1月1日 緑川 春海

 緑川春海は実家でミカンをむいていた。今年は帰るつもりはなかったのだが、どうしてもと妙に帰省をうながす母親には勝てなかった。

「あんた、ちょっと食べすぎじゃない」

 そう言いながら、緑川の母もミカンの入ったカゴに手を伸ばす。

「柑橘類は美容にいいんだって。都会の一人暮らしはビタミンが足りない」

「都会って言ったって、あんたのアパート、埼玉じゃないか。うちは二十三区内じゃないけど、一応、東京都だよ」

 からかうように言って、太った母親はミカンの皮に爪を立てた。

「中野より西を東京だと思っている人は埼玉にはいないって。埼玉県民は池袋が東京のど真ん中か、埼玉の一部だと思ってるんだ。認識がずれているんだよ」

「それじゃ三鷹は東京だと思われてないのか。あんたね、そういう変な思想の持ち主と結婚するんじゃないよ」

 唐突に結婚という単語が飛び出したので、緑川は吹き出しそうになった。慌てて湯のみを口元に運んで、ごまかす。ティーパックでも粉末でもない、本物の茶葉でいれたぬるいお茶で、口に残っていたミカンを飲み下してから言った。

「いきなり、なにさ。自分の娘がいくつだって思ってんの。まだそんな年齢じゃないでしょうが」

「そりゃそうだろうけどさ、お兄ちゃんのこともあるからさ」

 実家に帰ることを強く求められた理由が、緑川の五つ上の兄、秋雄だった。結婚するので相手の女性を連れてくる、と帰省するなり父親から告げられた。

 この女性が緑川の母親の悩みの種のようだった。簡単にいえば、バーテンダーという職業が気に入らないらしい。若い頃から修行して、将来は自分のお店を経営するために貯金をしているというのは、緑川からすれば立派の一言だ。ただ、昭和生まれの母親からすれば、水商売の女というくくりになるらしい。

「あんたもさ、ちゃんとした仕事に就かないと、ろくな人にもらわれないからね。誰に似たのか、一応、べっぴんさんはべっぴんさんなんだから、狙ってるやつはいるでしょう」

 もらう、もらわれる、という発想がそもそも古い。そう諭そうとしたが、やめにした。言ってわかるようならば、最初からそんなことを口にしない。バーテンダーとホステスを一緒くたにしない。

「まだ当分、先のことだろうけれど、相手のことはよく見極めなさいよ。じゃないと後悔することになるよ」

「まだ先ねぇ」

 何の気なしに口にしたのだが、浮ついた気分の母親は食いついた。

「なに、あんた、結婚したい男でもいるのかい」

「そうねぇ、白馬に乗ったアラブの石油王とだったら、結婚したいねぇ」

 冗談だとわかって、母親は安堵と落胆の入り混じったような複雑な表情で笑った。

「あたしもしたいよ。そんなのいたら、すぐに連れてきなさい」

 石油王はともかく、結婚したい人ならばいなくもないんだけどなぁ。

 そんなことはとても口に出せなかった。

 絶対に反対されるに決まっている。

 そもそも、緑川の好きな人は緑川を恋愛対象に見ていない。

 そして、その人物には想いを寄せる人物がいる。

 そう緑川は感じていた。

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