Scene 3

 いよいよ年の瀬も近づいていくと、勤め先の百貨店の年末商戦も佳境となる。

 元旦は出勤のために明日、大晦日の十二月三十一日は休み。とはいえ盆も暮れも、平日も休日もない日々を送る者としては、凡そ時節の区切りは生活に関係がない。普段の休日と同意の体を休めるための一日という程度の認識しかない。

 その日も帰宅したのは夜の九時を回った頃だった。ルーチンワークの通りに夕食を摂り風呂を済ませ眠るだけの予定だったが、夜分に玄関ドアをノックする音が、その予定に割り込むように響いていった。

「どなたですか?」

 この部屋への来訪者はせいぜい管理人くらいだが、念のためドア越しに応答を促すと──。

「初めまして。隣に引っ越してきた、柊木ユキと申します。夜分にすいませんが、ご挨拶に伺いました」

 という若い女性の声が聞こえて、飛び上がるほど驚いた。そういえば管理人が隣の空室への入居者について仄めかしていたのを思い出した。

 全くの予想外の客人だが、いつまでも屋外に立たせておくわけにはいかない。玄関扉を開くと、そこには本当に二十歳くらいの女性が立っていて二度驚いた。

 灰色のパーカーに履き古したジーンズに、簡素に後ろでひとつにまとめただけの髪型。いかにも部屋着という装いの小柄な女性だった。

 ふつう関わりの無い男性相手なら警戒しそうだが、その女性は物怖じもせず快活に切り出した。

「夜分にすいません。いつも帰りが遅いと管理人さんに伺っていたので、今くらいしかご挨拶するチャンスがないかなと思いまして」

「ああ……構いませんよ。こちらこそよろしくお願いいたします」

 無難に自己紹介をし、相沢良介という名で普通に会社員をしていることを伝えると、一泊を置いて彼女は頷き、ニコリと笑った。小柄で化粧っけが無いせいで、笑うと十代の高校生にも見える。

「というわけで詰まらないものですが。定番のアイテムですが時期的にも丁度いいかと」

 その女性が差し出した縦長の箱には『蕎麦』と記載があった。

 明日は大晦日だから年越し蕎麦にも丁度いいという意味だ。

 時節の行事や風習にここ一年無頓着だが、たまに蕎麦を茹でるのも悪くない。謝意を延べ受け取った。

 隣人への挨拶は必要だが、それ以上の関わりはいっさい必要ではない。この柊木を名乗る女性も、用件を済ませた以上、冴えない男と関わりたくないはずだ。

 そう決め込み会話を打ち切ろうとしたが、

「実は用件はもう一つあります。単刀直入に申しますが、私は片瀬深雪さんにお世話になった者です。あの人のことを知りたくて、あの人の恋人、相沢良介さん。あなたの隣に引っ越してきたんです」

 彼女はそう続けた。変わらず快活な口調で。



 翌日となる十二月三十一日。平時の出勤時の起床時間より一時間は早く目を覚ました。まだ六時にもなっていないし、いつ寝たのかも記憶にない。

 酒を飲む慣習もないが、酩酊して寝落ちた翌日はこんな感じかも知れないと、奇妙に冷静に考えていた。

 布団から起き出すと、特に体が重いわけでもなく、体調不良や変化もなかった。

 何か普段のルーチンワークから外れる案件があった気がするが、その何かが思い出せず、落ち着きなく部屋内をうろついていると、テーブルの上のあるものに目線が注がれた。

 そこにあったのは蕎麦の箱だった。それを見た瞬間に全てを思い出していた。

 隣の空室に引っ越してきた二十歳そこそこの女性。

 その女性は「片瀬深雪に世話になった」から、恋人であった俺の部屋の隣に引っ越してきたのだと自己申告していた。

 そこまで連鎖的に記憶が再生されると、ようやく目が覚めて落ち着き、喉がカラカラだったことに気づく。1Kの間取りの部屋の冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出し、キッチンのテーブル席で飲み干して喉を潤した。

「柊木ユキって言ったか。一体何者なんだ?」

 彼女は間違いなく「片瀬深雪に世話になった」と言っていた。彼女の知己全てを知るわけではないが、全く知らない深雪がいたことに驚いている。

 ──あれから一年間。全てのことから距離を置き、忘れるために実家を離れ一人暮らしをしていたが、あの柊木ユキという女性が、わざわざこんなところまで出向いてきて、それを思い出させようとしている。片瀬深雪の、まだ知らない事実を携えて。



 部屋に備え付けの古めかしい壁掛け時計が、九時を示す鐘を鳴らす音で我に返る。この時計は九時と二十一時に鐘をならす。時刻変更のやり方が不明なので、そのままにしている。

 何にせよ顔を洗い身支度は整えて、何かしていれば余計なことを考えずに済む。

 そんな頃合いに、玄関扉をノックする音が響く。来訪者の予測は出来たが、無視するわけにもいかないので返事をすると、

「隣の柊木ユキです。昨日は突然押し掛け、すいませんでした」

 固くはあるがやはり快活な声が聞こえて、深呼吸をして答える。

「こちらこそ。昨日話されていた『彼女』のことは今はまだ、冷静になれていないので、また改めて話す時間を設けさせて下さい」

 扉越しの会話は不自由だが、顔を合わせて話をしたくない。しばらく待つと、

「はい」

 という快活な返事が聞こえてきて安堵した。そこで会話を打ち切るのが無難と判断したが、柊木ユキは更に続けた。

「実はおでんを作ったんです。もしよければ相沢さんに食べて頂きたくて。料理は得意なので不味くはないと思います。相沢さんはおでん嫌いですか?」

「……いや。嫌いじゃないですけど」

 そういえば扉の向こうから出汁の利いた匂いが漂ってくる気がして、元々それほどはない食欲が湧いていた。

 食欲は本能だが、思考は柊木ユキの脈絡のない話の運びに追い付いていない。切り替えが早い頭のいい子なのだろう。

 もしかして今も、おでんを持ってずっと立っているのだろうか?

 そう思い至った直後に、反射的に鍵を開けていた。

 扉の向こうには、昨日と同じパーカーにジーンズという格好の柊木ユキがそこに立っていた。湯気を立てるとても大きな鍋を両手で抱えて。

 アパートの廊下は寒い。鍋から立つ湯気の向こうで、彼女はにこりと笑った。相変わらず健康そうで快活な笑顔だった。

「おはようございます」

「ああ、おはようございます」

 とりあえず挨拶を返したが、昨夜のやり取りをした後に、どんな顔をして応対すればいいのか分からない。言葉に詰まり何も切り出せずにいると、彼女は鍋を差し出した。

「もしよければ食べてください。これもお近づきの印と理解して下さい。オーソドックスなおでんなので、おでんが嫌いでなければ誰でも食べられると思います」

 作り立てで熱々なので、それだけは気をつけて下さいと、冗談めかして付け加える。

 改まっておでんが好物ではないが、受け取らなければば話が終わらないし、逆に受け取れば話を締めくくれるなら、受け取らない選択はなかった。

「ありがとうございます。遠慮なく食させて頂きます」

「良かった。自信はないわけじゃないですが、感想は気になるので、食べ終えたら教えてくださいね。その時に鍋も返してください。相沢さんガスコンロは使えますか?」

「ガスコンロくらいは使えますよ」

「一回で食べきれる量じゃないので、冷めたら温め直して食べてください。味が染みてどんどん美味しくなると思います」

 頷いて鍋を受け取ると「それではまた」とやはり快活な笑みを浮かべ、あっという間に隣室へと去っていった。

 部屋に戻りガスコンロの上に鍋を置くと、ようやく気持ちが落ち着いた。古びた木造建築の湿気て埃っぽい匂いしかなかった部屋に、出汁の利いたおでんの汁のいい匂いが広がっていく。

 そのせいで取り合えず今はおでんを食べる以外の選択肢が思いつかなかった。

 鍋の蓋を取ると湯気と香りが盛大に沸き立ち、出来立てのおでんの具が姿を現していく。昆布や大根、しらたきによく煮えた色の卵。ゆうに三人分くらいはありそうな分量で、丸一日でようやく食べつくせるくらいと計算した。

 さしあたって鍋の中から大根を取り出そうと、箸をするりと差し込んでも、形が崩れたりはしなかった。だが皿に取って箸を入れると、豆腐のように容易く切り分けられていく。その一片を口に運ぶと、よく煮えた大根の触感と共に、出汁の味がよく染みた大根の触感が、口内いっぱいに広がっていった。柊木ユキの忠言の通り、それは火傷しそうなほど熱かったが──。

「……とても美味しい」

 誰もいない部屋で思わず呟いてしまうほどに、それは美味しかった。



 同じ日の夕方に再び自室の扉がノックをされたが、その主には心当たりがあった。中身を空にして洗浄を済ませた鍋を持って、扉の前に立った。

「どちらさまですか?」

「度々本当にすいません。柊木ユキです」

 予想された人物の快活な声が聞こえて、扉を開いてやると、朝と同じ格好の柊木ユキが立っていた。苦笑したような顔をしているのは、自己申告の通りに、確かに夕べから往訪が度々だからだろう。そんな柊木ユキに、空になった鍋を差し出した。

「おでんありがとうございました。とても美味しかったです。朝と昼に食べて、夕飯の時にも食べようとしましたが、その前に食べきって無くなりました」

「そうですか! 良かったです! どれぐらい美味しかったですか?」

 どれぐらいと聞かれても、料理の専門知識がないので、美味しさを表すための語彙がない。咄嗟に考えて、

「最寄りのコンビニに辛子を買いに走るくらいに美味しかったです」

 そう答えると、

「くっ」

 と小さく呻くように声を吐き、柊木ユキは俯いて体を折って笑い出した。昨日今日に初対面の挨拶をした相手の前で笑い転げるわけにはいかない。そういう意思を感じたが、逆に一層笑いがこみ上げてくる現象に見舞われているようだ。

 笑わせるつもりも、共に笑い合うつもりもなかったので、収まるのをじっと待っていた。鍋をちゃんと足元に置いて笑うあたり、そつのない人物像だった。やがて笑いは引いていき、快活そうな顔で、こちらに向き直った。

「すいません。あまりにもツボに入って笑いが止められなかったです。相沢さん面白いことを仰るんですね。とても独特だし」

「事実を伝えただけですよ。ところで何かご用事があったのですか?」

「適当にごまかして何となく、は性に合わないのでハッキリ伝えます。片瀬深雪さんのことについて、相沢さんのお話を聞きたいんです。どんな人だったのか。どういう関係だったのか」

 相変わらず迷いのない様子で、柊木ユキは快活そうに告げた。もしくは頭の回転が速いから、悩んでいる時間も人より短いのかも知れない。

 人並みに時間をかけて悩み、相手の反応も想定した上で、一定の結論を出してこう答えた。

「昨日まだ冷静でいられないから話せないと伝えたはずですが」

 まだ丸一日もそれから経っていないと、言外にそう表現もした。

「二十時間くらいは待ちました。それぐらいの時間があれば冷静になれるのではないかと考えたので、訪ねてみたんですけど」

 それではあと何時間待てばいいのかと、言外にそう伝えられているような気もした。

 一年間があっても変わらないのだから、あと何時間待とうがきっと変わらない。

 柊木ユキが何者か現状で不明だが、話すことで分かることがあるかも知れない。

 分り合えているのか話さずに決めつけるなど、出来る筈がないのだから。

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