第19話 正しく前向き、少し後ろ向き

 千鶴が次に臼井邸に行った日。

 先日、運動会の実行委員と交わされた折手紙を見せつつ、ありのままをショウに話した。

 ショウは、まるで聞こえていないかのように遠くをみて、ぼんやりとしていた。

 千鶴の知るかぎり、こういう顔のショウはちゃんと話は聞いている。そして迷っている。

 ――五月の連休中、ショウと千鶴はそれぞれの母親同伴で街まで買い物に行ったことがあった。基本的には女4人でいろんな服屋をめぐり歩いた。

 そのゆく店の先々で、どの店のどれを買ってもらうか迷っているときに、全く同じ顔をしていた。

 途中の小物雑貨ざっかのお店で「二人ともなにか一つ買ってあげるよ」と言われた時も、同じ顔をしていた。

 その時それぞれ選んだのは、千鶴は面白い顔の真鍮しんちゅうのカエルの文鎮ぶんちん。ショウは散々迷って「これが似合うくらい髪を伸ばしたい」とラインストーンで飾られたバレッタにした。

 ――ちなみにこの日のショウはボートネックのボーダーに、千鶴のおさがりのサロペットスカートだった。

 サロペットというのはデニム生地で腰の高さを調整できる肩吊りの帯がついている服のことだ。これならスカートそのものを上げ下げすることで、普通のスカートよりも裾の高さが自由にできる。

 千鶴の家で着せかえっこをしていた時、本人はとても気に入ったようだった。

 似合ってもいたので、

「このままあげちゃってもいい?」

 と亜希に聞いたら、

「あんたが物をあげるなんてめずらしい」

 というだけで止めもしなかったので、そのままゆずったのだ。


 ――ショウの前髪も伸びて、いまでは耳にかけて額を出すほどになっている。

 その前髪を止めている飾り付きのパッチン留めは千鶴も色違いを持っている。

 それはフリースクールの工作の時間につくったものだそうで、

「スカートのお返しには足りないけれど」

 と言いつつプレゼントしてくれた。

 手作りというだけで千鶴には十分に嬉しかったが、臼井の母は『親としても何かお礼を』ということで、先の連休中の買い物の流れができたのだ。

 そんなこんなで、いまのショウはすっかり、ただの背の高い細身の女の子である。

「……迷っているね?」

 千鶴の確認のような問いに、ショウはやや口をへの字にしてうなずいた。

「迷ってるというより、怖いの」

 そういわれて、千鶴はすぐに理解した。よく考えれば、聞かなくてもわかりそうなものだった。

 自分だって、いじめの再発におびえて派手に転んだのである。

 今のショウにかかっているのはそれに近い心の重みプレッシャーだろう。

「うん……そうだよね……うん、断ろうか」

 千鶴は本心からそう言った。

 だが、ショウはこれにも困ったような笑顔で首を横にふる。

「そうしたいよね。けど、ママも亜希さんもPTAで頑張ってくれたって聞いちゃってるし……」

 これに、千鶴はえっと問い返すような顔をした。

「え、なにそれ」

「え、知らないの?」

「うん」

「ほら、このまえ一緒にうちでピザ食べたでしょ? あの日、PTAの会議があったんだって。そこでそういう風に決まるように頑張がんばってくれたんだよ」

 それをきいて、千鶴は少しだけフリーズしたように呆然ぼうぜんとした。

「……そっかぁ……」

「そう」

 千鶴の中で少しずつ理解が進んだようで、急に思い出したように手を打った。

「……あー、それでなんかやけに仲良かったのか! お母さん達」

「ねえ……本当にわたしより足速い子いないの?」

 千鶴は口をとがらせてうなずいた。

「うん。一応、50メートルで女子なら最速。7秒88より早い子はいない」

「女子なら、ねえ」

「うん。女子では」

 これをきいてショウは頭をかかえ、それから困ったようにあははとかわいた声で笑った。

「ん、どうした? 悩みすぎてバグった?」

「んふふ、うん……そうね、ちょっとバグったかも。『なんであのとき本気で走っちゃったんだろうなーぼくはー』って」

「前の学校ではどうだったの?」

「前の学校はね、もっと速い子がいたの。その子はぼくがわたしだってことをわかってくれてて、スカートで来たときも最初に『かわいい』って言ってくれたの。それがうれしくて、ライバルとして毎年本気で勝負してたの」

 それをきいて、千鶴は微笑んだ。前の学校にもショウをわかってくれるいい子はいたのだ。

「その頃のくせがでちゃったんだね」

「うん……」

「けど、いい子だね、その子」

「うん、すきを見せると上履うわばんでくるけどね」

「なにそれ、いじめ?」

「ううん、そういう勝負。クツの踏み合いっこ」

「よくわかんないんだけど」

「男の子と遊んでるとそういうのもあるんだよ」

「そうなの……まあ、過ぎたことはしょうがないよ。これからのことを、ゆっくり考えよう」

 そういわれて、ショウはうなずき、ため息を付いた。

「これからか。あのね、オリンピック選手で、セメンヤって知ってる?」

「知らない」

「アフリカの短距離たんきょり走の選手でね。体は女の人だったんだけど、遺伝子いでんし染色体せんしょくたいかが男の人っぽい成分があることが後からわかって、それを理由にメダルを取り消されてしまったことがあったの」

「なにそれー。体は女の人なんでしょ」

「うん、一応ね」

「ひどい話だね」

「……けど、わたしの場合はそれよりももっと男のほうでしょ?」

「まあね……ねえ、しーちゃんみたいな人がオリンピックに出たら、どうなるの?」

「うん、すごくめんどくさいらしい。出れてもたぶん男子選手だと思う」

「そっか……ヤだね」

「うん。男子として出るのは、ちょっと」

 千鶴は少し考えて、うなずいた。

「それで性別不問で、足の速い子を3人目のリレーの選手にってなったのか」

「そういうこと、なんだと思う」

 それを聞いて千鶴はため息をついた。運動会の性別の問題はほかにもあるのだ。

「うちの学校、体操着のズボンの色、男女で色が違うじゃん?」

 それを言われて、ショウはうつむいた。

「わたしも、それが……けど、期待してる子もいるんだよね?」

「うん、しーちゃん速いからね。けど無理そうなら、出なくていいと思う」

「そこなんだよねぇ……」

「何か問題でも」

「……わたしが、病院からどういう薬をもらってるかは、知ってるよね?」

「うん、男にならない薬」

「そう。けど女になる薬でもない。男でも女でもないままでいる薬……逆に考えたら、今しかそういう時期はないんじゃないかなって」

「あー……思い出作り?」

「うん、それもある。それに……ううん、これはまだ無理か」

「なあに?」

「女の子として、一度学校にいってみようかなって」

 これに千鶴はぎょっとした。その顔をみて、ショウは小首をかしげる。

「えっ……ダメ?」

「ダメ!」

「えっ、なんで?」

「わたし、説明できない」

「なにを?」

 千鶴は困った顔で、うつむいた。

「私、実は学校でかんちがいされてるの。しーちゃんのこと、男の子の臼井翔羽のお姉ちゃんか何かだと思われてるの!」

 それを聞いて、ショウは目を丸くした。

 千鶴は急に勢いを失ったように背中を丸くした。今日まで隠し事をしていた負い目が急に出てきたのである。

「……ほんとに、そうなの。友達だと思われてるの」

 そう小さくなる千鶴をしばらく見つめた後、ショウはぷっと吹き出すように笑った。そのままさらにくくくとお腹を抱えて横に転げた。

「ほんとにそんなことになってんの?」

「うん……だってしーちゃん服選びとか小物選びとかちょっと年上っぽいじゃん。今日の組み合わせもふつーにお姉さんよ?」

「あははは、そうなのか。それで変な目で見られてないのか」

 ショウは心底うれしそうに、笑いすぎてこぼれた涙を頬にこすった。

「うん……」

「実はね、いままで言わなかったけどね。心配してたの」

「何を?」

「わたしとたまに出かけるじゃない? コンビニとかもいくし」

「うん余裕で行くね」

「それを誰かに見られて、なにか変に言われてるんじゃないか、って……全然そんなのないってこと?」

「うん……いまのところは」

 ショウは笑いつくして、大きく息をついた。その顔はさっぱりとして明るい。

「そっかあ……あ! ねえ、いっぺん父兄参観日とか行ってみる?」

 千鶴にそうたずねるショウの表情は、すこしからかうような色がある。

「本人いないのに行ってどうすんのよ……」

 そうつっこむ千鶴は、頭を抱えるほどの困りようである。その顔をショウがのぞき込む。

「断って欲しかった?」

「ううん、そうじゃないけど……」

 ゆううつそうにいう千鶴に、ショウは明るい声で「ちょっと聞いて」と語りだした。

「――実はね、先週の週末にね、通ってるじゅく模試もしがあったの」

「うん」

「いつも通ってる塾は個人指導こじんしどうのとこで、わたしの事情も知ってくれてる先生なの。だけど模試はいつもと違う駅の大きな塾の建物で、集団だったの。で、先生にどっちの服装で行った方がいいですか、ってきいたの」

「どうしたほうがいいって?」

「性別を書く欄はないから、どちらでもいいよ、って。でね、試しに女の子の格好で行ってみたの」

 千鶴はおおと声を出し、身を乗り出した。

「誰にも変な目で見られなかったの。それどころか、トイレの場所がわからなくてきいたら、この階は男子しかないから下の階にいってくださいって」

「入ったの?」

「……うん。下の階ってのが受付のある階で、受付の人に案内してもらった」

「やったじゃん」

 千鶴は心からうれしくなってそういった。

 だが、ショウはその顔色をうかがうように、そっと上目使いに千鶴を見た。

「……気持ち悪くない、の?」

 これに千鶴はおどろいたように目を丸くした。

「は? なんで。学校で何回トイレで一緒になったと思ってるのさ」

「だよね……よかった」

 ショウは心のそこからほっとしているようだった。これをみて、千鶴は少し心配そうにその顔を見た。

「ねえ、気にしてるの?」

 ショウはうかない顔でこくんとうなずく。

「……そういう風に感じる人もいるって、ネットで見た」

 これに千鶴はショウの肩をつかんでまるでり起こすように揺さぶった。

「おいしっかりしろ。ネットの情報なんて鵜呑うのみにしちゃだめだよ!」

 がくんがくんと揺さぶられながら、わかった、わかったという。

 千鶴は手をとめず、それどころか肩をつかんだ手を脇の下にいれて、そのまま思い切りくすぐり始めた。これにたまらずショウは声を高くして笑う。

「わかった、ほんとにわかったから。かんべん、もう無理」

 そう言いながら、いつくばるように逃げる。手が届かないところまで逃げ切って、ふうと息をついた。

「んもう、ママみたい」

「どうせトクメイのそういうの嫌いな人がいってるだけでしょ? ほっときな」

 そう言われて、口をとがらせるショウ。

 これにまたくすぐろうと指をわきわきさせる千鶴を見て、「わかったから」と気を取り直した。

「わかったけどさ……けどさ、学校だとやっぱり違うよね?」

「うーん、それは、しーちゃんにはまだ早いってこと?」

「早いってなにが」

「だって今の話、だれもしーちゃんのことを知らないところに、しーちゃんが女の子の姿で一人で出かけました、って話でしょ?」

「うん」

「しーちゃんが心配してるのは、学校はそうはいかない、たぶん変に言う子も出る。そう思ってるってことでしょ?」

 ショウはこくんとうなずく。

「そう、ちーちゃんと話してて、そんな気がしてきたの」

 千鶴は腕組みをして考えた。

「……わかった、ユニセックスでいこう。キュロットパンツなら男子の短パンとたいしてちがわないし、髪も、別に普通に長い子とかいるし」

「別にそこまでしなくても」

「ううん、そこから徐々に女の子にしていくの」

 そう言われて、ショウは困ったような顔を頭をかいた。

「……それ、前の学校で失敗した」

 これをきいて、千鶴は再び腕組みした。それからしばらく考えて、考えがでてこなくて、しゅんと背を丸めた。

「そうなのか。なんか、ごめんね」

 ショウはほほえんで見せて、ううんと首を横に振った。

「いいよ、別に。……そういえば、あれはどうしよう。ソーラン節」

 これに千鶴は真顔になってすっとショウを見る。

「それは別に出なくてもよくない?」

「え、その方が変な目で見られない?」

「いや、それは別に、そのときだけ体調が悪いとかいっとけばいいよ。それに目立たないからわかんないだろうし」

「けど、体調が悪いのにリレーは出るの?」

「そもそもしーちゃん、いま不登校児だよ?」

「それは、そうだけどさ」

「大丈夫、最悪バックレることもできるから」

「なにそれ」

「去年、わたし学年のダンス、サボったもん」

「そうなの?」

「うん、保健室の先生に事情話したら一発オーケーだった」

「どんな事情?」

「いじめのこと」

 これに、ショウは急に思い出したような顔をして、苦笑いをした。

「ああ……それはそれだと思うよ?」

「そうかなー」

「……ねえ、わたしがどうしたいかもだけど……ちーちゃんは、どうしてほしい?」

 千鶴はじぶんに話をむけられて、首をかしげた。

「どゆこと?」

「んーと、ちーちゃんは、わたしが走るの、見たい?」

 そう真正面から聞かれて、千鶴はあごに少ししわを浮かべてうーんとうなった。

「どうだろう。……ごめん、わかんない」

「わかんないの?」

「うん……だって走るの見るとかより、しーちゃんがいじめられたりしたらどうしよう、ってそっちばかり考えちゃうから」

「あ、そっか……ありがとう。ごめんね」

「ううん、こっちこそごめん」

 わび返されて、ショウはきょとんとした。

「ん? なんで謝るの」

「え……だって、後ろ向きな事ばかりで迷うから、わたし」

「そんなことないよ」

「そんなことなくないよ」

「けど、うれしいよ? そうやって真剣に心配してくれるの」

「ほんとに?」

「ほんとに。……ママとも話したんだよ」

「しーちゃんのママ、なんだって?」

「今はまだ、ショウは子供でいられる。子供でいられるうちに、子供としてくいが残らないようにすればそれでいいって」

「じゃあ、パパは?」

「パパは……走るなら場所取りするって。不審者ふしんしゃに間違われないようにヒゲもるって」

 これに、千鶴はんふふふと笑った。

「ほんとに?」

 ショウもにやにやとしてうなずく。

 以前、二人でひまつぶしに『お絵描きしりとり』をしたことがあった。そのとき『う』で千鶴の番になり、ヒゲと大きな目まで描いたところで『うすいひかる』とショウに通じたのだ。それほどにショウの父はおヒゲの人である。

「ヒゲなしのセンセーかぁ……ちょっと見てみたいなあ」

「ね」

「……じゃあ、なんかできそうなの、考えてみますか」

「いいの?」

「……しーちゃん、走るとこかっこいいもん」

「かっこいい?」

「うん、先生もほめてたけど、フォームがいいの」

「ママに聞かせちゃだめだよ。図に乗るから」

「んふふ、そうなの?」

「うん、毎朝、明け方に公園まで行って走ってるから」

「明け方?」

「ほかの時間だと、学校の子と会っちゃうかもだから」

「ああ、なるほど。けどそんな特訓してるんだ。……それならママには、走るところ見せてあげなきゃじゃん」

「うん……」

 ショウは少しはにかんで、顔をおおった。これに千鶴はつんと肩を当てる。

「ちょっと、なんで照れてるのさ。じゃあとりあえず、前向きにケントウしますってことで」

「うん、それでお願いします」

 二人の目の前を、ラッパの先のようなカラーをつけたカラフがゆっくりと通り過ぎていく。カラフは先日のPTA総会の2日後に去勢きょせい手術を受けていた。

 親元と保護ほご先を離れ、臼井家にやってきて、そして一足先に『子供』ではなくなったのだ。

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