第14話 クローゼットⅡ

 午後4時30分、臼井邸の二階でふたりの小学5年生は「んゃー」「にゃー」と春先の野良猫のように鳴き交わしていた。

「あー、なんかのどがらがらしてこない?」

「うん、そろそろやりすぎかも。それにちょっとのどかわいたね」

 そう言った矢先、千鶴の腹がくうと鳴る。

 「いやー」と恥ずかし気に顔を覆う千鶴。

 「んゃー」と鳴きまねでショウはハモってくる。

 これに千鶴は顔を少し赤くして、ショウの脇腹をくすぐった。

 ――初めてのボイストレーニングをませて、千鶴はやや空腹になっていた。

 一応、お茶とお茶菓子は出してもらっている。千鶴の家で焼いてきたブラウニーではなく、ショウの家の買い置きのスナック菓子にしてもらった。

 2人はそれを食べながら、階下かいかから聞こえる男の人の低い声とピアノの音に耳をすませた。

「……防音してても、けっこう聞こえるんだね」

「うん、今日の人はパパと同じバスの人だから、よけい響くんだと思う。低い声の方が壁とか通りやすいらしいから」

「そうなんだ。あれ、発声練習は?」

「たぶん車の中でやりながら来たんだと思う」

「そうなの?」

「パパのむかえの車だとよくある。冬になると一人で車の中で第九の練習しながら待ってる」

「そうなんだ」

 千鶴はなんとなくスナック菓子の成分表示を見ながら思ったままを口にした。

「あのさ、しーちゃんちの晩ごはんって、いつも何時ごろなの?」

「んー、レッスンの前半が終わって、パパと生徒さんがお茶して、レッスンの後半やって、帰ってもらった後だから、8時半とか、9時ぐらい? 受験が近くなると、生徒さんと一緒に食べて、パパと生徒さんはまた更に練習、って時もある」

「そんなに……その間ずっと2階?」

「んー、リビングでテレビも見るよ? ほかにもスマホでサブスク見たり」

「そうなのか」

「ほかにも、塾の宿題とかいろいろやることあるし」

「あ、そうか、受験志望だもんね……」

「うん。英語と算数と国語だけの3教科だけど」

「私立?」

「うん、ぼくが大丈夫そうなところ、私服の私立しかないから」

 午後4時半、千鶴の場合この時間はゲームか宿題である。以前はスイミングスクールの日もあったが4年生の時にやめた。同じスクールに『あの子達』も通っていたからだ。曜日を変えてもらうことも考えたが、また遭遇そうぐうするかもしれない、という恐怖きょうふが強かった。

 ショウははたと思い出したように廊下に出て、となりの部屋のドアを開けた。

 ついていくと、そこは両親の衣装室だった。防虫剤のにおいがほのかにした。

 どうやらほかにも猫が嫌がるにおいが含まれているのか、廊下にいたカラフがぴゃっと階段の方へ逃げていくのが戸口から見えた。

「この前は上着ごめんね」

 そういって、ショウは奥からクリーニングの包装がかかった千鶴の上着を出してきた。

「ううん、きれいにしてくれてありがとう」

 そうお礼をいいながら受け取る。

 衣装室の一角には、他より一回り小ぶりなハンガーラックがあった。るされているのはショウの冬服のようだった。いずれも色や柄がかわいい。

「しーちゃんって、かわいい服たくさんもってるね」

「そんなことないよ。部屋のクローゼットとこれで全部だもん」

「けど、このまえいてたスカート、けっこういいやつだったじゃん」

「あれは福袋で当たりだったやつ」

「福袋かー」

「お年玉の四分の一くらいは冬服で消えた。半分は貯金って言われてるから、残りは夏服に使うつもり」

「そうなんだ。……うちはお母さんが『全額口座に振り込んでおきます』って、没収ぼっしゅう

「それはつらいねー」

「うん、時々サンタさんって自分のお年玉なんじゃないかと思うときあるもの」

「ちょっと。変な事いわないで」

「信じてるの?」

「うちのパパは、信じてると思ってる」

「しーちゃんは?」

「うーん、パパの毎年の楽しみをとっちゃうのも悪いかなって」

 ショウの母の理絵の冬物のコートをロングコートのように羽織って見せながら、ショウはそう言った。

「やさしいんだ」

 そういいながら、千鶴も近くの上着を鏡の前であわせてみる。

 ――親の衣服部屋に入って、女の子がすることはたいてい決まっている。そう、着せえっこである。

 それは次第にエスカレートし、1時間もしたころには化粧けしょう台に手をつけていた。

 ――『6時までは大丈夫』その確信がふたりの好奇心こうきしん探求心たんきゅうしんを解き放っていた。

「……ねえねえ、ファンデーションの原料が土とかどろって本当だと思う?」

「うん、そうだよ。確かアフリカのどっかの山のだって」

「アフリカか。ずいぶん遠くから来たのね」

「まあ、ママのは油とかいろいろほかのものも混ざってるらしいけど」

「そうなんだ」

 ――1時間後、2人は学んだ。

 普通の石鹸でも薬用のハンドソープでも、化粧はきれいには落ちない。汗や表情の動きなどで、化粧が落ちてしまわないために、ある程度肌の上に残る成分が含まれている。

 特に理絵の愛用品の場合、汗による化粧崩れにそなえて、そういう成分が多く含まれたものばかりだった。だから化粧を取るにはいわゆるクレンジングクリームのような化粧落としを目的としたものが必要だった。

 そんな知識までは、この子供たちにはなかった。

 ――そして午後6時。

 おばけの仮装のようにどろどろになった顔で半泣きで謝る2人に、帰宅したばかりの理絵は大笑いしながら携帯電話で画像をりまくった。

 それから彼女は2人の化粧の落とし方を教えた。ついでに正しい美容洗顔、化粧水や乳液といったスキンケアの仕方までしっかりである。そして6時半ごろ、千鶴を車で送りに出た。

 その車の中で、千鶴は言いそびれたことをショウのママに伝えた。

「クラスの子、運動会にしーちゃんに出て欲しいって」

「あらあら……にはお気遣きづかいなく、って伝えてくれる?」

「あの、そういう感じじゃなく、となりの席の子とかは本気で来てほしいって。しーちゃん、クラスで一番か二番くらいに足が速いんです。それに、運動会も近いですし……」

「ほう、戦力として期待できると」

 千鶴はこくりとうなずく。

「それは親としてはうれしいねー。トレーニングの甲斐かいもあった」

 ショウのママはそういい、赤信号で助手席に座る千鶴の肩に触れ、目を合わせた。

「……ありがとう。翔羽にはきちんと話しておくね」

 その手はあたたかく、自分の母と似たかわいた働き者の手をしていた。

「おねがいします」

 そういって、はたとした。

「あ、直接言わなくてごめんって」

 理絵はこれにくすりとした。

「わかった、それも伝えておきます」

 ――信号が変わり、車は再び走り出した。

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