第26話 愛しい人よ

 運動会を過ぎると、待っていたように梅雨は本格化した。暑い日と雨の日の日替わり状態である。

 そしていずれ6月の半ばをすぎれば、学校ではプールの授業が始まる。

 ……毎週木曜の臼井邸でのレッスンも、新しい要素が加わった。ついに楽譜がくふを使い始めたのだ。

 最初に差し出されたのは、ショウもうたっていた『カーロ・ミオ・ベン』と、シューベルトの『野ばら』である。

 猫の鳴きまねや簡単な母音しか使っていなかった頃より、口の中の動かし方、音にあわせての声の出し方の変化など、教わる内容も本格的になる。

 受験生のレッスンの時間になっても外はかなり明るくなってきた。そしてレッスン後にショウが千鶴の家まで自転車で遊びに来る日も増えた。

 たまにクラスの子とすれ違うと、その視線が以前とは少し変わったのを感じる。

 千鶴が気まずさを感じるのに対して、ショウはむしろ胸をるようだった。

 運動会で女の子として人前で誰よりも早く走ったことで、ショウの中で何かがかわったのは間違いなかった。

「あ、手土産もってきてない。コンビニ寄らせて」

 ショウにそう頼まれて、ふたりは途中の店で自転車を停めた。

 強めの冷房に涼みながら、二人でスナック菓子と烏龍茶のペットボトル、そして2本一組で売られているチューブ入りのシャーベットをえらんだ。

 ショウはそれらをなれた手つきでスマホ決済けっさいをし、小ぶりな肩下げカバンサコッシュからエコバッグを出してお茶とお菓子を包んだ。

 それをする背中が、千鶴には、本当に少し年上のお姉さんのように見えた。

「さて、いこうか」

「うん」

 店を出てすぐに、ショウはシャーベットの封を切り、2つの片方を差し出してくれた。

「……ありがと」

 千鶴ははにかんで礼を言ったが、その声は少し弱い感じがした。

 自転車に乗りながらは食べられない。ふたりは太い街路樹のある歩道を、ハンドルを押して並んで歩きだした。

「……どうしたの?」

 ショウのほうからそう聞いてきた。

「ん?」

「なんかさ、最近元気なくない?」

「そんなことないよ」

「……あのね、正直に言ってほしいんだけど」

「うん」

「もしかして、また、いじめられてない?」

 千鶴はびっくりして目を丸くした。

「ううん、全然!」

「そう、本当に?」

「え、なんで? いじめられる要素ない」

「ほんとに?」

「うん」

 これにショウは「けど……」とすこし迷ってから、勢いをつけて言った。

「この前の、運動会ので」

「ああ! あれはみんなびっくりしてたけど、それだけだよ」

「本当に?」

 ショウは心配そうに念を押してきた。

 だが、実際に千鶴には大した問題は起きていなかった。

 ミアにこそバレたが、ショウに女子用の運動着のズボンを貸したことは結局クラスに知れわたることはなかった。

 ただ、青組第一走者の臼井翔羽ショウが、女子の姿で他の組に大差をつけて走った。そのことだけを、全員が目の当たりにしたのだ。

 それに関する事情説明を求められて、岩井先生はこういった。『俺はその時見てなかったからよくわからん。別にとやかく本人に聞くようなことでもないだろう』と。

 ――岩井先生はしばしば年配者としての風貌ふうぼうもあってか『わからないことはわからない!』と突き放すおじいちゃんキャラを発揮はっきすることがある。それを全開に発揮して煙に巻いたのである。

「……私に対しては、その程度」

「ちーちゃんに対しては……わたしの場合は、そうでもなさそう?」

「そこまではわかんない。というか、クラスの全員が何考えてるかまではわかんないよ」

 ショウは納得してうなずいた。

「それもそうだね。んふ、よかったー。ほっとした」

「なんで?」

「わたしのせいでいじめられてたら、どうしようって思ったから」

「しーちゃんにお姉ちゃんがいる設定がなくなったのと、抜け駆けしてしーちゃんと遊んでるってバレたのは、しごかれたよ」

「え、なんだ、やっぱりいじめられてるんじゃない」

 真顔で言うショウに千鶴は笑顔で首を横に振る。

「いじめってほどじゃないよ。いじめじゃないけど、根掘り葉掘りきかれて、ノーコメントで通すのには疲れてる。……ほら、みんなそういう子の事を知らないから、興味本位っていうか」

「あーそっちか。なんかごめんね。多少なら、話しちゃってもいいよ?」

「うん……当たりさわりのない範囲ではしゃべってる」

「そっか……ちなみに、たとえば?」

「うさぎパンツとか。カラフにおろしたてのスカートの上に毛玉吐かれたとか」

「それは黙っておいてくれるとうれしいなあ」

「うそだよ。一緒に買い物いったとか、しーちゃんのお父さんが音楽の先生で、歌の練習を一緒に受けてるとかしか言ってない」

「わたしが、ほとんど女の子だけど、まだついてることとかは?」

「それを、ごまかしてる」

 ショウは大きくため息をついた。

「だと思った。ちーちゃん真面目だもんね。大変だったらばらしちゃっていいよ」

「え、ほんとに?」

「うん」

「50メートル走ならクラス最速のカワイイ子ってのも?」

「んふふ、最速は言いすぎ」

「いや、実際いまは最速だよ。最速だった子が先週から足怪我してるから」

「かわいそうに……学校、行っても大丈夫そう?」

「それは、わからない……けど、女の子のしーちゃんに会いたい、って言ってる子はいる」

「そうなの? 興味本位の子ら?」

「ううん、斉藤ミアっておぼえてる? 最初の体育の時、私のお世話してくれた、体の大きな子」

「ああ、あの優しそうな子」

「そう、実際優しい子だよ」

「んふふ、そっか。優しい子なら、会ってみてもいいかも」

「ミアちゃんね、走ってる時のしーちゃん、きれいだったって」

「ほんとに?」

「うん、本当」

 千鶴は、少しだけ勇気を出して続けていった。

「……私もそう思ったし」

 だが、口にした途端、何とも言えない後ろめたさが千鶴の心に迫った。そして、心がなにかをひきとめるように、体が動かなくなった。

「走るのに必死すぎてそういう意識全然なかった……どうしたの?」

 ショウは振り返った。千鶴は足をとめており、追い越した数歩分を自転車とともにあとずさりで戻る。

「どした? お腹痛い?」

「ううん。しーちゃん……しーちゃん、私ね。ときどきわからなくなるの」

「うん?」

「私、しーちゃんのことが好き、なの」

「うん、わたしもちーちゃんの事好きだよ」

「そうじゃなくて……」

 ショウはうつむいた千鶴の顔をのぞき込むように見た。そして少し驚いた顔をした。

 千鶴の目は、何か思い詰めたように赤らんでいた。いまにも泣きそうな具合だ。

 ショウは自転車を路肩ろかたに停め直し、千鶴の自転車も前後に並べてスタンドを立てた。両腕が空くと、胸を貸すようにして彼女を抱きすくめた。

 千鶴はこらえられなくなって、そのまますすり泣きはじめた。

「本当は、わからないの。しーちゃんのこと、しーちゃんとして好きなのか、ショウくんとして好きなのか、わからないの」

 ……ショウは、こまった。だが言っていることとその胸中にあるものは理解できた。いま千鶴が抱いている感情が、友情なのか恋愛感情なのかがわからないと言っているのだ。

「うん、うん。すこし、わかるよ」

「私はわからないの。しーちゃんはかわいいし、楽しいし、だけど一緒にいると、それだけじゃないって気持ちが時々あるの」

「うん、わかる。わかるよ」

 これはただのなぐさめの返事ではなかった。

 実際ショウも似たようなことを考えるときがあった。なにしろショウにとっても、千鶴ほど心を許せる女の子は初めてだったのだ。

 自分が普通の男の子で、千鶴があくまでも歌声の矯正のためだけに父のところに来ていたとしたら……その時この仲は、初恋のはじまりなのではないかとすら思ったほどだ。

 千鶴は少し体を放して、ショウの顔を見つめた。

「なにがわかるの?」

 ショウは、少し戸惑った。それから、言葉を探すように丁寧に、語りだした。

「ぼくなのか、わたしなのか、自分でもわからない時がある。女の子のつもりでいても、女のからだとして生まれたわけじゃない。一緒にいて楽しい気持ちが、男の子の部分でひかれてるのかもしれないって、グラグラするんだ」

「そうなの?」

「そうだよ……ずっと迷ってる。ずっとグラグラしてる。けど、わたしは、わたしだけの事として考えたら、女の子で居る方が苦しくない。いまも、いままでもそれだけなんだよ」

 ショウはそう言いながら、自分の言葉に間違いを感じた。

(ちがう、そんなの答えになってないじゃないか。ちーちゃんにきかれてるのは、そんな事じゃない)

 だが千鶴の反応は違った。

「うん……それはわかる。すごくわかる……」

 ――千鶴は実際に理解していた。SOGIEの話を覚えているだろうか。自分がナニモノかという意味の性自認、自分がどう見えるように居たいかという性表現、そして自分が誰を好きになるかという性的指向の話だ。

 その性的指向が、まだショウの中で定まっていない、そういうことである。

 千鶴はもう少しショウの言葉をききたくて、少し黙った。

 ショウは話をうながされていると気づいて、話をつづけた。

が周りの人をグラグラさせてるって、自分でもわかってる。うちのパパもママも、そんな風にちーちゃんには見えないようにしてるけど、ずっとグラグラしてる。に対して、どうしたらいいのか」

「うん」

「だけどね、みんなわたしにはとっても大事なの」

「うん」

「わたしはね……ぼくでもいいや、どちらでもいい。どちらでもいいし、きっとどちらとしても、ちーちゃんのこと、大好きなのは変わらないよ」

「本当に?」

「うん、本当だよ。大丈夫だよ」

「ううん、ダメだよ」

「なんで?」

「私、私がわからなくなるから」

「なんで? わたしを受け入れてくれたのに?」

「ううん、それはわかってるの。私もしーちゃんの事、大好きだし、大事だから。だけど時々思うの。これが恋なら、独占したいだけなんじゃないかって」

「独占なんて、そんなことない。君が引っ張り出してくれたんだよ? 運動会だって手伝ってくれた。そこで答えは出てるよ。ちーちゃんはわたしを大事に思ってくれてる。だから、手伝ってくれたんでしょう? 今だって斉藤さんの話を……ちーちゃんがいなかったら、ぼくにはカラフしかいなかった」

 そう言われて、千鶴はようやく泣き止んだ。

「……しーちゃんはいい子だから、そんなことないよ。カラフ以外にも、私じゃなくても」

「ううん、こうやって自分の好きな姿で外にいられるの、本当に心から自分で居られるの、ちーちゃんのおかげだよ?」

 街路樹でセミが鳴いている。二人と通りをへだてる、音の壁のような強い声だった。

「大好きだよ。友達でも恋人でも、ぼくの気持ちは変わらない」

 ショウは千鶴を抱きすくめ、耳元ではっきりとそういった。千鶴は、再び泣きそうになって、その肩に顔をうずめかけ、はたとした。

「やばい鼻水つく」

 そういって体を離そうとする。だが、ショウはその頭を抱えて自分の首筋におしつけた。

「鼻水くらい気にしないで」

「いいよばっちいよ」

 この日のショウのシャツは気に入っているブランド、イーストボーイのポロシャツだ。できれば汚したくないはずだ。

 そういって力を込めて離れようとすると、ようやくショウは腕を放した。

 二人は体を離して、千鶴はティッシュを出して鼻をかむ。

 ショウは手を出して言った。

「わたしにも一枚ちょうだい」

 ショウの目は真っ赤に涙ぐんでいた。

 千鶴は笑顔でうなずいて包みを差し出した。

 ショウは1枚引き抜いて目頭をぬぐった。それから思い出したように笑んでから、ぽそりといった。

「脱ぎたての運動着をトイレで交換するよりはきれいじゃない?」

 そう言われて、千鶴はふき出すように笑った。

「鼻水なら、かわいたらキラキラするし」

 千鶴はくすくすとさらに笑う。

「やめてよもう、バカじゃないの」

「やっと笑った。ちーちゃんは笑ってる方がかわいいよ」

「どうせ泣き虫だもん」

「それはそうだけど」

「え、ふつう『そんなことないよ』っていわない?」

「ウソはつけないよ」

「ちょっとー」

 セミの声に重なって、空がごろごろとなっている。ゲリラ豪雨の前触れかもしれない。

「やばい、降る前にお家いこう」

「うん」

 二人はアイスのチューブをくわえて自転車にまたがり、スタンドを蹴るようにして走り出した。

 ほどなく、空は涙のような温かな雨が降らせはじめた。

 ふたりはまだ小学5年生。その夏休みすらまだ始まっていない。


                          (おしまい)

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