第16話 父たちの午後
臼井邸でのレッスンを終えて、その日は千鶴の父、亀山隆矢が迎えに来ていた。
この日の夕方は、いつもの受験生のレッスンは休みだった。
高校の中間試験期間が近く休ませてほしい、とのことである。
その分千鶴とショウのボイストレーニングの時間は増え、ゆったりとしたものになった。
増えたといっても、内容は初回にやったものから少しずつ種類を増やし、かんたんな曲を歌ってみる、というものである。千鶴としても楽しいとは感じても疲れを感じるほどということはなかった。
そもそも千鶴のボイストレーニングは、他の生徒のように受験に備えて課題曲をみっちりと歌いこむ、というものではない。
いじめられた経験によって
実際、その日のレッスンも隆矢の迎えが到着した頃の
「ちょっとお腹へった」
という千鶴のつぶやきとともに
「じゃあ今日はこの辺にしておこうか」
ということに落ち着いた。
両家の母はいろいろと見越したもので、茶菓子は4人分、事前に用意されていた。
それを4人でおしゃべりしながら食べて、それでも夕方の5時にもならない頃である。
このまま帰ってもよかったが、亀山隆矢はあるものを車に積んで来ていた。
家庭用ゲーム機である。父はそれを子供たちにゆだねた。
そして臼井氏は千鶴の父の隆矢と『ゆっくりと話したい』とのことで、リビングの子供達とは別に食卓でコーヒーをいれていた。
――さてこの頃、両家の母親らはというと、いままさに学校でPTAの
――少なくとも、二人の父親たちはそれが済むまでは臼井邸に居るつもりでいた。
父親らの話題は天気のことなど他愛もないところからはじまり、共通性の高い話題に花がさいた。『建築ジャーナリストの立場から見た声楽家の仕事場兼住まいとしての臼井邸』や『現在と自分たちが小学生時代との異なる学校教室のあり方』というような語らいだ。
むろん小学5年生の子供らには
その父親たちのスマホが、
発信者はいずれもそれぞれの妻である。
母親たちは4人が臼井邸にそろっているのは知っている。
それもあってか母たちは保護者会の実況なり、
父たちの話題も自然とそちらに伸びた。
「……先生も大変ですな。この流れをさばくとなると」
「やっぱり、うちの子のことは考えずに進めてもらったほうがいいんですかね……この様子ではそういうつもりはないようですが」
臼井氏の言葉に、千鶴の父として「考えなくてよいということはないでしょう」と応えた。
「この小学校で臼井さんちの翔羽ちゃんが、そういうケースとしてはじめてだから、というだけのことです。遅かれ早かれ、前例が作られなければならない話ですよ」
「いやあ、いわゆる性的マイノリティ、ですか。そういうものとしての
「学校に通えていないのは、学校側やほかの生徒がありのままの姿を受け入れられていないからでしょう?」
そういわれて、臼井氏はなんともいえない表情をした。それから自分のスマホを手に取り、隆矢にショートメッセージを送る。
『ありのままを受け入れる、というのは意外と難しいものですよ』
これに、隆矢は深くうなずいた。
我が子のこと、と考えれば、たしかに複雑な気持ちになる。
「そうでしょうとも」
「どうしていいか、いつも手探りです」
これに隆矢はくすっと笑ってコーヒーをすすった。
「それは僕もですよ。僕は男兄弟の生まれです。それで女の子を育てるというのも、なかなかの手探りですよ。……しかもいじめられて、学校に行きたくないと言い出した」
そういわれて、臼井氏はなるほどという顔でうなずいた。
「千鶴さんもですか」
「ええ。聞いてませんか」
「大まかには。ですが、細かいことは、触れずに来ました」
「そうですか――千鶴は去年、月に何日かは病欠ということで休ませていました。今も心療内科には月1で通わせて、経過を見てもらっています」
「それは、初耳です。そうですか……」
「いやあ、臼井さんには本当に感謝してるんです。以前にくらべたらけろっとしたものでね。こちらに通わせてもらうようになって、寝る前に飲む薬もなくなりました」
そういって、隆矢は頭を下げた。
「いえいえそんな、こちらは、こちらでできることをしているだけですから……けど、そうですか、そういうことでしたか」
「あ、そういえば、千鶴とはトイレ友達からの仲とか」
「ええ、そうらしいですね。翔羽がいうには『自分を変な目で見ない』とか『そっとしておいてくれるいい子』だと」
「やっぱり、そういうのは貴重ですか」
臼井氏は大きくうなずいた。
「ええ、私が見た限りでは、とても。――前の学校では周囲に知られた途端にいわゆるオネエ扱いでしたから。最初は本人も周囲にあわせてたようですが、そのノリに疲れてあわせるのをやめたら、途端にいじめが始まりましてね。――今回の、トイレのことで冷やかされたのは、その時のことを思い出してつらかったそうです」
「PTSDというやつですか」
「さあ、そこまでは……。そちらに関する診断書は貰っていませんので。もう一つのほうはもらってますが」
「ああ、もうに本格的に女の子になる方向で進めてらっしゃるとか」
「ええまあ――その、よく誤解されるんですが、いきなりそうはならないんですよ。特にまだ子供ですから、成長して性自認が変わることがあるんだそうです」
「というと、こういう言い方はアレですが、もどることがある、と」
「ええ、そういう事態に備えて、二次性徴を止める処置を受けています。翔羽がこのままであれば、18くらいからより女性に近づくための療法に切り替えます」
「二次性徴を止めるというと、いわゆる男性ホルモンを止めたり、弱めたりとか、ですか?」
「そうです。薬剤なので、使うのをやめれば自然と体は男っぽくなるそうです」
「なるほど、今は天使みたいなものですな」
そういわれて、臼井氏は複雑そうな表情で押し黙った。
これをみて、隆哉ははたとした。
「ああ……まずいことを言ったのなら、申し訳ない」
「あ、いえ、そうではありません。こちらのことです……その、なんとも、ただ、本人は時折自分とネコを重ねているようなところがありましてね」
「ネコ?」
「ええ、去勢する約束で引き取った保護ネコです。ほら、窓辺の棚の茶色いのです」
そういわれて、リビングの奥の日当たりの良い出窓を見た。そこには毛皮の置物のように腹を出して寝そべったままの猫のカラフがいた。
「ああ、あれネコですか。気付かなかった。ずいぶん大人しい子ですね」
「……まあ、うちの翔羽については、正直、女の子になるなら、なるで決めて欲しいと思っている所もあります」
「ほう、親として迷いはないですか」
「もちろんありますよ。犬やネコの去勢と違って、人間の場合は性別適合手術を受けることになれば、一生ホルモン投与が必要になります」
「一生ですか、慢性疾患並みですね……失礼ですが、全額実費で?」
「ええ、現状はそうです。保険適用を求める動きもありますが、どこまで進んでくれるやら」
「それは、心配ですね……」
「まあ、保険が効かない薬を打ってるのは今も同じですから」
「ああ、二次性徴を止める処置ですか」
「そうです。……正直、二次性徴遮断薬を使いはじめるまでは、戻ってくれたらと思っていました。ただ……今は、変わりました」
「受け入れたと」
臼井氏は、少し困ったような顔をして、首を横に振った。
「いえ、その、もっと身勝手な理由です」
そういってもう一度、隆矢にショートメッセージを送信した。
『カストラートをご存知ですか?』
隆矢はこれにはぎょっとして、目の前のひげの豊かな声楽家を見た。彼はまるで自らの不治の病でも告白するような、重たい表情をしていた。
それから隆矢は、慎重に口を開いた。
「存じ上げています」
――カストラートとは、いまはもう存在しない過去のものである。
昔むかし、西洋の歌唱文化において、ボーイソプラノを保ったまま大人の声量を得るために、男の子供に去勢手術を行うことがあった。その頃の外科医療というものは今ほど安全性の高いものではなく、失敗して死亡する例も少なくなった。
19世紀中盤、人道的ではないとして当時のローマ教皇がこれを禁止させるまで続いた。
――臼井氏はため息をついて頭を振った。
「どうしてもあの子を見ていると……」
これに、隆矢は強く首を横に振った。
「臼井さん、それは考えすぎだ」
「まだ何もいっていませんよ」
「いや、言わなくてもわかります。娘から話を聞く限り、あの子は自ら選んで、いや選ぶことすらなく、自らを
「肯定、ですか」
――肯定とは、それそのものを『そのとおり』と認めることである。ショウの場合でいえば、自分の性自認や性表現が肉体と合っていないという現実を受け止めている、という意味だ。
「そうです。誰に強いられたのでもなく、むしろオネエキャラを強いられた事への苦痛を味わいながらも、ああ
「あの子達……」
「ええ、あの子達です。うちの子も、他人事ではないのです。……千鶴がいじめを受けていると聞いた時、私は、私達は心のどこかで『何か育て方を間違えたのではないか』と思いました。親として、何かを与えそこなったから、いじめられるような子に育ったのではないかと。一度、本人にうっかりそんな話を聞かれてしまったことがありましてね。そしたら千鶴は泣いて怒ったんですよ。そんなことない、って。あとで心療内科の先生にも、同じことを言われました。『お父さんはその考えをやめるところからはじめましょう』と。まあ、もう少しソフトな言い方だったかもしれませんが、要点はそんな話でした」
「なるほど、それと同じだと?」
「違いますか?」
臼井氏は少し黙って、考えた。
「そう多くは、違わないでしょうな。ただ、負い目があります」
「負い目」
「ええ。私はあなたの娘さんの声の
そう言われて、隆矢は少し黙った。
臼井氏は『自分はカストラートとなった子供たちに去勢を強いた当時の大人達と同じ側かもしれない』といっているのである。
「臼井さん、僕はそれを、考えすぎだ、と言っているつもりです」
そう言ってから、深々と頭をさげた。
「そちらの事情をよく知りもせず、べらべらとすみません」
急に謝られて、臼井氏は少し驚いた顔をして、首を横に降った。
「いえ、そんな、顔をあげてください……そんなことはないです」
二人の間にしばし無言の間が生じた。
そのわずかな無言の合間に、合いの手のような声を出しながら、連続コンボを成功し続ける娘達のゲームの音がきこえる。
食卓の二人のコーヒーカップはともに空になっていた。
「――飲み物を変えた方がいいですかね」
臼井氏がそうもちかけた。だが、隆矢はふっと笑って首を横に振った。
「ええ、よろこんで受け入れたいところですが、……私は車ですから」
「ああ、そうでした。……すみません。実は、私もそこまでいけるクチではなくて」
臼井氏はすこし照れくさそうにいった。
だが、彼の背後には冷蔵庫とも異なる何かを収納するガラス窓つきの箱の機械があった。隆矢はそれを見やって、言った。
「キッチンの奥の、アレは? ワインセラーですよね?」
これに振り向いて、臼井氏はふふと笑う。
「ああ、これは、妻のです」
これをきいて、隆矢は少し笑った。
「あはは、なかなか本格的で」
「ええ、私のグランドピアノとの交換条件がアレです。放っておくと、一晩にひと瓶」
これに隆矢はふふと笑う。
「うちも、カミさんのほうがよく飲みます。千鶴が生まれてから節制させてますが、二人だけだった頃はカミさんの実家に行くたびにお義父さんと二人だけで一升空けてました」
「それはそれは……」
「……なんで飲んだ後ってあんなにいびきかくんですかね」
これに臼井氏はむせるほどに笑う。
「パパ大丈夫?」
ふりむいて、声をかけるショウ。その途端、ゲームの画面はミスの表示が重なる。
隆矢は臼井氏の背後に回ってその背をさすっている。
「大丈夫、ツボに入っただけだよ」
臼井氏はうなずきながらも大きく咳き込む。
「ほんとに? お水いる?」
「いや、大丈夫だ、心配ない」
そう言っている間に、画面はゲームオーバーに変わり、ショウの横で千鶴が残念がった。
「もう一回やろう。今の調子ならフルコンいけるよ、この曲」
一息ついて、父親たちは2杯目のコーヒーをついだ。
「なるようにしかなりませんよ。それに、今はそういう歌手というのも珍しくはない」
「ええ、それに今日をさかいにイースポーツに目覚めるかもしれない」
「それなら持ってきた甲斐がありました。まあ、いずれにせよ本人次第でしょう」
「ええ、おっしゃる通り」
二人の携帯が同時になる。
亀山亜希から隆矢へ。スタンプで『勝訴』と『やっと終わった♪』が連続で届く。
臼井理絵から臼井氏へは、文章のみだ。
『しんどかった。今日は何も作りたくない。お総菜買って帰る。早く飲みたい』
二人の父親たちは携帯をなでてそれぞれの言葉やスタンプで返信する。
「……亀山さん、夕食はどのように? よろしければピザでもとって、ご一緒に」
「え、いいですか? じゃあ割り
「ええ、すみません」
二人の父親が、それぞれ連れ合いへと確認のメッセージを送る。
亜希から『紙吹雪とビールジョッキ』のスタンプが。理絵からは『酒買ってかえる!』と。
「うわあ、飲む気だ……」
「翔羽、朝刊にはさまってたピザ屋のチラシ、もってきて」
「ちーちゃん、夕飯一緒に臼井さんちで食べようって」
これに子供達は「ほんとに!」 と声をそろえた。
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