この悲しみが愛に変わるとき
佐原
Scene 1
十二月のある日。駅中の喫茶店でコーヒーを飲んでいた。
腕時計を確認すると、もうじき待ち合わせの時刻にさしかかる頃。
スマートフォンのメッセージアプリには新着メッセージは無し。そろそろかな、と店内からガラス張りの壁の向こうの駅中を歩く人々の群れを見ると、見知った人影を見つけた。
アイボリーカラーのダッフルコート。ふわふわのニット帽に、マフラーで口元まで隠した小柄な女性。腕時計を気にしつつ、周囲の人に接触しないように急いでいる。
声は届けられないため、ガラス超しに小さく手を振ると気付いてくれた。焦るように不安に揺れていた瞳を見開き、手を振り返してくる。
その女性はすぐに入店し、注文を済ませると、こちらの二人掛けテーブル席にやって来た。ホットカフェオレのマグカップを置き、マフラーを外すとようやく安堵の笑みを浮かべてくれた。
彼女の名前は片瀬深雪。かれこれ十数年来の付き合いとなる大切な幼馴染だ。
「ごめんね。呼び出しておいて遅くなっちゃった。ごめんなさい待たせて。良介君忙しいのに」
「全然待ってないよ。それにまだ待ち合わせの時間にもなってないからさ。安心して」
「でも、新しい大事な企画を任されたって」
「深雪より大事じゃないよ」
深雪は言葉に詰まり、うつむいて頬を少し赤くし「お世辞でも嬉しい。ありがとう」と呟いた。もちろんお世辞でも何でもなく俺、相沢良介の本心だ。
あるIT企業に勤めて二年目。ようやく企画を任されるまで成長出来たが、それは深雪の存在に比べれば取るに足らないものだ。
マグカップに暖を取るように両手を添え、一口飲むと、深雪は小さくため息をつく。駅中とはいえ寒い。カフェオレが深雪の体を温めていくのを見計らって切り出した。
「それで話って何だい。深雪から呼び出すなんて随分珍しいけど」
「ごめんなさい。どうしても、直接伝えたかったから」
深雪は何かを話したり、切り出したり。また答えたりするときに謝罪を先に添えることが多い。きっと自己肯定感が低いから、という理由は当の深雪本人からの受け売りとなる。子供の頃にそうだった記憶はない。成長していくに連れいつの間にかついた癖だった。
マグカップに視線を落としていた深雪が、決意したように顔を上げる。
「その、今週末に予定してたデート、実は急用が出来てしまって、行けなくなってしまったの。どうしてもの急用で、要件先の人の都合もあって、内容は言うことは、出来ないんだけど……」
ひとつひとつのセンテンスを、深雪ははっきりと伝えていく。恐らく何度もその情報を頭の中で整理したのだろう。
内容的には、俺にとって──いや、俺たちにとってはマイナスの情報だが、そういうこともあると割り切るしかないことだ。
実は今週末に二人で美術館巡りや映画を見ようと約束していた。面白そうな企画展や映画の封切りが集中し、なら同日に全部見ようと盛り上がり、予定を立てていたのだった。
電話やメッセージでも事足りる内容。それでもきっと納得はしていた。
けど直接伝えたいと深雪は望む。どこか背負い込むところが昔からあり、歳を重ねるたび強くなっているようだ。
つとめて気を遣わせないように答えた。
「そう、なんだ。いや、全然構わないよ」
全く気にしないといえば嘘になるし、それはそれで軽んじている。かといって恨み節でも吐けば重荷になる。深雪に負荷をかけたくない。
そう伝えるとようやく深雪は顔をほころばせた。
「迷惑ばかりかけて、ごめんなさい。ありがとう。今度また予定を立て直させてね」
「そうだね。また改めて。折角ならもう少し喋っていかないか?」
「うん」
と深雪は嬉しそうにうなずき、追加注文のためメニューを開いた。ケーキやパイのページで目移りさせている。特に甘いものは大好きな嗜好ではないが、深雪が甘いものを楽しそうに選んでいるのを見るのは好きだった。
二人分の追加オーダーを出して、それから一時間ほど話し込んで喫茶店を後にすると、すでに外は夜の帳が降りていた。
この駅は二人の住居から最寄り駅。勤め先は異なるため乗る路線は違う。帰りの時間が合えば駅で待ち合わせ一緒に帰ることもある。
業種も勤務地も違うため、時間はなかなか合わないが、それをやりくりして時間を共有していくのが、社会人となってからの二人の幸せだった。
二人は昔からの幼馴染みであり、恋人同士でもあった。
十二月の寒空の下を、寄り添うよう並んで歩く。やがて岐路につき、幸福な時間は終わる。
この辺りは住宅街で人けは殆どない。二人とも実家がここから少し歩いたところにある。
それまでの温厚な顔に代わり、どこか決意を秘めたような顔で深雪がこう言った。
「来週は無理になっちゃったけど、再来週くらいに会えたらいいな」
「なあ深雪。一体何を……」
と言い掛けて言葉を切る。あまりに深雪の瞳が切実だったからだ。
今は伝えたくないのかも知れない。それは再来週になれば、逆に伝えたいことなのかも知れない。
ならそれを待とう。それが恋人としての役割。そんなことを考えていた。
「分かった。じゃあ再来週会おう。また連絡する」
「うん」
どちらからとなく顔を寄せ、俺たちはキスをした。
数秒間、唇を触れさせるだけの行為。
年齢に比して子供らしいという自覚はある。
だがそれでもよかった。それが二人の関係だった。
唇を離すと、頬を赤らめた深雪の顔があった。
それだけで十分だった。
そうして俺たちは別れた。
──それが永遠の別れとなるとも知らずに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます