第24話 運動会と化粧室

 そして5月の下旬、運動会当日である。

 幸いにして、数日前から晴れが続いてトラックも芝生もほどよく乾いていた。

 毎年のことながら、この日の校庭は騒々そうぞうしい。

 緑の芝生がトラックの内側以外はどこも見えないほどに大人がそこいらじゅうにいる。皆、場所取りの敷物しきものやカメラの三脚さんきゃくをそこいらじゅうに広げている。

 そして校舎と校庭の間では、常に先生や実行委員たちがせわしなく動いている。

 午前中の生徒たちはふうじられるように、校庭のトラックをぐるりと囲む最前列の座席にひかえさせられる。それから解放されるのが、出番の前後と昼食時である。

 5年生の行うソーラン節は午後の最初の演目で、男女で服装がちがう。運動会自体が、赤白青の3チームで競うため、それぞれの色の衣装やハチマキで分けられているのに加えて、男子は仮面をつけ、女子は稚児舞ちごまいのような化粧姿でおどる。

 これは例年のことであり、化粧の仕方や仮面作りについても準備期間中に時間があった。

 基本的に女子の化粧は白塗りと頬紅、口紅、目の縁取りだけである。

 それでも女の子達は十分にはしゃいだ。

 ――このことを、千鶴はショウには黙っていた。というより、学校の運動会の準備の話そのものをほとんどせずにいた。

 それは、ショウに学校に来ることを急かしているように聞こえるのではないか、と思えたからだ。いじめられていた身として、そういう言葉はあまり気持ちの良いものではなかった。千鶴はそのあたりの本人の心の難しさを身をもって知っている。そして千鶴の話さなかった出し物の細部を、ショウは観客席で知ることになった。

 ソーラン節が昼休み明け最初の演目、次に6年生のフォーメーションダンスと鼓笛隊がある。

 それに続いて父兄参加の綱引きがある。通年リレーはその次の演目になる。

 そういうプログラムのせいもあって、午後の高学年の席移動はほとんど自由だった。

 リレーの選手の5年生らは、毎年ソーラン節のハチマキや化粧を取らずに出場することが多い。今年の男子らも当然のようにチームカラーのティーシャツ姿に長ハチマキである。

 ――そういう状況の中で、千鶴はいつもの男女共用トイレでショウを待った。

 最初の予定では、ショウは保健室で着がえるつもりだった。だが実際に運動会が始まってみると、あまりの混雑ぶりに保健室では無理だということになった。

 そして例のトイレで着がえようという話になったのだ。

 大人がやってくる運動会、というのは普段ふだんといろいろと勝手が違うもので、車椅子用トイレは時々誰か入っている気配があった。

 父兄用のトイレは1階の教室側と職員用トイレで、この男女共用トイレは『使用不可』の張り紙がついている。

 6年生の演目開始を伝えるアナウンスが流れた頃、ショウはトイレに現れた。

 この日は、キュロットスカートで、上はリレー選手用に用意されたチームカラーの青いティーシャツに前ボタンのシャツをかさねて着ている。シューズは派手なピンクにネオンイエローのラインが入った強気な色のスニーカーである。手には体育着入れを抱えている。

「すぐに着替えて」

 ショウはうなずいて、その場でさっとシャツを脱ぎ、靴のかかとを外した。そのままキュロットスカートの腰に手をかけたところで、千鶴はあわてて止めた。

「ちょっと、中で着替えて」

 ショウはすこしうろたえながら「う、うん」と個室に入った。

 そして服を脱いでいる間に、千鶴は千鶴で持ち込んだものを洗面台の上に並べた。

 白いファンデーションに濃い色の頬紅、口紅、そして赤のアイライナーである。全て、ソーラン節で自分が使った化粧品だ。

「ちーちゃん、こっちはオッケーだよ」

 トイレの中からそういわれて、千鶴もいそいで自分もとなりの個室に入った。靴を脱いで自分も運動着の下を脱ぐ。

 ――いままで、ショウとの間で運動会の話はほとんどしてこなかった。だがこの計画だけは別だった。

 ショウは今日、千鶴の運動着のズボンをはいてリレーを走る。

「投げるよ」

 ショウの方から先に声がかかる。

「うん」

 青地にラインの入った運動着のズボンが、個室の壁の上を越えて飛んでくる。

「こっちもいくよ」

 そう言って自分の脱いだえんじ色の女子用の運動着のズボンを投げる。

「ごめん、さっき転んで芝がついてるかも」

「いいよ、ありがとう。……あ、ちょっとあったかい」

 これに千鶴は渡されたほとんどまっさらな男子用ズボンに足を通しながら、ぱっと顔を赤くした。

「ちょっと! 恥ずかしいから」

「ごめん」

 そう言いあいながら、ほぼ同時に個室を出た。

 えんじ色の短パンに青のシャツ、手には脱いだものをまとめて抱えている。現れたショウはどうみても青組の女子生徒だった。

「よし、それじゃあいくね」

 そう言ってトイレを出ようとするショウの腕をつかんで、千鶴は止めた。

「まって、まだ足りない」

 そういって、鏡の前に立たせた。肩越しにみえる千鶴とショウ。二人の顔には違いがある。ソーラン節のための稚児舞風の化粧である。

 千鶴はさっとショウの首元にタオルをかけた。

 すでに即席の化粧台と化したトイレの手洗い台を見て、ショウはうろたえる。

「え、ぼく汗かいてるよ?」

「大丈夫、ウェットシートもってきてる」

 千鶴はそういいながら銀の包装を差し出した。ショウは受け取り、顔を拭く。

「ファンデーションは自分でやって、やり方はママからならったままでいいから」

 いわれるまま、顔にはたきつけるようにファンデーションをつける。

「これちーちゃんもつかったやつ?」

「え、なんかついてた?」

「ううん、いい匂い」

「ベビーパウダー入りのだから、その匂いかも」

 千鶴はそれが済むと、白い頬に紅をさす。

 目じりにも少し頬紅をのせて、更に目元に赤のアイライナーを引く。

 ――急に外が静かになった。2つ前の演目の鼓笛隊の演奏が終わったのだ。

「口紅は? 自分でやる?」

 ショウは少し困った顔で自分の手を見せた。その手は緊張で震えている。

「わかった、私がやる」

 そういって、千鶴は口紅のしんを伸ばした。

 ――次の次がリレーだ。リレーの選手を中庭に呼び集める放送がかかる。

「……いかないと」

 ショウがささやくように言った。

 千鶴は落ち着いた顔で首を横に降った。

「ううん、まだ大丈夫、父兄の綱引きは毎年もたもたするから」

 そっと上くちびるから中央に乗せるように口紅をさす。稚児の化粧はくちびるのはしまで紅を引かない。

「筆は?」

「家においてきちゃったの」

 だから、この口紅はほんの1時間前、千鶴が自分のくちびるにあてたものだ。

 ……つづいて下くちびる、それがすむとポケットティッシュを差し出した。ショウはそれを受け取り、くちびるに乗り過ぎた分をそっと当てて取る。

「メイク落としもってきてるから、終わったらここに戻ってきて」

 出来上がった顔は、千鶴の化粧と同じだった。

「さすがにこのまま帰るのは派手でしょ?」

 そういって、鏡ごしに互いの顔を見合う。

 一重まぶたに和風顔の千鶴の顔に対して、ショウは目が大きくて顎が小さい。同じ化粧でもだいぶ違って見える。

「……やっぱり元がいいとちがうね」

 そうため息をつく千鶴に、ショウは少し照れたように笑って首を横にふった。

「ちーちゃんだって、これはこれでいいよ」

「ひな人形っぽいだけでしょ」

「えーかわいいよ」

「もう、そういうのいいから」

 あくまでもお世辞せじあつかいして受け流そうとする千鶴に、ショウはくるっと振り向いた。

 そのままショウは千鶴をぎゅっとハグした。

 汗と化粧のせいかいつもと少しだけ違う匂いがした。それが千鶴を少しだけどきどきさせた。

「……ありがとう」

 千鶴は、その背中をぽんぽんと猫のカラフをなでるように叩いた。

「ううん、思いっきり自分を見せておいで」

「うん!」

 ――父兄参加の綱引きの入場曲が始まった。

 マーチングアレンジの『年下の男の子』である。

 二人はいそいで広げた化粧品をまとめた。そして千鶴はそれらとショウの服や運動着袋をあずかって抱え、トイレを出た。

「場所はわかる?」

「東門側の入場ゲートわき」

「バトンの渡し方は?」

「最初に走るから渡すだけで大丈夫」

「練習は二人でしたもんね」

「うん」

「一人で大丈夫? ついてく?」

 これに、ショウはにこりとした。

「一緒に走ってくれるなら」

 千鶴は笑ってとんと肩からぶつかった。

「いたい」

「調子にのらないで。無理だから。だけど、ちゃんと見てる」

「うん、頑張る」

「いってらっしゃい、しーちゃん」

 そう言って、千鶴はショウを送り出した。

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