1月24日 緑川 春海

 緑川春海は思い切って、夏八木に声をかけた。

「ねぇ、怪獣映画の本持ってたらさ、貸してくんないかな」

 話しかけられたのが自分だとはわからなかったような顔をして、夏八木は答えた。

「いいよ、今度、持ってくる」

 声に疲れがにじんでいる。緑川は理由に思い当たる節があった。だが、明るい顔で告げる。

「助かる。いつでも電話して、すぐに取りに行くから」

「あぁ、電話じゃないかもしんないけど、連絡する」

 声を聞きたいから電話がいいのだが、もちろん、そんなことを緑川は言えない。

「大丈夫、なんか顔色悪くない? 気のせい?」

 思い切って、座っている夏八木の肩に手を置いてみた。そっと払いのけられるかもしれないという心配で、緑川はドキドキした。

 夏八木は「そう?」と口にしただけで特に反応を示さない。手をどけるように告げられる前に、緑川は自ら手を離した。

 その代わりに夏八木の向かいのイスに手をかけた。それが当り前であるかのようにイスに腰をおろすという動作が、今の緑川にはとても難しく感じた。

「寝不足?」

「そんなところ」

 確かに夏八木は眠そうな目をしていた。その原因が自分にあると知っている緑川は、また胸を痛めた。

 でも、これは結果的に夏八木を救うのだから、と緑川は勇気を奮い起こす。

「なんかおごってあげようか」

「まじで? と言いたいとこだけど、いいよ。気持ちだけで充分。まだ白井さんにおごってもらう約束を果たしてもらってないし、それに……」

「それに?」

 夏八木は表情を隠すかのように顔に手をやった。

 言いかけてやめた言葉は、緑川にも想像できた。

《そんなに仲良くもないじゃないか》

 たぶん、そんな言葉を飲みこんだのだろうと思い、緑川は悲しくなった。

「遠慮しないでいいってば。臨時収入あったし」

「宝くじでも当たったの? それなら貯めておきなよ。この先、どうなるかわかったもんじゃないし。ほら、あれ」

「コロナ?」

 夏八木はうなづいたようだった。

「秋津っているでしょ。秋津が言うにはさ、この先、大変なことになるって言うんだよ」

「たとえば?」

「外出禁止とか都市封鎖とか」

「心配しすぎじゃないかな」

 自然な会話のキャッチボールができていることに、緑川は驚いていた。

 この時間が一秒でも長く続くように願いながら訊ねる。

「蒼はさ、どう思ってるの?」

「どうって?」

 夏八木は目をこする。

「外出禁止になると思う?」

 んー、と夏八木は天井を見上げるようにした。

「わからん。っていうか、今、それどころじゃないんだ。苦しんでいたり、広がらないように頑張っている人には悪いんだけど」

「なんで?」

 おそるおそる訊いた。変なやつに狙われて困っていると面と向かって言われたら、取り乱しそうだったからだ。

「実はさ、小説書いてんだよね」

 意外な言葉に緑川は嬉しくなった。

「ホント、すごいね。ねぇ完成したら読ませてよ」

「ダメ」

「なんで?」

 そこで夏八木はあくびをした。

「恥ずかしいじゃん。裸見られるみたいで。小説ってつくりものだけど、ある意味、その人の深いところが出るわけじゃん」

「確かに。本棚を見れば、その人がわかるみたいに小説を読めば、書いた人がわかる気がする」

 それならば、なおさら読みたいと緑川は思った。

「それにさ、一番に読んでもらいたい人がいるからさ」

「…………」

「あぁ、眠い。やっぱ帰って寝るわ。ごめんな、変な話して」

「………………」

「緑川さんも眠そうだね。ここ、酸素薄いのかな」

「……それ……さ……もしかしてだけど……桃野……く……」

 夏八木の表情が変わったのを緑川は見ていなかった。

「桃野? え、桃野? なんで?」

「………………なんとなく……かな?」

「なんとなくか。そっか、あ、今度、本、持ってくるよ。明日でもいい?」

  緑川はなんとか「うん」と言葉を絞り出した。


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