第20話 知らざる人々の一喜一憂

 千鶴からの臼井翔羽本人のコメントは、学級会の場で公表された。

 それをうけて、男子たちはいっせいに歓声をあげた。

「よっしゃ! これで今年のうちらの代は勝った!」

 なんでも6年生を含めて50メートル8秒越えは校内に11人しかいないそうだ。そのうちの3人が6年3組、3人が5年3組に居る。そのうちの一人がショウだ。

 ――千鶴は学級会直前まで、そんな情報戦がくり広げられているとは知らなかった。

 担任の岩井先生は、一番後ろで腕組みをして口をへの字にしたまま押しだまっている。学級会の時、進行役の委員がおさえられないほど場が荒れないかぎり、この先生は口を出さない。つまり、この程度はまだだまっているほうだった。

 そこに誰かがすっと手をあげた。

「ちょい待ち、それって具体的に出る出ないじゃなくて、まだ考え中って意味でしょ」

 その言葉に、場がやや冷めるように静まる。

 男子たちの異様な熱意を前にして、千鶴はひとまずその声にのることにした。

 千鶴は全員に見えるように、ゆっくりとうなずいた。

「たぶん、そう」

 男子たちは一気にがっかりする。実に分かりやすい子たちである。

 だがここで男子がひとり挙手した。

「はい、浅井くん」

「そもそも、なんで臼井くんは学校に来れなくなったの? そっちの解決が先じゃない?」

 こう言われて、男子の何人かがあきらかに気分をわるくした。黒板前に立った千鶴にははっきりと見て取れた。

 ため息や『またその話かよ』などと口先だけで言うのまで見える。

 ――一人のこらず、なぜショウが学校に来なくなったのかは理解していた。

 誰も口には出さないが、オカマトイレの一件で、転校したての彼のやわらかな心を傷つけすぎてしまったのだ。皆が皆、そう思っていた。

 ――実際のところ、そればかりではない。それを知っているのは、この5年3組では千鶴だけである。たぶん岩井先生も知っているのだろう。先生は、いまだ教室の後ろの方の黒板前で腕組みをしたまま動かない。

 ただ、岩井先生は亀山千鶴をじっと見ていた。

 そのまなざしが、何をしめしているのか、千鶴にはすぐにはわからなかった。

「あの、とりあえず、私、席もどってもいい?」

 千鶴は今日の学級会の進行役の運動会実行委員にたずねた。二人の委員ははたと思い出したように「どうぞ」と言ってくれた。

 ――先生はそれを見守って、ふっと肩の力が抜けたような息をついた。

 千鶴はそれを見逃さず(これでよかったんだ)と理解した。

 千鶴も、すでに母の亜希からは何度も言われている。本人でない人が本人の同意なしに勝手に性自認や性的指向を話してしまう行為、アウティング。それをしてしまうことを、先生も気にしていたのだろう。

 ――だが、逆に千鶴もそこではっきりと気づいた。

(先生はショウがどういう子か知っているんだ)

 黒板前では、運動会実行委員の子が頭をかいていた。

「先生、どうしたらいいですかね」

 委員は、先生に助け舟を求めた。時計は3時を回っている。今日の学級会の議題はリレーだけではない。応援合戦の放課後練習の日程説明など、まだ消化していない議題がある。

 それをふくめてのこととして、先生は口を開いた。

「一応、タイム計測だけなら授業外で学校に来てもらって、測ればいい。補欠だけ立てて、当日まで様子見でもいいんじゃないか?」

「バトンとかは?」

「第一走者にしてもらえるように話をつけられないか? 渡すだけだから負担もないだろう。それにあれだけ足が速いんだ、前の学校でもリレー練習の経験はあるはずだ」

 もっともショウにとってやさしいと思われる提案ていあんを、先生は口にした。

「ほかに案がある方、いますか?」

 手が上がる。

「臼井のソーラン節は?」

「亀山さん、なにか聞いてますか?」

 千鶴に話をふられて、えっと驚きながら、とりあえず立ち上がった。

「えーと、本人も気にしてました。けど、正直わたしから見ても、たぶん間に合わないと思います。徒競走とリレーか、リレーだけの出場ならなんとかなるのかな、って」

 そう応えて、ゆるゆると椅子に腰を下ろす。

 委員は質問者を見た。

「いまの回答で、いいですか?」

「いいです」

「では、時間も押してるので決をとります。……臼井くんのタイム計測だけを別日に先生に行ってもらって、ひとり目ふたり目と、補欠の走者を後日行う体育の授業での、100メートル走タイムから決めたいと思います。……その案でさんせいの方」

 大半が手をあげた。

「反対のかた」

 ぱらぱらと手が上がる。これはほぼ『ソーラン節もおどれ』派などである。

「反対のかた、全員を納得させられる案をお持ちですか?」

「それは、ないけど……」

 挙手なしの発言とともに、ぱらぱらと挙げられた手が下る。

 その中で一人の女子がきぜんとして席を立った。

「私は、無理に出なくていいと思います! うちも弟不登校だけど、運動会だけ無理矢理出すのは本人も苦しいと思います!」

 よほど勇気を出して言ったのだろう、その声は少しうわずっていた。

 これに、男子たちのテンションがさらに下がる。

 委員は、少しうろたえながら応える。

「本人が出たくないといった場合は、補欠ほけつが出ると思います」

 これをきいて、立席して反対意見を出した子は座った。

「ではもう一度決をとります。先ほど言った案でいいというかた、挙手を」

 今度はほとんど全員があげた。

「反対のかた」今度は手があがらない。

「どちらも挙げなかった方は棄権きけんとみなします。それでは次の議題に進みます……」

 それを聞いて、千鶴は、なんとかやりきったというように、大きく息をついた。

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