第22話 カーロ・ミオ・ベン

 季節は梅雨入りしていた。梅雨とは言うがひたすら暑い夏のはじまりである。

 いつも通りの木曜日の放課後、千鶴は臼井邸に行った。

 この日は迎えも送りもなく、天気予報も夕方からは雨などというから、千鶴は傘を手に歩いて向かった。

 母の持ってる晴雨兼用の折りたたみ傘を借りてくればよかった、と途中で思った。そうすれば日傘にできた。

 そうでなくてもこの日の手土産は大きかった。母の亜希と二人で昨晩焼いて一晩冷ましたチョコチップとミント風味のシフォンケーキだ。

 臼井邸につき、ドアフォンごしに挨拶すると「鍵は開いてるから、そのままどうぞ」と翔羽の母の理絵に言われ、そのように入った。

 玄関から入ってすぐに、エアコンのひんやりとした空気を感じた。靴をぬぐついでのようにたたきに座ったまま、千鶴ははあっとため息をついてすずんだ。

 防音室からピアノと人の歌声がもれて聞こえる。ショウの声だった。

 聞いたことのある曲だった。名前は知らないが、何か古い海外の歌曲のようだった。

「イールトゥフェデール、ソースピーラオニョール、チェッサ、クルデルタントルィゴー」

 今日はめずらしく伴奏がたどたどしい。

 そうしているところにまず出迎えて来てくれたのは猫のカラフだった。カラフは千鶴と同じように涼しい床にころんと横になって、お腹を見せてくれる。それをなでようとなんとなく手をのばすが、ぎりぎり届かない。

 カラフの首元にはあのアンテナ状のカラーはもうなくなっていた。

 羽ぼうきのようなもっさりとした毛のかたまりの中から伸びた四本の足。きょろっと丸い目とピンクの耳鼻だけが千鶴を見ていた。

 千鶴の届かない手のかわりのように、彼は自分で自分の体をなめ始めた。

「いらっしゃーい、暑かったでしょ」

 奥からそんな声がして、理絵が現れた。

「こんにちはー」

 そう挨拶しながら立ち上がって、まず手土産を差し出してから、靴を脱いだ。

「いま麦茶いれるから、あがってそっちで待ってて」

 そう言われて、リビングにうながされる。

 千鶴はこくんとうなずいて、しかしそのままそっと防音室の戸口のほうに寄った。

 防音室のドアは半開きになっていた。分厚いドア板にはめ込まれたスリット状の窓から中を垣間見る。すると、そこに臼井氏はおらず、翔が一人で弾き語りをしていた。

 ピアノにすえられているのは千鶴は見たこともない表紙の音楽の教科書のようだった。……臼井氏の教えている高校の音楽の教科書である。

 千鶴はへえっとそれを見とれていた。

(自分で伴奏ひきながら歌ってるんだ。すごい)

 音楽の教科書など、リコーダーの宿題でも出なければひらかない千鶴からみれば、それはすごいことだった。

 振り返ってみれば、音楽の教科書の曲を全て歌ったことなど、1年生から5年生の間で1度もない。歌だけなら通年の歌集もあるし、5年生になってプリントの楽譜をつかった合奏練習も増えた。逆に教科書を開くのはリコーダーの時くらいである。

「……クレィディミアルメン、タントリゴォール、タントリゴーオール」

 ショウは急に歌うのをやめた。

 ――いや正しくはやめたわけではなく、曲の間のいわゆる溜めに入っただけだ。本来はそこからもう一度サビをうたい、曲は本当に終わる。

 ――だが千鶴はそうと知らなかった。

 彼女は気付かれたと思い、そっと戸をあける。ショウはびくりとして、本当に歌うのをやめてしまった。

「おお……こん、にちは」

 ショウは首をすくめて目を丸くしていた。それから入ってきたのが千鶴と気づいて、珍しく、恥ずかしそうにはにかんだ。

 初めてスカートをはいているのを見せた時ですら恥じらわなかったショウの顔に、千鶴は笑顔をかえした。

「上手だね」

「まだまだ、何度もひっかかるもの」

「お父さんは?」

 これにショウはおや、という顔をした。

「あれ、聞いてない? きょうレッスンお休み」

 これに千鶴は目を丸くした。

「え、歌のお仕事?」

 ショウはなんともいえないというように首をかたむける。

「うーん、高校の合唱部の先生。いつもは月曜日と金曜日だけなんだけど、今週だけは昨日も明後日も。なんか日曜に発表会があるらしくて」

「へえ……高校ってどこの学校? 県内?」

「ううん、東京。ボイトレと、歌の授業と、合唱部の手伝いに行ってる」

「へえ、けっこう遠いね」

「駅からさらに遠いんだって。歩いて森の中までいくって」

「そうなんだ。森があるとか、もっとトカイだと思ってた」

 千鶴の両肩を、とん、とショウのママが手をつく。

「東京っていっても、あそこは駅から5分もいけばここと似たような所よ。お茶入れたから飲んで。今日は暑かったしょう」

「いただきます」

「ぼくものどカラカラ」

 そういいながら、ショウはピアノの鍵盤にあて布をかけてふたを閉じた。

「ぼくも?」

 千鶴がからかうようにいうと、ショウはすこしはにかんで「わたしも」と言い直した。

 そして小走りによってきて、なんとなく手をつないだ。

「ときどき出ちゃうんだよ」

「わたしっていうの、まだなれない?」

 防音室のエアコンと照明を止めて、廊下に出た。カラフはまだ同じ床で涼んでいる。

「なれなくはないけど、意識してないとたまに」

 ダイニングのテーブルには、3人分のお茶と持ってきたケーキと草餅が出ている。

「ちーちゃんが仲良くしてくれてよかったわ。私の学生時代は男も女もない感じで走ってばかりだったから、女の子らしい女の子ってのがわからなくて」

 そういうショウの母は、いつも足の線にぴったりとしたジーンズに長袖ティーシャツという姿が多い。スカートを履いているところなど、先日のPTA総会から帰ってきた姿で見たくらいである。体の線が出ているからいかにも女の人ではあるが、服だけでいえば男女の差は、小さなネックレスをしていることくらいである。

「別にママに教わらなくても、自分でしらべてなんとかできるよ」

 ショウはそう口を尖らせた。これに理絵も、お、という顔をする。

「ちーちゃんがいなくても?」

 これにはショウは笑った。

「それは無理」

「んふふ、私なんかいらなそうなのに。服の趣味も私より進んでるし」

「ううん、そんなことない。ちーちゃんの服のほうが好き」

 これに千鶴は少しのけぞた。

「えー皮肉にきこえるー」

 だが、ショウの方は真面目である。

「ううん、本当だよ。わたしだとネットとか見てこういう風にするっていうお手本そのまんまだもん。普通とは違うよ」

 言ってる内容はけっしてほめているようには思えない。だが、ショウの口調は本気だった。そのせいか千鶴も悪い気はしない。

「けど、私クマパンだし」

「わたしだってウサギだし」

「うそ」

 そういって、テーブルの横からたがいにちらっと見せ合う。

 これに母がぎょっとする。

「ちょっと!――ほんと、絶対女子校とかいれられないわ」

「いや向こうから断られるから」

「それならそれで訴訟ね。勝つのは得意だし」

 さらりと言い合う臼井母子。これにきょとんとする千鶴。

「え、受験って女子校考えてるの?」

 これに二人はびっくりした顔で首を横に振る。

「えーと、ママがいってるのは、女子校より共学のほうがちゃんと女の子らしく育つっていう話」

「そうなんですか」

「うん、わたし高校女子高だったから、スポーツ推薦だけど」

「そうなんですか」

「うん、冬場なんかみんな制服の中にジャージ上下着て、尻にカイロ張ってた」

「スカートですよね。スパッツくらいはわたしも履くけど、ジャージまでは……」

「でしょ、女子校っていうのは、社会に出て女になる前の自由を楽しむ場所だから、ショウみたいに頑張って女の子になろうとしてる子にはかえって向いてないと思う」

「サル山だもんね?」

「翔羽、それ、外でいっちゃダメよ」

「ママが自分で言ってたやつだよ?」

「そうだけど!」

「サル山……」

 そう小声でくりかえす千鶴の顔を、理絵は見た。

「そういえば、ちーちゃんはどうするの?」

「え?」

「塾、通ってるって言ってなかったっけ」

「うん、通ってるし、受験もするけど……そっか、女子校ってそうなのか……」

「ああ、志望校だった?」

「うーん、標準服がかわいいなと思ってたトコが、女子校で。去年の統一テスト微妙だったから、ちょっとあきらめてるけど」

「ああ……制服のデザインは、大事よね」

「そこは納得するんだ。冬はジャージ重ね着するのに」

「私の学校がそうだっただけかもでしょ? いまの学校は校則きびしいところも多いし。それに本人の意思が一番大事」

「そっか、そうだね。ごめん」

「わかればよろしい」

「しーちゃんは、どうするの? 制服あるところ」

「ううん、前も言ったけど、全部私服のところで考えてる」

「そっか」

 二人はすこし静かになった。再来年のこととはいえ、受験があれば学校が別になる。

 電車通学になれば自由のきく時間も少なくなる。今のように担任の先生からプリントの束を届けるよう言われる事はなくなるだろう。そして、学校終わりにすぐ会いに来るのはむずかしくなる。

 二人はもう親友と言っていい仲だ。だが過ごした時間は短い。だからこそ今は何をしていても新鮮で楽しい。

 ――そして、いずれ遠ざかる日のことを思うと、気が重くなる。

「今日は練習はどうするの? 何かゲームでも出す? アナログなやつしかないけど」

 二人の間の空気が重くなったのを読み取ってか、理絵がそう言い出した。

 これに千鶴たちは顔を見合わせる。

「練習は、二人でもできます。ね」

「うん。練習はしよう。音取りはぼくがやるから」

「またぼくっていった」

「え、言った?」

「言った」

「言ってない」

「言ったもん」

「言ってないもん」

「わからずやー」

「そっちこそー」

「ちょっと、お行儀がわーるーい」

 そう止める母親にかまわず、二人はつつきあうようにくすぐりあった。

 その日の練習は言葉通り、二人だけでこなした。

 その内容は最初の日と同じだ。体のほぐし方、舌の位置に注意しての声の出し方、互いに見つめ合っての声の投げあい。

「男の子同士だったらキャッチボールとかだったのかな」

「かもね」

 そう言いあって、少し笑った。最後に、ショウが歌っていた歌を教えてもらった。

 ショウが見ていたのは高校1年の音楽の教科書だった。

 イタリア歌曲で、好きな人に気持ちを求める恋の歌だった。

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