ミノタウロスとしお
柿尊慈
ミノタウロスとしお
「あけおめ」
妙に太い声がして、目を開く。牛の顔があった。牛の顔って、何だよ。しかし、牛の顔としか言いようがなかった。人間の体に、牛の頭がついてるし。
その牛は、極道の娘が高校教師をやっているかのような赤いジャージを着ている。ジャージー牛乳とジャージをかけているのかなと、寝ぼけた目を擦りながら思う。
思ってる、場合じゃないぞ。
「誰だ、あんた!」
俺は叫ぶ。同時に、体を起こす。寝起きで喉が渇いていたから、うまく声が出ない。咳き込む。視界の端に見えた自分の服装が、見慣れた黒いパジャマであることになんとなく安心した。
「どウシたんだい?」
心配そうに牛が首を傾げた。お前のせいだよ。
青い空。背中がチクチクする。遠くの方に牛が見えた。ホルスタインだ。ジャージーはいない。なんでこいつジャージ着てるんだ。
牧場。ここは牧場だ。青い牧草。チクチクの原因はこれか。俺は手の平と背中から草を叩き落とす。人の姿は見えない。いや、この牛頭を人間としてカウントすべきだろうか。ともかく、人の顔はどこにも見えなかった。
「ここは、どこだ?」
牛頭に尋ねる。待ってましたといわんばかりに、彼? は笑った。
「ここは
千葉県には、牛島なんて島はなかったはずなんだが。
「そして私はミノタウロス。人間だった頃は、
ほとんど、そのままじゃねぇか。
うん? 人間だった頃?
美濃氏は話を続ける。
「端的に言おう。今日から君は、牛男だ」
牛男。牛男って何だ?
首を傾げている俺を見かねたのか、美濃氏は話を続けた。
「君は、丑年だね?」
「ああ、はい」
その通りだったので、頷いてしまう。いや、何で知ってるんだ、こいつ。
「就職も決まらないまま卒業しようとしていたのを見かねた君の大学の先生が、ここでミノタウロスとして生活させてくれないかと、古くからの友人である私に打診してきたのだ」
「はあ、そうでしたか」
いよいよ混乱してきた。こいつ、先生の知り合いなのか? というか、先生にはミノタウロスの知り合いがいたんだな。どうして教えてくれなかったんだよ。当たり前か。意味がわからないもの。
美濃氏が続ける。
「丑年を迎えた丑年生まれの男のことを、牛男というんだろう?」
「年男でしょ。牛男じゃないよ」
俺のツッコミは聞こえていない。美濃氏は角を触りながら話を続ける。本物の角なのか聞きたいところだが、今そこはさほど重要ではない。
「社会性を欠いた、誠実さもかわいげもない君は、社会に出てもどうせロクに貢献しないのだから、人の世から隔絶されたこの島で生活するのがいいだろうという先生のありがたいご配慮の結果、スマホゲームをしながら除夜の鐘を聞き、グースカと寝息を立てていた君をひとり暮らしのボロアパートから連れ出し、牛車で運ぶこと8時間」
すげぇディスられているし、すげぇことされてるじゃねぇか、俺。なんで起きなかったんだ。というか、牛車でどうやって海を渡ったんだろう。
「君のような男に与えるにはもったいない名誉ある【牛男】とは、牛の頂点に君臨する者に与えられし称号だ」
そのわりに、随分とダサいネーミングである。もっとあっただろう、ウシキングとか。それもダサいか。
「いわば王様のようなものだが、君臨すれども統治せずというわけにはいかない。ここで穏やかに生活する牛たちを立派な乳牛として育て、最高のミルクを本土に朝貢する必要があるからな」
「やってることが、ほとんど酪農家なんだけど」
「人間なんかと、一緒にするなぁ!」
急にキレた美濃氏に、パーで頬を殴られる。痛くはない。だが、心は酷く痛む。何で俺は1月1日の朝に、牛の頭のついた人にひっぱたかれなきゃいけないのだ。
美濃氏が咳払いをする。
「助けを求めても無駄だよ。君の実家には、連絡済みだしね」
衝撃の一言。
「息子さんは余生をミノタウロスとして過ごすことになりましたと、指導教官の先生から電話で直接伝えられたそうだよ」
なんだ、それは!
「母さんと父さんは、それで納得したのかよ!?」
教授め、なんてことをしてくれやがる。
「ご両親は、泣いていたそうだよ」
「そりゃ、息子がいきなりミノタウロスになったとなればね」
「ダメ息子に働き口を紹介してくれてありがとうございます、と」
「嬉し泣きの方か」
俺は悲しくて泣きそうだけどね。
「そういうわけだ、
名前を呼ばれ、俺は顔をあげた。真っ直ぐに、黒目ばかりの瞳で見つめられる。この人はいったい、どんなことを考えて、こんな被りものをしているんだろう。仮面が外せないものかと手を伸ばすが、思い切り叩かれる。
「君は今日から、【ミノタウロスとしお】としてここで生活していくんだ」
「お笑い芸人みたいだな」
「としお」
「はい」
あまりにも真剣な声で言われたので、思わず返事をしてしまう。しまった。自らとしおの名を受け入れてしまったではないか。
そんなわけでこの瞬間から、俺は【としお】になった。
ミノタウロスとは、ギリシャ神話において、とある王女と牡牛の間に生まれた、人の体に牛の頭がついた化け物である。乱暴であったために迷宮の奥に封印されていたが、食料と合わせて生贄も要求していたため、英雄テセウスに倒された。
こう書くと、なんと人権の保障されていない化け物だと思う。化け物だから人権も何もないし、その頃には人権意識なんかなかっただろうけど、自分だって牛と人間のハーフとして生まれたかったわけじゃなかろうに、乱暴だからと閉じ込められるなんて。
「まさに、今の俺のようじゃないか……」
ひとりごとを漏らす。反応してくれる人はいない。人は、ね。さっきまでミルクを搾られていた乳牛のサトミ(命名、俺)が、相槌のように「もぉ」と鳴いてくれた。
迷宮に閉じ込められたミノタウロス。謎の島に連れてこられた潮幸四郎、改め【としお】。境遇はそっくりだ。もしかすると、何百年か先の説話になっているかもしれない。現代版ミノタウロス、潮幸四郎の物語が……。
いや、そんな伝説は生まれないだろう。俺は悲劇の主人公ではない。寝ている間に連れ去られて、謎の島で新年を迎えるどころか新生活を送ることになった。
「少年よ、大志を
そして唯一人の言葉を話してくれる住人が、この美濃太郎氏のみだ。腕を組んで、座っている俺の隣で仁王立ちしている。
「
俺の言葉に、美濃氏が小さく笑う。
ここに来てから何日経ったのかわからないが、彼は毎日この赤いジャージを着ているような気がする。赤いジャージのアクセントになっている白いラインは、汚れているようには見えない。どこかのタイミングで洗濯しているのかもしれない。洗濯といえば、その牛の仮面は洗っているのか。というか、どうしてそんなものを被っているんだろう。いや、聞いたことはあるのだが、「ミノタウロスだからどウシようもないんだ」としか言ってくれない。何かにつけて「ウシ」をつけてくるので、腹が立つ。
「俺はそれ、被んなくていいんですか?」
俺は牛の仮面を指差す。美濃氏は動じない。
「被ってなどいない。これは生まれつきだ」
そんなわけないだろ。
「これを被るのは、君にはまだ早いよ。一人前の牛男じゃないからな。そう、半人前の、
半タウロスという言葉の響きに、俺は不覚にも吹き出してしまう。
「さあ、としお。ミノタウロスとしての責務を果たすときが来たぞ」
「え?」
「生贄が来たんだよ」
冗談で言ってるのかどうか、表情が見えないのでわからなかった。見えるのは相変わらず、闇色の瞳だけ。
残念ながら現在まで女性経験が皆無だったため、俺はいきなりやってきた生贄の美女に困惑する。同い年、あるいは年下のように見える美女。
足元まで伸びた非常識ながらも美しい黒髪は、油を塗ったかのような艶をもっていながら、ベタベタとした質感は感じさせない。本当に地面ギリギリなので、彼女がいつか自分で踏んでしまうんじゃないかと不安になる。
問題は、なぜか彼女が着ている真っ白い着物。帯まで白く、色白の肌も相まって、今にも消えてしまいそうな印象を与える。というか、本当に消えているのかもしれない。なぜかというと、左前で着こなしているからだ。完全に
「さて、彼女の名前は
美濃氏が腕を組みながら言う。
俺はふと、牛の方のサトミを振り返る。俺の視線に気づいたのか、サトミは「もぉ」と鳴いた。聖美もサトミを見る。一瞬だけ、彼女の瞳が輝いた気がした。えっと、聖美の方の瞳ね。人間の方。
「君がいくら社会性のない人間だとしても、比較的穏やかかつ豊かな環境で成長してきたという自覚くらいはもっているな?」
どうしてこの人――もといこの牛は、俺に対してこんなに辛辣なんだろう。不思議と慣れてきてしまったけど。
俺は仕方なく頷く。うちは特別裕福だったわけじゃないが、学費も特に借金したりせず、のんびりと実家暮らしでもよかったところを、あえてひとり息子の俺にひとり暮らしさせてくれたのだ。恵まれてなかったといえば嘘になる。
まあ、就職できなかったから恩返しできそうにもなかったのだけれど。
「対してこの聖美は、これだけの美貌をもっていながら、君がさも当然のように教授してきた教養や一般常識といったものをほとんど身につけていない」
俺は目を見開く。そして、聖美を見る。真っ直ぐにこちらを見ているような、それでいて虚空を見つめているような、真意の読み取れない灰色の瞳。
「さすがに排泄の方法くらいはわかっているようだが、ロクに言葉も喋れないようだ。ところどころ知性を感じさせる行動を見せるものの、社会性の低さという点では君に負けないだろう」
まじまじと聖美を見る。ふふっと、小さな笑い声が牛マスクの方からした。よほど間抜けな顔で見惚れていたのだろう。俺は恥ずかしさを誤魔化すように美濃氏に向き直る。
「で? 生贄はミノタウロス宛てのものなんだろう? 半タウロスの俺じゃなくて、一人前のあんた宛てのさ。なんで俺にわざわざ紹介したんだよ」
「……私はもう、長くない」
真剣な声と重苦しい内容に、俺は息が詰まった。
「息苦しいのだよ、このマスクが。もう歳だな。若い頃のようにはいかない」
ずっこけるところだった、危ない危ない。
「外せばいいじゃねぇか」
「これを外したら、私はいよいよただのオジサンになってしまう。いい加減、ミノタウロスを引退するべきなんだろう」
もっと早く、引退すべきだったと思うんだけど。口には出さない。美濃氏がまだ、真剣な様子で話を続けたがっているからだ。
「私は、乙女座だ」
「知らんけど」
「そしてなんと、
美濃氏は膝をついて、右手で牧場の地面を殴りつける。怒りにうち震えているのかと思えば、シンプルに拳が痛いらしく、左の手の平で右の拳をさすっていた。赤いジャージ姿で。何なんだよ、この光景は。
「だから私は、これを被っていなければ牛になれない」
被ってても、なれてない気がする。
「だが、君は丑年だ! そして、おうし座だそうじゃないか! さらに出血大サービス! 潮さんの名字をいただき、幸四郎なんて名前もつけてもらった! ウシまみれじゃないか!」
誰がウシまみれか。
遠くで鳴くサトミの声。聖美の方は無表情。ブルブルと震えるミノタウロス。……そういえば、「ブル」って牡牛のことだったな。
「そういうわけで、ミノタウロスとして落ち目の私ではなく、半タウロスとはいえど私よりもより牛めかしい君の方が、ミノタウロスへの生贄である聖美を受け取るに相応しい、というわけだ」
俺は美濃氏を無視して、聖美に話しかけてみることにした。
「聖美?」
名前を呼ぶと、こちらを見上げてくれる。ここに来てから黒目ばかり見てきたので、人間らしい瞳がひどく懐かしい。
「君は、どこから来たの?」
俺の質問に、聖美は少し考えるように目線を上に向けるが、やがて右側に首を傾げてしまった。
「彼女は、自分が暮らしていた場所の名前も知らないのだ。もしかすると、別の場所に連れてこられたということにも気づいていないかもしれない」
「……それじゃあ、虐待じゃないか」
ふつふつと沸いてきていた怒りが、ついに口からこぼれてしまう。聖美の表情は変わらない。美濃氏の感情も読み取れなかった。
「こんなにキレイな子なのに、言葉もロクに知らず、生まれた場所もわかっていないなんて! 育てたやつは、何をしていたんだ! 健康に育っているから食べ物だけはしっかり与えられてたんだろうけど、これじゃあまるで、彼女は人間じゃなくて動物じゃないか! ……そこのサトミと同じだ。ただ人間の舌を喜ばせるためのミルクを搾られるだけで、自分が家畜だと自覚していない、サトミと同じだ!」
「君はそう言うがね、としお」
諭すような美濃氏の声で、俺は我に返る。
「もし君が彼女の美しさに欲情し、自分の子を彼女に産ませ、しかし自分には稼ぎがないからと逃げ出したなら、聖美が育てた子は、どんな風になると思う?」
「そんなこと、するはず――」
言いかけて、俺は何かに気づく。このまま聖美が母親になっても、子どもに教えてあげられることは何もない。食事くらいなら与えられるかもしれないが、子どもは聖美のように、何もできないまま育つだろう。
もしそうなったとき、聖美は誰かから「育てたやつは何をしていたんだ」と、怒鳴り散らされるべきなのだろうか。
「――ミノタウロスは、生贄として捧げられてくる男たちを
美濃氏の言葉。俺はその内容の不快さに、眉をひそめる。
「聖美は、君のものだ。殴るも犯すも、君の自由だよ」
その言葉にカッとなり、俺は美濃氏に殴りかかろうとするが、彼が続けた言葉のおかげで踏みとどまれた。
「もちろん、彼女を一人前の美女にするのも自由というわけだ」
アニマルセラピーという言葉がある。動物とのふれあいが、精神的な不調を回復させるというものだ。実のところ、就職の決まっていない俺自身はさほどそれを気にも留めず、どちらかというと母さんの方がよほど悩んでいたようだった。そう考えると、どう考えても牛と触れ合うべきは俺ではなく母親の方なのだが……。
青い空。白い雲。青い牧草。白い牛。そして、微笑を浮かべた色白美少女。少しずつ言葉を教えてみているが、なかなか手ごわい。ただ、合っているかどうか不安そうに俺の名前を呼んでみたときの衝撃的なかわいらしさに、俺の心臓は飽きもせず高鳴ってしまう。問題は、彼女が俺を「としお」だと思っていることである。
言葉はまだ覚束なくとも、牛との関わりのおかげか聖美には笑顔が増えてきた。あまりにもそれが美しいので、俺は抱きつきたくなるのを押さえるのが必死だ。たまに、欲求の捌け口としてサトミに抱きついているのを美濃氏に笑われる。
スマホはひとり暮らしの家に置き去りのまま、この島に連れられてきた。ここにはテレビもラジオもない。スマホゲームのログインボーナスが全然回収できなくなっているが、もはやどうでもよくなっていた。俺はこの、牛と牛頭と美少女しかいない環境にだいぶ慣れてしまっている。むしろ、今は聖美がそばにいてくれる環境が恋しい。だが……。
俺は聖美に、もっと世界のことを知ってほしいと思い始めていた。当たり前のように享受してきた娯楽に触れて、もっと聖美を笑顔にしたい。だがそれは、この島の中では無理だ。定期的に島の外に出ているらしい美濃氏に、テレビやスマホをねだったことがあったが、見事に断られた。彼女にはもっとたくさんの刺激が必要なんだ。いつまでも死装束じゃなくて、オシャレな洋服を着せてやりたい。これが恋なのか父性なのか、自分でも判断しかねているが。
俺は周りに牛マスクがいないのを確認して、サトミのブラッシングをしている聖美に耳打ちする。
「なあ、聖美。俺この間、見ちまったんだよ」
聖美は首を傾げた。
「ここから少し歩いた先に小さな桟橋があって、たまに舟が停まってるんだ。おそらく、島の外から色々な生活物資を運んでくれてる人がいるんだよ。じゃないと、ここでいつまでものんびり生活できないからな。
聖美、外に出よう。俺の家で一緒に住もう。俺、就職も決まってないけど、聖美と一緒に暮らせるよう、急いでどこかで探すから!」
舟だの就職だのと言われても、聖美には理解できていないようだ。聖美は逆向きに首を傾げる。しかしそのあとに、にこりと笑って頷いてくれた。
イマイチちゃんと同意が得られたのかどうかわからないが、よしとする。色んな土地を連れ回される聖美がかわいそうではあるが、戻ってから必ず幸せにすればいい。
何月何日かはわからないにしても、舟は15日置きにやってきているのを遠めに突き止めた俺は、今日がその舟がやってくる日だということにも気づいていた。機会はいくらでもあるだろうが、悪天候に見舞われたときにどうなるかわからない。できるだけ早く、彼女を連れて行きたかった。
俺は聖美の手を取る。強く握りすぎないよう、やさしく。すると聖美は、しっかりと握り返してくれた。彼女が髪を踏まないように、ゆっくりと歩く。そうだ、美容室にも連れて行かないとな。
俺は牧場の柵をまたぐ。最初は文句ばかり言っていたものの、俺はこの柵の中が心地よくて、連れてこられてから柵の外に出たことがなかった。死装束の聖美は脚を高くあげることができないので、俺と両手をつなぎながら両脚でジャンプする。無事に乗り越えられた。
牛の声。サトミの声だ。俺は急に、ここから出て行ってはいけないような気分になる。サトミをはじめ、俺はたくさんの牛と一緒に暮らしてきた。家族のような存在になっていた彼らをおいて、俺はこんな駆け落ちじみたことをしてもいいのだろうか。
それに、何だかんだここまで俺たちの面倒を見てくれた牛マスクの美濃氏にも、許可も挨拶もなく出てきてしてしまった。戻るべきか? いや、どうせひどくディスられた挙句拒絶されるに違いない。ええい、このまま行ってしまえ。
どれだけ歩いたのかわからない。俺は汗を流している。汗が聖美に飛んでいないか確認するべく振り返った。聖美は、笑顔だ。まるでマラソンを完走した後のような、清々しい笑顔。俺は元気をもらう。聖美の幸せのためだ。俺はどんな環境で働かされても構わない。とにかく、彼女を幸せに!
「あった、舟だ! 人もいるぞ!」
桟橋にボートが停まっていて、タバコを吸っているらしい男性の姿が見える。背が高いが、若くはなさそうだ。髪の毛はほとんど生えていないが、不思議と不潔感や哀愁は漂っておらず、むしろ知的な印象を受ける。首筋にはシワが走っているが、なかなかガタイがいい。美濃氏とは対照的な、赤いボーダーの入った白いジャージを着ている。
死装束の美女と、汗だくの黒パジャマ。その奇妙な取り合わせに男性は驚くことなく、ただじっとこちらを見ていた。タバコを、ケータイ灰皿に捨てる。改めて向き直るが、彼は話しかけて来ない。こちらの言葉を待っているようだった。
俺は呼吸を整えて叫ぶ。
「島の外に連れてってくれ! 彼女を幸せにしたいんだ!」
さて、元日より俺が過ごしていた牛島は本当に千葉県の近くにあったらしく、結局最後まで一言も喋らなかったボートの男性が俺たちをボートに下ろすと、そこは千葉で有名な漁師町の港だった。
黒いパジャマの男の腕に、絶世の美女が組み付いている。いくらか好奇の眼差しを浴びたが、親切なおばあさんから電話を借りて、俺はひとまず実家に電話した。金も何もない俺が、聖美を屋根のある安全な場所に落ち着かせるには、親しか頼れなかったのだ。母さんはしばらく沈黙した後、仕方ないわねと返事をしてくれた。日頃から世話になっていたとはいえ、この日ほど母さんに感謝した日はない。
車で4時間ほどかけて息子を迎えに来た母親は、息子の腕に美女が絡みついているのを見て歓喜の叫びをあげた。聖美は興味津々に自動車を眺めていたが、彼女を気に入ったらしい母さんに助手席につめこまれると、今度はシートベルトを伸ばしたり縮めたりし始める。実の息子は後部座席に放っておいて、母さんは口の利けない聖美に色々と質問しては、返答もないのに「そうなのね~」などと言っていた。
実家について、しばらくは聖美と一緒に世話になることにした俺は、どうにか大学の卒業式に出席し、職の決まらぬまま卒業。卒業式に着ていったスーツのままいくつかの会社に面接を受けに行き、へとへとで帰ってきて、白いパジャマを着た聖美の歓迎を受けたときは鼻血が出るかと思った。俺が面接に悪戦苦闘している間に、どうやら母さんが「おかえりなさい」を教え込んだようである。
ところで、聖美の着ていた死装束と思しき着物は、実はかなりの高級品だったらしく、1000万円近くの値がついた。母さんや父さんはその着物を大切に取っておこうとしたようだが、めでたく教育テレビで日本語を学習して意志を伝えることができるようになった聖美が、お世話になってるお礼ですと言うもんで、ふたりは泣いて聖美に抱きついた次第である。ようやく仕事の決まった俺は、その横でどういう顔をしたらいいのかわからず、サトミは元気にやっているだろうかと心配するのだった。
初めての仕事が落ち着いてきた頃。
俺は大学の先生の元を訪れ、知り合いだという美濃太郎氏の住所を聞きに行った。よくも島送りにしてくれたなと殴りたかったが、そのおかげで俺は必死に職を探せたのだ。殴るのは心の中だけに留めておく。
美濃氏には、突然島を飛び出してしまったことへの謝罪と共に、長いんだか短いんだかよくわからない島生活のお礼と、聖美を幸せにしたいという誓い、そして彼の健康を祈る言葉を乗せたハガキを送った。聖美が漢字の書き取り練習をしている写真も一緒に。
数日が経過して、その美濃氏から返事が来た。文章はひどくシンプルで、「大志を抱けたようだな、少年!」とだけ。怒っていると思ったのだが、そうでもなかったらしい。
美濃太郎というサインの横に、彼の素顔を思しき写真もついていた。何となくそこに視線を移した俺は、飛び出るほど目を見開き、声にならない声という感覚を初めて味わう。俺の後ろからハガキを覗いていた聖美はさほど驚いていなかったので、もしかすると最初から彼女はわかっていたかもしれない。
ハガキの送り主である美濃太郎氏は、牛のマスクを脇に抱え、赤いボーダーの入った白いジャージを着て、写真に映っていた。くわえタバコ、にんまりとした笑顔。彼の後ろには果てしない牧草と、見慣れた赤いジャージが物干し竿に吊るされているのが見えた。
(おわり)
ミノタウロスとしお 柿尊慈 @kaki_sonji
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