毛内有之助

 この日は江戸から数名の隊士が同時に入隊することになっており、加えてその一行が開いていた道場を畳んでの団体参加とあっては、にわかに屯所が騒がしいことにもうなずけた。

 幹部たちはそれぞれ個室を設け、新入隊士たちに個別面談しなさだめを行った。その中で総長山南敬助はどこか安堵の表情を浮かべていたのは、活発な武辺者とばかし思っていた相手が自分によく似た、色白で書を読むことを好む青年だったからである。

「感じのいい人だなあ」とやつれた頬に自然と笑みが浮かぶ。この頃、同僚をはじめとする人間関係に疲れきった山南は、組織としての目的を忘れてその男と語り合った。

「上洛でお疲れでしょうから、今日はゆっくり体をお安めください、毛内もうない有之介ありのすけさん」

「いえ、私は伊東先生が来るより前からこっちにおりますので。それと私の事は是非“監物かんもつ”と」

 この申し出を特に不可解には思うことはなく、山南は二つ返事で「わかりました、監物さん」と話しを続けた。新選組にやってくる浪士には、脱藩者も多い。変名を使うのはさほど珍しい事ではない。

 山南は今までにも何人か、新入隊士と話したことがある。皆武士に憧れているのだと自分を見つめたり、首をずいっと前へ押し出して現在の世情を嘆いたり、楽に出世できると酒臭い息を吐いたり、様々だった。その中でこの監物は、話が途切れると障子の方を黙って見つめている。こんな男には会ったことが無い。

「誰か廊下を通りましたか?」

「いえ、あれを床の間に飾ってみたいなあ、と思って」

 長い睫毛をした切れ長の目が見つめる先には、掛軸の幅ほどに開かれた障子があった。その向こうでは中庭の紅葉が指先を愛赤く染め、黒い瓦の上に雀の番が佇んでいた。


 山南が屯所を歩くと、必ず監物を目にする。障子戸を掛軸ほど開けたまま書を読んでいたり、文机に向かって何やら筆を走らせていることが殆どだったが、馬の調練について隊士と話していたり、槍や小太刀といった武芸に励んでいた。

「いい青年だ。武道においても創意工夫を怠らぬ数奇者と見える」

 局長近藤勇は監物が弓を射る様を見ながら上機嫌にそう言った。年下の隊士に教示しているようである。憧憬色に輝く目で毛内を真似する隊士だったが、矢は一本も的には当たらなかった。

しかし柱にもたれてそれを見つめる沖田総司は、皆ほどあの男に興味が無いらしく、ささくれた柱を猫のように爪でカリカリ引っ掻きながら小さく嗤った。

「流石、盛岡藩の由緒あるお武家様はご教養が違いますねえ。私たちとは育ち方が違うんでしょうね、きっと」

 山南は驚いた。監物の家柄が良いことは、初めて会った日以来誰にも伏せてあったのである。彼は何より、組織が乱れることを嫌っていた。嫉妬を発端としたいざこざが起きるのを嫌い、先手を打ったつもりだった。

「総司、誰にその話を聞いたんだ」

「本人ですよ」

 その本人は的を逸れた矢を見つめていたかと思うと、思い立ったように懐から小刀を取り出し、手元の矢の先を削り始めた。古物商が刀を鑑定するように右目でその削り具合を眺めている。

 その後に隊士の放った矢は、旅路の地図を手にしていたように、迷うことなく中心に吸い込まれていった。「よおし、でも実戦じゃ使えないなあ」とおどける声に続いて、隊士たちが笑った。

 弓の稽古を終えた監物は、盟友の伊東甲子太郎の部屋をたずねていた。上洛したばかりの伊東の部屋はまだ閑散としていたが、それでも新参者に個室が与えられるのは信じられぬ好待遇である。

「山南さんも気の毒にねえ」

 二人の間には、菊を象った京菓子が置かれていた。思想や人間性が似通っていたこともあったが、それより趣味が近かったことが二人を盟友たらしめていた。

 伊東は白菊の菓子をつまんで、口に放った。目を細めてうっとりと口の中の甘味を堪能している。口にした茶もこちらで用意したものである。薄くはあったが、確かに満足する香が身体に浸み込む。

「ふふ、あの人がせっかく黙ってくれていたのに。わかっているとは思うが、沖田という男はお喋りだよ、監物君」

「ご心配なく。何ならここらの者たちにはほとんど話しております」

 伊東がキョトンと彼を見つめた。役者のように凛々しい彼にそんな表情をさせたことを誇りながら、監物は紅菊の菓子を口に入れた。

 ひとしきり話し終えると、彼は屯所を出た。底の浅い琉球下駄を彼は好んで使った。監察役の隊士が「毛内さん、いずこへ」と引き留めると。「ここらの偵察に」と、振り向きざまに歯を見せる。深い海のような瞳は、こちらが未だに行動を警戒しているのを見透かしていて、その上で遊ばれているようだった。

 格子造りの民家に挟まれながら、監物は歩いた。遠くに見える仏塔や訛りのある武士のことよりも、彼は虫籠窓などに関心がある用だった。見上げた瞳に京の空を映しながら「もし自分が屋敷を持つ時は、虫籠窓あれをつけよう」と思っていた。

 黒い羽織袴の隊服で往来を歩くと、米粒にまぎれた胡麻みたく目立ってしょうがない。しかし道行く人は監物を見る度に、他の新選組隊士のような恐怖や嫌悪を表すことなく、思わず手を振ってしまう。不思議な魅力が彼にはあった。

「監物さん、この本読みたいって言うてましたやろ」京の祭りや伝統、服装や食文化をまとめた本を手渡してくれた貸本屋。

「おお監物さん、今日は寄って行かんの」この辺りの歴史の事を聞きに行ってから碁打ち仲間になったご隠居。

 以前あげた竹トンボの上達ぶりを見せに来た童。田舎者同士、京文化を共に勉強中の土佐浪士。「これからもご贔屓に」と酒瓶を手渡してくれた酒屋。尻尾の形から勝手に「ホウキ丸」と名付けた人懐っこい野良犬。

 鴨川の方まで歩いた。涼しい風がきれいに剃られた月代を心地よく撫でてゆく。

「随分と西の方に来てしまった」

 なだらかな山稜も、そこから空に広がる鰯雲も、盛岡のそれとは違っている。下駄の底に、丸石がゴロゴロしている河原に立っていることが伝わってくる。ここまでくると、賑やかな京の声は遠のいている。

 腰に差した小太刀。金の柄に紺色の紐が誂えてある。元々は実家の床の間に飾ってあった家宝「天國あまくに」であった。継母と兄に出かけると嘘をつき、そのまま二度と戻ることなく湯宿で支度を整えて、脱藩した。その際、自分がひそかに路銀や荷をまとめていた湯宿に、この刀が送られてきた。それきり、家の者には会っていない。

「重いなあ」

 由緒ある家の出です、と伝えることはその人の本性を見るということに他ならない。「嫌味か」と睨む人、見え透いた世事を言う人、突然改まった態度になる人、他の何かで見下そうとする人、自分の家も負けていないと張り合う人。

「重いなあ……」

 橋の下に、一人の男が蹲っているのが見えた。砂埃がからまる筵を纏って、ジッと川が流れるのを見つめている。老猿のような顔立ちをしていた。

「もし、寝ておるのですか?」

 耳が聞こえないのか、反応がない。ふむ、となんとなく男の隣に座った。尻肉に丸石が食い込んで少し痛い。その時腰元で、酒が波を立てる音がした。先程の貰い物である。

「よければ一杯、いかがでしょう」

 酒瓶を出すと、男は途端に黄色い前歯で笑った。しかし、何かを話そうとはしなかった。年のころは四十とみえた。

 男の木椀になみなみと注いだ淡酒を二人で飲んだ。秋の日の光を、川魚の鱗が照り返してキラキラ光っている。

「私、脱藩浪人なんです。元々は盛岡の由緒ある家でしたが。この刀、その時持たされた家宝なんですよ」「え、高そう? ダメですよ~売っちゃ。兄上らに申し訳ない」「伊東先生はね、面白い人ですよ。文武両道で策士だけど、甘いものに目が無いのです」「沖田総司に会ったことはありますか? めっぽう強いけど子供みたいな人でして」

 監物の話を男は黙って聞いていた。たまにズズッと酒を啜って、歯の隙間から笑い声を洩らしていた。

「新選組が身分を問わないという話を聞いて、私のようなのは邪見に扱われる物とばかり思っておったのです。しかし、あそこはそれよりもまず武や技の優れる者が重宝されます。それでなくとも、この辺りに詳しかったり、頭が切れる者も出世頭です。……ここで生きてみたいなあって思ったんです」

 不思議と喋り過ぎた。こちらばかりがべらべらと、みっともない。という監物の表情にも、男は酒で顔を赤らめた朗らかなそれで返した。監物は「もう一杯どうぞ、おやじ殿」と酒瓶をもたげた。秋の川岸の、日の当たらない橋の下で、二つの影が動いている。道行く人たちは、それにほとんど気づかない。

 暮れになって、男は監物と酒屋に行きたい旨を伝えたが、彼は脚に刀傷があって、立ち上がるのもままない。加えて新選組では門限を過ぎると脱走と見なされることもままあるため、監物は彼と別れて一人帰路についた。

 しばらく歩くと、背後から「毛内さん」と声がした。振り向くと笠を深く被った、黒い羽織袴の小男がいる。屯所を出る時に声をかけた監察方の隊士である。

「あまり氏素性のわからぬ輩と遊ぶのはおやめください。それも昼間から呑んだくれて」

「おやじ殿を悪く言わないでもらいたい」

「貴方は新選組です。あの男が長州の刺客であるやもしれぬ、酒を飲んだ帰り道に斬りかかられるやもしれぬ。それをお忘れなきよう」

 小男は歩き出した。監物もそれに続く。こそこそ見張られ、今日できた友を侮辱され、何も思わぬはずが無かった。しかし、監物はぺこりとお辞儀して、その小さな後ろ姿を追った。彼は、この小男が針医師の倅で誰より武士に憧れ、剣術や棒術を熱心に学び、先日ようやっと買った自慢の刀を差していることを知っている。

 翌日のことである。監物は伊東の部屋で、彼の門弟数名と時勢について語り合っていた。

「すなわち、攘夷と言うは易し。真の攘夷を行うは難し。勝算の無い敵に突撃することは、愚策も愚策」

 大事ナルハ諸外国ト交易ヲ結ブコト也。西洋列強ノ文明知識ヲ貪欲ニ吸収シ、豊ナ国家ト精強ナル兵ヲ持ツコトコソ、コレ真ノ攘夷也。然シ只闇雲ニ開国実行スレバ、野心ヲ持ツ雄藩ガ現レ日ノ本大イニ乱ル。然ルニ昨今ノ日本国ノヤウナ幕藩体制ヲ一度見直シ、天子様ヲ立テ朝廷ニヨル政権運営ヲ行ヒ、権力ノ合一化ヲ図リ……。

 伊東の講義に参加する者は、日に日に増えて行った。その中には新参者の平隊士や幹部隊士の他に、山南の姿もあった。

 講義を終えた伊東は、息をついて姿勢を崩した。疲れに満足を覚えた顔である。監物はその隣で、皆に配った菓子のあまりをせっせと袱紗にくるんでいた。

「おや珍しい、今日は島原かな」

「いえいえ、おやじ殿と食べようかと」

「へえ、御父上が上洛なされているのかい」

「いえいえいえいえ、猿の名前ですよ、ふふ」

 包んだ袱紗に落とした笑み。それはこの後の「おやじ殿」との時間に向けられたものだった。早速部屋を出ると、監物より少し背の低い、目の大きな青年が立ちはだかっていた。沖田総司である。「毛内先生、いけませんよ」と、彼は道を譲ろうとしない。沖田総司と監察方の小男が重なって見えた。

「猿に人間の物を与えちゃいけません。毒になるでしょう」

 障子の向こうで伊東が小さく「そこか」と笑った声がした。

 京の往来に、琉球下駄が地を蹴る軽快な音が鳴る。もう遠くの山々も紅葉が見える頃。故郷は今頃雪が積もっているやもしれぬ。遠くに鴨川が見えた。ととろおりとろおりと水が流れていくようで、いつもより眩しい。

 橋の下へ行ってみたが、そこに人影はなかった。男が敷いていた筵も片付けられている。はて、どこか場所を変えたのだろうか、しばらく探したが見つからぬ。

 川の上流目指してしばらく歩いていると、何やら人だかりがあって、その中央には竹らしき棒が伸びているのが見えた。「大ぶりの魚でも打ちあがったか」と駆け寄ってみると、そこには人間が一人磔にされてあった。首は切断され、隣の杉板に置かれている。その男の足には刀傷があり、猿のような顔をしていた。

ましらノ六太郎。此ノ者ノ罪状ハ奸臣ニ通ジ尊王ノ志アル烈士ヲ辱メ…………………………………………………………………………………………………………………………………………………』

 人々はこの事件の下手人を噂し合い、この頃の治安に怯え、もうじき来るであろう新選組のことを話していた。一人が監物の姿に気づき、その装束から新選組が来たと大きな声を出した。

 それから小魚が岩陰に隠れるように人々は早足で遠ざかった。中には監物の知り合いもいたが、気づくことはなかった。

 欄干に鴉が、橋の下に猫が潜んで、こちらを伺っている。一羽の鴉が飛んできて、袱紗から散らばった菓子の一つを咥えていった。

 涙がこぼれる理由は、監物にもわからなかった。以前隊士の切腹に立ち会ったことがある。酒に酔って暴れたことが士道不覚悟とされ、その日の内に腹を詰めた。こちらの人だったが酒の趣味が似ていて、監物の訛りも気にしない男だった。

 怯えながら彼が腹を切るのを冷たく見つめ、農作業の一環のように刀を首に振り下ろした隊士。その様子を見届けた途端「よし」と出て行った隊士。彼と話したことも無いのに、その躯を戸板に乗せて寺へ運ぶ隊士たち。

 その時にも流れなかった涙が、なぜ今になって湧いて出るのか。

 都のはずれの小さな寺を、一人の男がたずねた。その装束から一目見て新選組の隊士だとわかった。その腕には、布でくるんだ大きな荷物があった。

「弔ってもらいたい」

 彼が差し出したのは、どうやら人の頭であるらしい。驚きはしなかった。引き取り手の無い遊女、辻斬りに遭った男といった者たちを弔っているのだ。何も言わず仏に合掌し、それを引き取った。

 男が殺したのではないとすぐに分かった。腰の高級そうな小太刀のみで、この細い男が返り血も浴びずにここまでやるなど到底信じられなかったからである。

 新選組らしいその男は、仏壇を前に目を瞑ると、石のように手を合わせていた。松虫が境内のどこかで鳴いている。


「おうい監物、たまには島原にでも行かんか」

「ええ、気が向けば」

「そればかりだな、お前は……」

 赤い葉が落ち枯れ枝が残り、そこに雪が積もるようになった。猿の六太郎の話をする人間は誰もおらず、彼が何故殺されたのか、何者であったのかを監物が知ることは生涯無かった。

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