Scene 4

 大晦日の夕方に外に出て、営業しているチェーン店の喫茶店に入り話をすることにした。

 この日は早終いするようだが、無為に話を長引かせないため、むしろ好都合だった。

 自室でもいいと柊木ユキは言ったが、部屋には茶を出す準備もない上に、柊木ユキが未成年なら、それだけで問題視される。

 夕方の空いている店内で、飲み物が届いてから、単刀直入に切り出した。

「もしかして柊木さんはマスコミの人間ですか?」

 片瀬深雪の件が起きた直後は、テレビやSNS上で、深雪も含めて随分と取り上げられていたのを思い出す。それらに嫌気が差し、早々にすべての情報を遮断したが、改めてマスコミが情報を集めている可能性に思い至った。

 しかし柊木ユキは間髪を入れずに首を横に振った。

「私はマスコミの人間ではありません。また、好奇心で首を突っ込む余所者とも違います。今はまだ、故あって目的を明かせませんが、相沢さんとほぼ同じ立場です」

「当事者の家族」

 柊木ユキは頷いて「身勝手は重々承知です」と固い表情で続けた。

 マスコミの人間ならここで話を終えて、早々に転居の準備をするつもりだった。それでも付き纏うなら警察に通報すると決めていたが、未だ判断はつきかねた。

 でなくとも、気が乗らないと断れば、いつ気が乗るのかと聞かれるだろう。そのうちの答えても定期的に往訪しそうだ。先延ばしに意味がないなら、最低限の応対だけをして、一定の納得をさせるしかないと結論づけた。注文したコーヒーを一口飲み、

「どこから、何を話せばいいのでしょう?」

 と言うと柊木ユキは、

「相沢さんが話したくなったことを聞かせてください」

 やはり快活にそう答えた。一切迷いなく見えるほどに迷っている時間が短い。そういう人物像なのか、何かに急き立てられているのかは分からない。

 閉店までおよそ一時間で話せることをざっと頭の中に思い描いていくと、ある懸念が同時に湧き上がる。

「ただのノロケになる可能性がありますよ?」

「他人のそういうの聞くの、私は嫌いじゃないんでご安心ください」

 相変わらず快活そうに笑った。その応対がマスコミの人間としての人心掌握術ではないという保証はないが、話して聞かせることにした。相沢良介と片瀬深雪との間にあった出来事のことを。



 片瀬深雪とは昔からの幼馴染みの関係だった。

 互いの実家が近く、性差のない頃から、二人でよく遊んでいた。

 どちらかというと俺は物静かなタイプで、深雪は今の印象とは異なり、快活なタイプだった。

 自分から何かをやりたいと言い出した記憶はなく、概ね深雪が、あれをしよう、これをしたいと発案して、後についていくことが多かった。

 二人は小学校から中学校、そして高等学校まで同じ学校まで通ったが、高校生くらいの頃から少しずつ印象が変わっていった。

 高校三年生になったある日、屋上で二人で話していた時のことだ。

「ねえ良介君。これはどうか、笑わないで聞いて欲しいんだけど」

「深雪の言うことならちゃんと聞くさ」

 ちゃんとした内容ならな、と冗談めかすと深雪はフグのように頬を膨らませた。年齢相応に女性らしさも備えていたが、あの頃もまだ快活で、感情豊かという印象だった。

「私がボランティア活動をしているのは知っているよね。始めたのは一年の頃で、まだ続けているんだ」

「ああ、知ってるよ。偉いよな」

 深雪が課外活動の一環として地域社会のボランティア活動に邁進していることは知っている。

 内容は様々で、駅前のゴミ拾いのようにシンプルな環境保全活動や、地域の保育園での入園児の遊び相手や、身体障害者の人の社会活動のサポートなどだ。

 誘われて一緒に活動したことはあったが、一回きりならともかく、ずっと続ける気持ちは持てず、それからは辞退している。深雪も察したのか、二回目以降誘われることはなかった。

「今のように地域社会への貢献のために活動していくことは、大学を卒業して、就職しても出来ると思うけど、私はもっと広い世界に貢献していきたい。日本だけ、自分の住んでる周りだけ、幸せになればいいなんて考えは、とても利己的だと言わざるを得ないから」

「分からなくはないよ。社会の分断とか、貧富の格差とか、途上国も先進国もなく、全世界的な問題になっているんだろう」

 そう答えると深雪は強い表情で「うん」と頷いた。

 深雪がそういう話題を時折話すことがあったので、自然と覚えた程度だった。常日頃から社会的な問題に取り組んでいる深雪ほど、俺は利他的な人間ではなかった。

 屋上の手すりにもたれていた深雪は更に続けた。

「今は手の届かないところにある問題だけど、いずれは取り組んでいきたいし、生涯の目標にしたい。そのために、国際協力学部のある大学に行きたいの」

「そっか。理解した。それなら大学は別々になりそうだな」

「ごめん良介くん。これまでずっと一緒だったから、大学も一緒だったらいいなって、思ってたんだけど」

 あんなに大人びた論説を高じていた深雪は、急に子供っぽい顔になって、大いに悲嘆に暮れ始めた。

 深雪はいつも真面目で理想主義で、一人で突っ走ることもあるけど、どうしようもなく子供っぽいところもある。

 そんなところが好きだったんだと、今、改めて気付いた。

「なあ深雪。まことに唐突で申し訳ないが」

「なあに?」

 手すりにもたれながら、こちらを向いた深雪が小首をかしげる。

 進むべき進路が異なっても一緒にいられる手段のひとつを、深雪に提示してみることにした。

「幼馴染みとしてじゃなく、恋人として一緒にいるってのは、どうだ?」

「え」

 こちらを向いていた深雪が一瞬だけ硬直し、ゆっくりとこちらに体を向けた。鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、ぼうっとこちらを向いていた深雪は、しばらく無言だった。屋上といえ誰も来ないとは限らないので、気恥ずかしさは途方もなかったが、話を進めることにした。

「俺と恋人同士になるのは嫌か? 嫌なら早めに振ってもらえると助かるが」

「ううん。恋人同士になるなら良介君がいい。ちょっと驚いたけど……そういう風に見てもらえてるなんて、夢にも思わなかったから。とっても嬉しい」

 そう続けて深雪は、普段快活そうな顔を、赤く染めてほころばせた。

 明るく快活な幼馴染みに密やかに好意を抱いていたが、そういう間柄ではないと一笑に付されても構わないとさえ思っていた。それならそれで大学進学を境に、別々の道を歩んでいくのも悪くないと。

「好きだ、深雪」

「うん。私も良介君が好き」

 だが好意を好意的に受け止めてくれ、両想いとなることを受け入れてくれた。これまでよりももっと、深雪のことを大事にしていくと決めた、屋上での出来事だった。



 ひとりきり話の話を終え、一区切りのため、温くなったコーヒーに口をつけた。

 柊木ユキは一言も発さずに話を聞いていたが、うっとりとした素振りで何度も頷いた。

「素敵な恋愛ですね。私もそんな恋がしてみたいなー」

「幼馴染がいるんですか?」

 いないですけど、と柊木ユキは憮然として答える。「そういう恋愛に憧れる気持ちです」と続けられて、何となく頷いておいた。

 大枠だけを最低限に伝え、あとは質問に答える程度を想定していたが、気づけば細やかに伝えていた。あれから一年間停止していた感情を動かした今、誰かに聞いて欲しかったのかも知れない。

「高校三年生からなら、五年くらいお付き合いされていたんですね。大学って急に人間関係とか広がるので、なんとなく別れるカップルは多いと聞きますが、お二人とも一途そうだから、ちゃんと続いたのかな?」

 一般論としてありがちな説だが、そもそも付き合いが長い分、そういう論説とは無縁だった。

 それこそ一般論的には、女性は恋の話を好むらしいので、柊木ユキも多分に漏れないことになる。真剣に聞き入っているが、より生き生きとしている。

「一途なのかそうでないのかよく分かりませんが、結果的にそうならざるを得なかったのかも知れません」

 そう言うと柊木ユキは微かに眉を潜めた。頭の回転が速く、人の機微に聡い人物だ。長年連れ添った恋人同士の幼馴染でも、決してそれで盤石ではないということに。



 無事に大学進学を果たした二人は、当初は順風満帆に関係を継続していた。

 ある大学の国際協力部に在籍した深雪は、楽しそうに専攻学科の内容を話してくれた。

「実際に海外で仕事をしている方の講習を聞けて、とてもためになったの。やっぱり、私もあんな風に将来は仕事をしたい」

 新しい知見と共に、将来の目標の再確認の機会を得ているようだった。

 しかし一方で、政情不安定な国での過酷な実態を知り不安がったり、語学の問題、実務的な科目内容についていけず、なかなか成果が出てこない現実に、落ち込むことも増えていった。

 二人は時節の境や、折に触れてデートを重ねていった。別々の学校となり、日常的に顔を合わせることが無くなったため、その代替行為のように。

 それくらいの頃から、深雪の持ち味でもあった快活さや、時に向こう見ずな前進に、陰りが生じ始めていた。

「……外国で活躍したいとか、私には大それた目標だったのかも知れない」

「深雪がそんなこと言うの珍しいね」

「私だって弱音ぐらい吐くよ」

 半分冗談のつもりで言った言葉で傷つけてしまい、謝罪をしたことがあった。それにしてもやはり、珍しいといえば珍しい事態だった。

 この時はまだ、深雪の悩みはそれほど深刻ではないと決めつけていた。

 今ならばそれは幼馴染として分り合っている、という根拠なき理由であり、軽率だったと承知している。

 しかしながら、今の自分ならば何か助力出来ただろうか、という自問に対して、自答は果たされていない。

 その日は深雪が自室に遊びに来ていた。特に目的を立てず、ただ話したいことを話して過ごす時間を、よく深雪とは共有していた。

「あと、学部には色々な目的意識を持った人がいて、私と同じことを考えている人もいれば、そうでない人もいる。外国での活動をビジネスにしたい人や、インフルエンサーとして影響力を身に着けたい人もいる。そういう人たちって、何か違う気がする」

「深雪のように利他的じゃなくて、利己的だからじゃないかな」

 深雪は理解したが納得はしていないという風に頷いた。目標を追いかける過程で現実に気付くという話は聞くが、恋人がその事態に陥ると思ってなかった。

 自分なりに相談に乗っていたつもりだったが、今にして思い返せば、違う学部に移るなり、考え方を変えるなり、踏み込んだ提案をすべきだった。

 ある日、暗い声の深雪からの通話着信があった。何事かと聞くと、

「大学に入ったばかりの頃に、講習してくれた人がいたの。外国で活躍している大学のOBの人」

「ああ、覚えているよ」

「その人が、外国でテロに巻き込まれて死んじゃったんだって」

 私もいつか死んじゃうのかな。そう呟いた深雪の声は、電話越しでも彼女らしい快活さが抜け落ちた、虚ろなものだったのが、はっきりと分かった。

 それ以来、深雪は大学や将来のことを話さなくなった。変わらずデートを重ねたが、深雪の目標について語り合うことはなくなった。代わりに映画を見たり、美術館を巡ったりして、時間を共有することが増えていった。

 大学生としての四年間はあっという間に過ぎていく。深雪は一定の単位を取得し大学を修了したが、就職したのは、あるメーカーの事務職だった。

「外国で活躍する夢は、諦めることにしたの」

 深雪の口調は淡々としていたが、その裏に苦悩や挫折があり、夢を諦めたのは想像に難くない。その時に俺は、それでも深雪を支え続けることを改めて決意した。



 ひとしきり話し終えて残っていたコーヒーを飲み干した。思ったより冷静に話せたのは、一年間という間隔が、ある程度の客観視を許す時間となったからだろうか。

「お話聞かせて頂き、ありがとうございます」

 柊木ユキは先ず頭を下げ、そして彼女にしてはやや長考の末にこう続けた。

「お二人とも、とてもお優しいカップルだったんだなって印象です。相沢さんも片瀬さんも」

「肯定的に捉えればそうだったのでしょう。しかし俺は、夢を諦めてから、元気を無くしていった深雪を見るに連れ、自発に任せるのではなく、多少強く言ってでも……それこそ、恋人関係が破綻したとしても、強く訴えて、別の道に進ませるべきでした」

「或いは強く言ってでも、目的に向かわせるか、ですね。いずれにせよ恋仲ではいられなくなりそう」

 私が相沢さんだったら、どちらかを選んだでしょうけど。柊木ユキは冗談とも本気ともつかない口調でそう言った。

 その時に喫茶店内に流れていたBGMが停止し、店員が片付けのために動き始めた。もうじき閉店時間を迎えるようだった。お互いに帰り支度をしつつ、伝えるべきことを伝えた。

「柊木さんに深雪のことを話したのは、俺自身がそろそろ彼女とのことを振り返るべきだと決めたからです。もし俺と深雪のことを知っているなら、この先に深雪に起きたことも知っているはずだ」

 だからこの先を話すつもりはないと、言外にそう伝えた。

 柊木ユキは、それは納得ずくであるし、改めてこの場で理解をしたという風に、固い表情で頷いた。

「承知しました。元々、話したいことを話して欲しいと懇願していたのは私です。話したくないことは、どうか話さないで下さい」

 しかしながら相沢さんと、柊木ユキは同じ表情のまま続けた。

「片瀬深雪さんは夢を諦めたけど、それからの深雪さんも、色々なことを考えて生きていたはずです。今でなくてもいいです。けどどうか、そのことも振り返ってあげてください」

「それからの深雪のことを……」

 はい、と柊木ユキは頷いた。

 彼女は片瀬深雪に世話になったと公言していたが、つまり大学を卒業してからの深雪と関わりがあったのだろうか。

 柊木ユキのように瞬時に長考するような芸当は出来ず、具体的な考えが浮かばないまま「考えてみます」と答えておいた。

「よろしくお願いします。今日はどうもありがとうございました」

 最後に元来の快活な表情で、柊木ユキはそう締めくくった。

 二人は同じアパートに住む者同士だが、連れ添って歩くような間柄ではない。特に用事もないが、コンビニに買い物に行くと言い、喫茶店の前で別れた。

 それに一人になりたかったのだ。柊木ユキの言う、それからの片瀬深雪のことを、一人で考えたかった。

 深雪のことを大事にしなかった日は一日として無いが、それからの深雪をただ、夢を諦めた片瀬深雪として、過去形で扱っていなかっただろうか?

 悔恨は決して尽きることはなく、だから柊木ユキに話すことを避けたのだった。

「……いや、おそらく彼女は、もっと具体的なことを指し示している」

 でなければある種の確信を持って、わざわざ見知らぬ男の住むアパートの、隣の部屋に引っ越してくるなんて行為に及ばないはずだ。

 後悔をさせたい一心でそんなことをするような愚かな人物像では恐らくない。

 静まり返りつつある大晦日の夜の街を歩きながら、ふとある疑問に行き当たった。


 そういえば、深雪はどうしてあの日、デートの約束を反故にしたのだろう?

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