「この恋の行き先なんて㉘」
水ぎわ
第1話 重箱にはいっている“あれ”
12月31日の午後は、晴天。
井上清春は自宅マンションの大掃除を終えて、ベランダで煙草に火をつけた。
ガラス越しに見える部屋は、腹立たしいほどにすがすがしく空っぽだ。
部屋の中がきれいなのは、清春が朝からやけになって掃除をしたから。
空っぽなのは、部屋に結婚したばかりの妻・佐江がいないからだ。
佐江は今朝から仕事に出ている。デパートのハイブランドショップの店長をつとめる佐江には、年末年始の休みはない。
清春も、つい6日前までは年末年始が書き入れ時のホテルマンだった。しかし佐江との結婚のために退職し、今では無職の身だ。
ふううっと、清春は目が痛いほどの青空に向けて、マルボロの煙を吐き出した。
「結婚早々、稼ぎのない亭主か」
大学を卒業して以来15年も働き続けたコルヌイエホテルをやめてから、井上清春は自分自身を持てあましている。
どこへいって、何をしたらいいのかわからない。
清春は生まれて初めて、自分が行き先の見えない船に乗っていると感じていた。
★★★
その夜、佐江は22時ごろに帰宅した。大みそかとはいえ、店長の佐江は最後に店を閉めるまで責任がある。どんな日であっても、早めに仕事を切り上げることは出来ない。
ちょっと疲れた様子の佐江は、まっすぐにリビングに入って、小さなダイニングテーブルに荷物を置いた。そしてキッチンに立つ清春を見て、ようやく、にこりとした。
「ただいま戻りました。遅くなってごめんなさい」
佐江の頬骨の高い美貌を見て、清春はひそかに安堵の息を吐く。
今夜も佐江は戻って来た。
清春のところに。
いや、もう結婚したのだし、この秋から佐江はほぼ清春のマンションで暮らしている。ここへ帰って来るのが当然だ。
しかし一人きりの生活を20年近くも続けてきた清春にとっては、自宅に誰かがいるということ自体が奇跡のように感じる。
しかも、佐江は清春が20歳の時から恋をしてきた女だ。その佐江が、今は清春の妻になり、“井上”の名を頭上に冠のごとく乗せて歩いている。
そのどちらの事実も、清春にとってはあまりにも非現実的で、嘘と言われたほうが納得できるほどだ。
佐江はそんな清春の物思いに気づかぬようで、170センチ近い長身から優雅にコートを滑り落としてから清春を見た。
「なにか召し上がりました? 実家の母から、おせちをことづかって来たんですよ。食べますか」
「おせち?」
清春は驚いてつぶやいた。
「おせちってあれか、重箱に入っている、あれか」
清春の言葉に、脱いだコートを腕にかけた佐江はあきれたように答えた。
「そうですよ、重箱にはいっている“あれ”です。お正月ですもの。実家のおせちを少し分けてもらえるよう、母に頼んでおいたんです」
「おせちか。おれは、はじめて食うよ」
「え?」
さすがに佐江は不思議そうな顔をした。
「たしかに、あなたは子供のころからお母さまとコルヌイエホテルで暮らしていらしたけれど……おせちは、なかったんですか?」
「見たことはある。コルヌイエの社食で食ったこともある。それだけだ」
佐江は一瞬だけアーモンド形の美しい目を夫の顔の上に据えた。
「では、もう今夜からいただきましょうか。着替えてきますね」
そのまま、佐江はリビングから出ていこうとする。清春はあわててキッチンから出た。
妻の腕をつかむ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます