1月11日 桃野 千秋

 桃野千秋の血圧があがった。

 サークル棟の中庭のベンチに憧れの人の姿を見つけたからだ。

 ガラクタで狭くなった廊下を走る。階段を駆け下りる。四階ぶんを一気に移動して、自動販売機コーナーのところで一旦、足を止める。

 呼吸は完全に整わなかったが、ゆっくりと桃野は歩き始めた。「彼」はベンチから立ち上がった。

 まずい。

 声をかけようとしたが、うまく声がでなかった。

 どうしよう。

 彼は雲のない冬の空にむかって拳を突き上げるように大きくのびをした。あくびをするように口元を手で隠すようにしてから、石造りのベンチに腰をおろした。

「あれ、先輩じゃないすか」

 喜びを隠しながら、桃野は声をかけた。

「おぉ、久しぶり、でもないか」

「でもないですね」

 隣に座ろうとしたが、幅の狭いベンチの中央に彼がいるので、桃野は困った。「隣、いいですか」と口にするのもためらわれた。仕方ないので立ったまま、話をすることにした。

「あくびしてませんでした、今?」

「ん、ああ、見られたか。別に見られてどうってもんでもないか」

 ぼそぼそっと言う。その口調も桃野は好きだった。

「朝まで誰かと飲んでたんですか。もしかして、彼女さんですか?」

「いや、もう朝まで騒ぐ元気はないよ。お前らと違って、もうオッチャンなんだ」

 自嘲気味に顔を歪める。恋人のことには触れない。

「それじゃ、勉強ですか」

 まさか、と彼は手を振る。

「そんな真面目な人間だったら、浪人も留年もしない」

「ですよね。こうなったら一緒に卒業しましょうね」

「卒業ねぇ」

 珍しく彼は暗い顔を見せた。正確にはふとした瞬間に物憂げな表情をしていることもあるのだが、それは周りに人がいないときだ。陽気ではなく物静かなタイプだが、人前で沈んだ様子を見せることはまずない。だから、桃野は動揺した。

「オレ、思うんだけど、卒業してもうまくいく気がしないんだよ。就職して、生活できるだけのお金を稼いで、恋愛して、パートナーを見つけて結婚して、子どもを産んで、というか産んでもらって、一緒に育てて、ちゃんと親になる。全部うまくできる気がしないんだ」

「別に“うまく”やる必要なんてないと思いますけど」

 突然、彼――白井冬至朗は立ち上がった。

「桃野、お前、夢をみることはあるか?」

 あまりにも唐突な問いかけに戸惑いながらも、桃野はうなづく。

「ありますけど、あんま覚えてないですね。そもそも、あんまり見ないほうだと思います」

「そうか、そりゃうらやましいな」

 桃野には謎の言葉だった。

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