慶長5年6月美作(その6)

戌ノ刻を過ぎた城下は、人っ子ひとりいない。

長兵衛の屋敷を抜け出した捨丸は、山城の竹山城の後背地の小高い丘に登り、そこから下った虎口の裏門へ忍び入った。

裏門は、そのまま城の二階部にあたる二の丸に通じていた。

中廊下をすぐ左に折れたところが、座敷牢だった。

座敷牢といっても、障子戸の外に格子枠がはめられただけで、見張り番もいない。

「百合姫」

と障子戸の奥のぼんやりした灯りに向かって、小声で呼びかけると、

「捨丸?」

衣擦れがして障子戸に影が映った。

「ここへ来てはなりませぬ」

いつものやさしい声が聞こえた。

「見つかれば、今度は捨丸が咎められよう」

捨丸は、百合姫の声が聞けただけで、忍んで来たかいがあると思った。

「かまいません」

と震える声で答えると、百合姫はしばらく黙っていたが、

「見廻りなどは来ぬが、長居は無用じゃ。早々に立ち去るがよい」

ようやく年長の女の分別が働いたのか、絞り出すように言った。

思いを巡らせていた捨丸だが、

「イエスさまのお話がまだ途中です。・・・近々、東西を二つに分けた大きな戦いがあるように聞いています。その時には、新免衆のひとりとして参戦するはず。どうかそれまでに、お話をお聞かせください」

ここへ忍んで来るよい理由を思いついた。

「おお、初陣ですか」

姫は、陰りのある声で、ひとりつぶやいた。

「この間は、ひとは麺麭だけで生きるものではない、というお話でした」

「おお、ほんに。分かりましたか」

「ええ、わずかながら」

「分かる分からぬではなく、これを行うのが信仰です。それでは、今夜のお話を手早く済ませましょう」

そう言うと、姫はわずかに障子戸を開け、灯りを背にした暗い顔を半分だけ見せた。

「さらに、悪魔はイエスさまを高い山に連れて行き、すべての国と繁栄ぶりを見せ、じぶんにひれ伏して拝めば、これをすべて与えよう、と誘惑したのです」

「繫栄したすべての国を与えると・・・」

「ええ、そうです。イエスさまは何と答えたと思います?」

捨丸は、小首を傾げた。

「退け悪魔。じぶんが拝むのは神だけだ、と言われたのです。それで、悪魔はあきらめて立ち去りました」


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