第2話 きれいなブルドッグ

「佐江……キス」


 と、そこまで言って、清春は自分の舌を噛み切りたくなった。

 誰かに何かを求めるのは、まちがっている。たとえ、キスひとつであっても。

 何も望まないでいることが、安寧に暮らすためのスキルだ。清春はずっと、そう思って生きてきた。


 子供時代までさかのぼっても、井上清春の願いがかなったことなどない。清春の願いをすくい取ってくれる人はどこにもいなかった。

 世界中でただ一人、佐江以外は。

 そして佐江には、清春の願いをかなえる責任はない。たとえ妻であるとしても。


 ここまで考えて、清春は何も言わずに、佐江から手を離した。

 その手を、佐江はじっと見ている。


「――キヨさん」

「なんだ」

「なぜ、してほしいことをそのまま言わないんです? あたしが、あなたの言いたいことに気がつかないと思っているの?」


 その言葉を受けて、清春は不安で身体じゅうがねじれそうになっているにもかかわらず切れ長の目で笑ってみせた。

 くだらない男の意地だ。

 だが今となっては、意地だけが、清春のしがみつける防波堤だ。

 ひん曲がったままの清春の口から、言いたくもない言葉だけがこぼれる。


「着替えてこいよ、佐江。酒の支度をしておいてやる。何を飲む?」


 すると井上清春の美しい妻は、どうしても口が開かない貝をあきらめる時みたいに笑った。


「では、“ブルドッグ”を。この家にはもう、きれいなブルドッグがいるみたいですけれど」



 ★★★

“ブルドッグ”は、ソルティドッグというカクテルから、グラスのふちにつけた塩を除いただけのものだ。材料はウォッカとグレープフルーツジュース。氷を入れたタンブラーに材料を入れるだけのシンプルなカクテル。


 清春がふたつのブルドッグを作り、ダイニングテーブルに置いたタイミングで、着替えを終えた佐江がリビングに戻ってきた。

 清春のお古の白シャツに清春の大きなニットをルーズにあわせている。下はストレートのデニム。


 佐江は優雅にダイニングテーブルへ近づき、荷物を開けた。なかにはきれいに風呂敷に包まれた、小ぶりの重箱が入っていた。

 清春が思わずつぶやく。


「おせちに、仕事のない大みそか、元旦。何もかも初めてだ」


 佐江はその言葉にほんのりと笑った。それから小皿と箸を用意して、重箱を開けた。


「召し上がりたいものをつまんでください。夕食の代わりにしますから」


 テーブルについた清春は、煮しめの人参とシイタケを取った。ぱくりと食べて、唸る。


「うまいな。きみのお母さんの料理は絶品だ」

「いずれ、母から習いますから。来年は自分で作りたいわ」

「なにを?」


 清春は煮しめの人参を一口で食べ、つづけてレンコンとタケノコにも手をだした。塩梅が絶妙でうまい。


 どの一品も清春の口になじんだホテルのおせちよりも味が濃く、形は不格好だ。だが確実に、うまい。

 母親の手だけが生み出せる味だ、と思った。

 たべるうちに、ぽん、と伊達巻が清春の皿に乗った。


「これは、あたしが焼いてきました」

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