要がありそうだ。そう考えていると、

「実はおせち料理、作ったんですけど、お夕飯まだですよね? 今から持ってきます」

 そう言うと柊木ユキは、返事を待たずに部屋から出ていった。

 やがて三十秒もしないうちに彼女は、仕出し弁当の入れ物のような容器を持って戻ってきた。

 返事も反応も一切待たず、部屋のテーブルに、皿に盛りつけた料理を並べ始めた。

 おせち料理に明るくはないが、黒豆や鯛の姿焼き。赤く茹でた車海老に、かまぼこ、伊達巻、そして昆布巻き。並べられた料理が、上等なおせち料理であることは分かった。

「さあ召し上がれ」

 と、勝手知ったる感じで、台所から箸を持ってくる。

 食べ始めるまで見届けていきそうな柊木ユキに対して、伝えるべきことを伝えた。

「おでんの件もですが、あなたの料理の腕は知っていますが、こういうことは、もう二度としないで下さい。部屋の掃除も、見上げたものですが、はっきりと言って迷惑です」

「……はい」

 神妙な顔で彼女は頷いたが、何かの間違いで、警察沙汰にしないための措置だ。

 迷惑の押し売りとか、そういう範囲の問題ではない。管理人に連絡をする前に、警察に連絡していたら、今頃は彼女は最寄りの交番に連行されている。

 柊木ユキはひとしきりを聞き終え、こう答えた。

「とりあえず料理は勿体ないので、相沢さんが食べてください。味は悪くないはずです。何かしてないと余計な事を考えちゃうので、掃除したり、料理作って差し上げれば、無駄にはならないかなと思って」

 もう勝手にはしませんと、頭をひとつ下げて、柊木ユキは部屋を出ていこうとする。

 そんな必要も義理もないのに、罪悪感が内心でもたげ、ついその背に声をかけていた。

「食べたらまた感想を伝えます」

「……はい!」

 彼女は快活にそう頷くと、足早に自室から去っていった。

 途端に静かになった部屋に、作り立てのおせち料理と共に残されながらも、彼女が言った

 ──何かしていないと余計な事を考えちゃうので。

 その言葉が、やけに脳裏に残っていった。



 元旦の出来事を境に、柊木ユキが付き纏う頻度は減っていった。

 代わりに得意の料理の腕前を、アパートの他の住人たちや、管理人にも振舞うようになっていた。正月のおせち料理以降も、和洋中華問わず、様々な料理を味わった。

 住人たちにも好評のようで、ある種の人気者になっているようだった。

 正月の三が日を過ぎ、街も勤め先の百貨店も、平常通りに営まれていく頃合いに、とある人物に連絡をした。

「……はい。お久し振りです。相沢良介です。ええ、どうにかやっております」

 一年ぶりに話す相手だったが、思ったよりも当時のままやり取りが出来た。

 相手は唐突な連絡に驚いていたが、要件を話すと、やや口が重くなりつつも、要件を果たすことの了承が得られた。

 勤め先の休日を指定し、アポイントメントを取り付けることに成功し、通常通話を終了した。

 精神力を要する一連の行為に、スマートフォンを仕舞い込むと、つい溜息を吐いていた。

 一年間ずっと、期せず逃げ出していた事案だったが、向き合うなら今しかないと判断した結果だった。

 それから数日後に、約束した日を迎える運びとなった。

 早めに目を覚まし身支度をし、自室を出ると、アパートの入口で管理人とばったりと遭遇した。

「こんにちは。どこかへお出かけですかな?」

 以前の電話でのやり取りなど忘れたように、気さくに管理人は挨拶をしてきた。

 アパート管理の仕事で来ていたようだが、曖昧に答えて誤魔化した。

 すると管理人は、ふと思い出したように切り出した。

「そういえばお隣の柊木さんも、ここ数日は留守にしておるようですな」

 彼女の部屋である建屋二階の端の部屋に目をやり、管理人は変わらず気さくに続けた。

「いやあ、あの方が料理を配って回るものですから、私の漬物はすっかり蚊帳の外に追い出された感ありますよ。私にも料理振舞って下さるのですが、あれはちょっと真似出来ません」

 ハハハ、と管理人は乾いた声で笑う。

 昨今はアパートでの一人暮らしの孤独死が増加しており、住人の生活状態は、一定の観察下に置いているらしい。新聞や郵便物の溜まり方や、水道の使用量などで、生活環境は分かる。

「管理人さんのお漬物も美味しいですよ」

 それはどうもと、相変わらず人が好さそうに笑う管理人に挨拶し、アパートを出る。

 平日のまだやや早い午前中の時間に、活動的な街並みを一人抜けて、最寄の駅へ向かう。

 日頃から通勤に使う駅だが、今日は目的地が異なり、実家から近い最寄りの駅で、向かうのは片瀬深雪の実家となる。

 数日前にアポイントメントを取った相手は、片瀬深雪の家族で、彼女の話を聞くため、彼女の実家に向かう約束をしたのだった。

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