Scene 2
年末商戦に追われる百貨店のフロアは、買い出しに来た人々で賑わっている。そんな状況下において店員はひっきりなしに呼び止められる。
「すいません。これの値段いくらですか。値引きされるみたいですが、値引き後の値札が見あたらないんです」
「はい。ああこれはこちらの値札になります」
と値札のある場所を指し示す。陳列がずれたり値札が外れたりした時に値段が分からなくなる。商品付随の値札の金額から更に割り引かれる品もあるが、他店競合の都合で別の値札を用意することもある。
そのお客は短く謝意を述べて買い物に戻っていく。
「これのLLサイズある? 色ももっと鮮やかな赤のがあればそれが欲しいのだけど」
「はい。LLサイズはこちらになりますが、カラーはここに陳列されているものだけになりますので……」
「本当に? ちゃんと確認してくださらない?」
そう聞かれ一瞬は鼻白むが「かしこまりました」と常備する店内用タブレットで商品を調べる。やはりカラーは陳列されたものしかなく、その画面を見せて説明するとお客の理解がようやく得られる。自分の目で見ないと納得しない人は少なくない。
そのお客はLLサイズのレッドカラーの商品をカゴに入れ買い物に戻っていった。
さらにフロア別の場所で、声をかけられた。いやズボンの腿あたりを引っ張られる感触に気付いた。
「ねえ……ママとはぐれちゃったの」
「それは大変だ。安心してね。それじゃあママを呼び出してもらいに行こう」
「うん」
声をかけてきたのはまだ未就学くらいの幼児だ。母親とはぐれ半ベソで歩いているところ、制服の店員を見つけたのだ。子供の手を取り管理センターに連れて行き、担当に一声をかける。担当の女性店員は子供の手を引いた姿を見ると、
「子供……いたんだ?」
「俺のじゃない。迷子だよ。困ってるんだから早く呼び出ししてくれ」
「はいはい。ボク、下の名前を教えてくれる?」
子供の特長をさっと確認し、下の名前のみ情報入手する。手早く店内放送を流すと、ものの一分もしないうちに母親とおぼしき女性が、血相を変えて管理センターに到着した。迷子の子は母に駆け寄っていく。間違いなく親子と確認が出来た。
感動の親子の対面ののち、繰り返し頭を下げる母親への応対を終え、フロアへと戻っていく。
当たり前だがフロアはまだまだ買い物客たちで賑わっている。
「おう。どこ行ってたんだ。一人で孤軍奮闘してたんだ。早く手伝ってくれ」
「すまない。迷子の世話してた」
「おまえ子供によく話しかけられるよな。俺は全然だ」
「そのせいで大忙しだが」
もう一人のフロア担当の同僚の男とこっそり軽口を叩き合う。フロアでの私語は基本禁止。だが時折は息を抜かないとやっていけない。同僚の男もすぐにフロアの別の場所に向かう。
年末商戦まっただ中の百貨店フロア担当の業務は、まだ終わりそうにない。
夜の八時に百貨店は閉店する。それから片づけと明日の予定を確認。帰り支度を始めるのは九時を回る。男子用ロッカー室で、一日の疲労を拭うように制服を脱いでいると、勤務中にも軽く話した同僚の男が声をかけてきた。
「相沢は帰省するのか?」
「実家は割と近くだから帰ろうと思えば帰れるが、特に帰りたくもないから帰らない」
「そうか。俺は帰省するんで正月はシフト入れてない。帰ってこいとうるさいし、帰れば帰ったで結婚はまだかと急かされるだけ。まったく気は進まないが、年に一回くらい様子見に行かないとな」
「がんばれ」
端的にそう伝えてやる。俺は頼まれても帰らないだろう。「おまえも業務がんばれ」と励ましあう。正月の百貨店は多忙だ。帰省と元日勤務。どっちもどっちの労力だ。
着替えて二人でロッカーから出ると、すぐそばの社員用の休憩スペースで飲み物を飲んでいる女性がいた。二人を見かけると疲労の色も見せず声をかけてくる。
「お疲れさま。いやあハードワークだったね。この調子で年末まで頼むよ?」
からっとした調子のその女性は、勤務中に迷子アナウンスを頼んだ管理センター担当の女性だ。俺たちとは同い年だが、この百貨店に中途入社した俺にとって、二人は先輩格。ちなみにこの管理センター担当女性はフロアマネージャ。つまり俺たちの上司役でもある。
同僚の男がにべもなく答える。
「俺は正月はいない。その分相沢が頑張ってくれるが人手が足りない。勿論お前もフロアやるよな?」
「当然。私がフロア出ると売れすぎて在庫なくなっちゃうんだけどね~」
同僚の男と管理センター担当の二人は同期入社で、打ち解けた関係だ。俺は同い年で入社直後はいろいろ世話になった恩義で、無難に話は合わせている。
そんな管理センター担当上司は、からからと笑いながら缶入り汁粉を飲み干す。ちょっと普段は飲む気にならない飲料だ。そもそも飲料か?
正直早く帰りたいが、話好き、お節介の管理センター担当上司役は、勤務の疲れも滲ませず続ける。
「相沢君は帰省しないんだ。ご実家近くなんだっけ」
「そう。けど遠くても帰らないと思うけどね」
「帰省しないで正月は何するの? 彼女とイチャイチャするとか」
「仕事だよ。予定作ってるんだから知ってるだろ?」
「その後でイチャイチャするとか」
「申し訳ないがそんな元気はない……」
そんな益体ないやり取りをしていると、最終退社を促す放送が流れる。残務アリでもそれ以上は残ってはいけない規則となる。
例え興味のない話題に不本意に花が咲いても、建物から出る必要がある。俺にとっては助かるシステムだった。
「それじゃまた明日。頼りにしてるんだから体調は絶対気をつけてね!」
「ああ、そっちもな」
「お疲れさま」
三人は挨拶を交わして最寄りの駅で別れていく。まだそれなりの人の行き来がある駅中を一人で歩いてホームへと向かう。
同僚の帰省の話も、管理センター担当の上司役との下世話な話も、いっさい関係も興味もない。だが今の自分にとっては、そうした雑談に加わることも、百貨店の業務に忙殺されるのも、余計なことを考えずに済む手段として最適というだけの話だった。
24時間営業のスーパーで食料品を買い、一人暮らしをするアパートに帰宅する。築40年は下らない老朽化が著しいこの建物に、一年ほど前から住んでいる。二階建て八部屋で、漫画で見るようなボロアパートのイメージそのものの建屋となる。
部屋は最低限の家電と調度だけを置き、衣類も趣向品も最低限。平日は帰って眠るだけで、休日は体を休めつつ読書をしたり、一人で映画を見に行くだけ。部屋に拘る理由のない生活を、ここ一年間ずっと続けている。
一人で遅い夕食を摂っていると、玄関ドアをノックする音が聞こえた。返事をすると、
「管理人です。夜分すいませんね」
とやや間延びした声が聞こえてくる。開けると樽のような体型の中年男性がニコニコと笑い立っていた。
このアパートの管理人だった。本名な契約時に聞いているが、忘れてしまった。自ら管理人と名乗り、住民たちも管理人と呼んでいるため、それで事足りている。入居契約の時と、家賃を支払う時くらいしか話したことはない。やや早いが契約更新の話だろうか?
「これ自家製の漬け物です。よかったらどうぞ」
「あ、いつもすいません。御馳走様です」
タッパーを渡される。漬け物をするのが趣味で住人に配っている。味はあっさりとしていて悪くない。そんなやり取りののち管理人は切り出した。
「ところで相沢さんは帰省なさるご予定ですか」
「いえ。自分は帰省しません」
ざっくりと出勤予定も伝えると、それ以上は深入りもせず続けた。
自室の隣は空き部屋となっているが、近々入居予定があるとのこと。挨拶等で気にされるために事前に把握しておきたいとのことだ。
「ちょっと風変わりな若い方でね。まあ今時こんなボロアパートを選ぶ若者ですからな。変わり者といえば変わり者でしょうか」
おっと相沢さんも若者でしたかと、わざとなのか天然なのか不明だが、呵々笑う管理人。
住めればどこでもいいが就職のため住所は必要だった。それだけのために、家賃が安く保証人も不要のこのアパートを選んでいる。
じき挨拶に来られると思うのでよろしくと言い残し、来た時と同じよう飄々と管理人は立ち去っていった。
スーパーの総菜に、管理人手製の漬け物が加わった夕食を再開した。これまでの通り漬け物は悪くない味だった。
ボロアパートだが古びた風呂はあるので、手早く入浴を済ませて布団に入った。実家から適当に持参した布団一式だが、入居から一度も干していない。布団は冷たく湿気っているが
、眠れれば問題はなかった。
部屋の石油ストーブを止めて、早々に寝ることにした。起きていても余計に燃料を消費するだけだし、余計なことばかり考える。そのために何も考えずに眠ると決めていたが、仕事終わりに交わしたやり取りが脳裏に浮かぶ。
『彼女とイチャイチャしたりしないの?』
一年前なら冗談抜きにそういうのも現実味ある選択肢だったが、今はしたいとも思わないし、またする相手もいない。
早く明日の朝を往訪させ、いつもの業務を始めてしまえば何も考えずに済む。だから早く寝てしまいたい。
◇
その時の俺はまだ実家暮らしをしていた。
ある週末の日に片瀬深雪が遊びに来ていた。取り立てて用事や予定を立てず、ただなんとなく話している。そんな時間を俺と深雪はよく共有していた。ある時に脈絡なく深雪がこんなことを切り出した。
「どうすれば誰かのために役に立てるのかな。私は何の取り柄もなくて、誰の役にも立っていないのに」
「そんなことないだろ。深雪は家族想いで、ちゃんと定職について働いていて、俺も、深雪にたくさん助けられている」
「そう……かな。良介君は強いもの。お仕事もちゃんとしてるし、向上心を持って毎日取り組んでいるもの。私の力なんて、要らないと思う」
深雪は俺の部屋の本棚を眺めて言った。
あるIT企業に新卒で入社した。設立からまだ間もない上昇中の企業であり、社員も若く才気ある者が多いところにひかれて志望した。業務で成果を出し、チームに還元させ、また新たなる業務を開拓していくことを、あらゆることに優先するような姿勢が何より礼賛される場所だった。
そんな周囲の面々に少しでも遅れを取りたくなく、そのために休日に独学で勉強もしていた。そのための本が、気付けば本棚の大半を占めていた。
それでも自分が強い人間とは思わない。時に悩んだり迷ったりもするし、失敗して悔やむこともあったからだ。人並みに自己否定と自己肯定を繰り返して生きおり、深雪が言うほど強い自覚は全くない。
そういうことを筋道立てて、論理的に説明できれば、深雪は分かってくれたのかもしれない。
あるいは専門医のカウンセリングを受けてもらうよう促すか、そのどちらかを選べれば、未来は変えられたのかもしれない。
だがその時の俺はどちらも選べず、相沢良介と片瀬深雪は分かり合っていると思いこみ、たかをくくっていたのかも知れない。
床のクッションの上にちょこんと座っていた深雪の背を、抱きしめてやった。そうすれば伝わると根拠もなく確信していた。
「俺には深雪が必要だよ」
「うん。良介君に必要とされたい」
そう答えてくれた深雪の明るい声色と体の熱量が、大いなる安心感をもたらしてくれた。幼馴染みの悩みを俺は十全に理解してないけれど、互いにこうして生きて関わっている。それだけで十分に幸せも感じていた。大切な幼馴染みであり、恋人でもある深雪を支えてやっていることに対して。
それが本当に正しい有様なのかと、疑念に思うことすら一片もなく。
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