第13話 はじめてのボイトレ その2

 臼井氏は、次の音といわんばかりに、ソ・ソ・ソ・ソ・ソファミレドと音を区切って鳴らす。

 その音の合図で次にやるものをショウは理解した。

 千鶴の肩をつついて「真似して」とうながす。

 つま先立ちになり、とん、とかかとを鳴らすように床に打ちおろした。

「パパ、ネコでやるの?」

「まだハミングでいいかな」

「ねえ、猫ってなあに?」

 千鶴がそうたずねると、ショウが「んゃー」とネコの鳴きまねをした。千鶴は少し笑った。

「それをやるの?」

「うん、後でね。今はつま先立ち」

「はーい」

「うん。じゃあ、ハミングしながらどん、どんってかかとを床に落として。パパ、音を」

 ソの音がならされる。それに合わせて二人は声をそろえてハミングし、そのままつま先立ちになる。

 とん、とかかとを落とすと、その瞬間声が強く大きくなった。まるでスピーカーの音量のつまみを一瞬だけ最大にしてすぐにもどしたような、そんな調子である。高速でやれば、宇宙人の声真似でもできそうだった。

「今のかかとがついた瞬間が、かかとの先まで音が響いた時の声」

 ショウの説明に、臼井氏はいやーというように首をかしげる。

「違うの?」

「うん、今動いたのは横隔膜おうかくまくだ」

「オウカクマク」

「そう、横隔膜はちょうはいの間にある横長の筋肉で、ポンプみたいに肺を動かして呼吸するためにある筋肉。例えば犬がえる時、お腹がとても動くのを知ってる?」

「知らないです」

「けど、体のわりにやたらと大きな声で吠えるよね」

 これにはうなずく。

「あれは、横隔膜を一瞬おもいっきり使って体に響かせて吠えるから」

「その、横隔膜を使うのの、練習ですか?」

「その通り、ただ、横隔膜をきちんと使う練習をすると翔羽がやりたがってるのまでやる時間がないから、今回は感触かんしょくだけ」

「はい」

「とりあえず、横隔膜使うとここまで響くよ、ってのを、かかとが落ちた瞬間のぶるんっていう感覚でわかってもらうために、トントンしながら発声してもらいます」

「はい」

 そう応える横で、ショウがもじもじとした。

「……翔羽、どうした?」

「ううん、ネコのほかにももう一つ……」

「他にもやりたいのがあるのか」

「うん……時間があったらで」

「そうか。それじゃあ次は鏡を向いて、試しにガンーガンーって言いながら声を出して」

 言われた通り、つま先立ちからスリッパのかかとが床で鳴るほどに足を打ち下げた。

 ソがたんたんたーんと最後の一つだけを長めにならされる。

「1、2、3、はい」

「がんがんがーん」

 千鶴の声をきいて、臼井氏は頭をいた。

「教えまちがえた。ンでかかとを床に当てる。このとき口を開いたままで発音してみて」

「口をあけたまま、ンですか?」

「そう、ちょっと練習してみようか」

「が、んー。が、んー。」

 いわれたままに試してみる。口を開いたまま、舌を上あごにつけてンの声を出す。

「この状態でかかとガンガンやったら、舌かみそう?」

「ううん、大丈夫そうです」

「よかった、舌をかみそうだともう一つ教えなきゃならないことが増える」

「ちなみにきいても?」

「ンの発音は3種類あるんだ。口を閉じて発する『ム』に近い音、英語でいうエムの子音。次に舌先を前歯のうらに当てる『なにぬねの』の発音で使う音。英語の子音でいうエヌだね。もう一つが、ベロの半分くらいのところを上あごにつける音、英語の子音でいうエヌジー、シングやソング、リングの発音で使う」

「ring sing……はい、私のそれです」

「じゃあ成功だ。エヌでやってると舌をかむから……さて、話を戻すよ。今の口の使い方とハミングでの声の出し方を同時に意識しながら、かかとトントンやるよ」

 千鶴はうなずいた。

「ややこしいけどがんばって、なれるまでだからね」

 そういって、臼井氏はピアノを鳴らした。

「がンがンがンー」

「ためしに一回、翔羽だけで」

 いわれるままに千鶴はいっぺんだけ静まる。

 千鶴とは違い、『ガ』と『ン』の間にそこまで音の落差がない。

「横隔膜をトレーニングするとこうなります。あ、これ、マンションとかで自主練習すると下の階から苦情がくるやつだから、気を付けて。はい、それじゃあ次ネコの声真似するよ」

「できるかな……」

 そう小首をかしげる千鶴に、ショウは少し楽し気に「やってみてよ」といった。

「にゃ、にゃー?」

「ううん、んゃー」「んにゃあ?」

「うんにゃ、んゃー」「んいゃあ?」

「おしい」

 千鶴がちいさく挙手する。

「はい、なんの練習か聞いていいですか?」

「ネコの練習」

「そうじゃないだろう。軟口蓋なんこうがいを使った発声をスムーズにやる練習です」

「なんこーがい」

「うん、さっきのリングやシングの時に使う舌の位置、その上あごの部分は前歯の裏より高くなってて、やわらかい。そこが軟口蓋」

「あ、なるほど」

「それを自然とあつかえるようになるための練習が、いまのネコの鳴きまねで歌を歌うこと」

 これをきいて、千鶴は少しうつむいた。

「ネコの鳴きまねが下手な人は……」

 ショウはそっと手をつないだ。

「あとで練習しよ?」

 千鶴はただうなずく。それを見ながら、臼井氏が咳払いを一つした。

「えーと、これは翔羽がみ出した練習方法なので、正直私もいま一つわからないとこがあります」

 きっぱりそういわれて、ショウは文句でも言うように「んゃー!」と鳴いて応える。

「そうなの?」

 千鶴にもきかれて、ショウはネコの声で返事する。

「……んゃあ」

「さて、リングでもシングでもンガでもいいから、軟口蓋使いながら何か歌ってみようか」

「ぼくはネコで」

「私、リングでいいですか」

「はいそれじゃあ輪唱りんしょうで」

 そういって鍵盤の上を指が転がるように鳴らしてから『カエルの歌』の伴奏ばんそうを弾いた。

「翔羽から」

 いきなり振られるも、ショウは千鶴の視線に少し照れくさそうにわらってから、宣言せんげん通りやや高いネコの声でカエルの歌をはじめる。

「つぎ千鶴さん」

 そう促されて「ring,ring,ring」と続く。声はショウほどのびやかではない。

 それでも、その声はかつての千鶴とは思えないほどにしっかりとしていた。

 『あの子達』に植え付けられた呪いのようなのどのしめつけ感などみじんもない声だ。

 それ以前に、千鶴自身の頭の中から『あの子達』のことはすっかりどこかに消え失せていた。ただ運動をしているときのような体中に温かさが通う気持ちよさの中で歌っていた。

 歌えていることに驚きながら、千鶴は自分で目を丸くした。

 だが、そのよろこびが、臼井氏の参加で一気に笑いにもっていかれた。

 彼は2人よりも2オクターブも低いネコの声で歌いだしたのだ。

 まるでのう狂言きょうげんのような低くびりびりとした声、猫は猫でも化け猫である。これに千鶴は驚き、ショウはお腹を抱えて笑いをこらえた。

「パパ、冗談ナシって自分で言ったのに」

「なにがだね。私は私の本来の音域おんいきで歌ったまでだよ」

 臼井氏はきりっとした顔でいう。これにショウは指さして笑う。

「そうだけどさ!」

「そうなんですか?」

「うん、私の本来の音域はバスだからね。レッスンの教え子もみんな男だし」

 臼井氏がそういうと、ショウは「みんな?」と少しイヤそうな顔をしてみせた。

 これに臼井氏は不思議そうな顔をする。

「お前は教え子じゃなくてうちの子だろう。別だよ、べつ」

 そういわれてショウは少し納得いかないというように「ふーん」と口をとがらせる。

 そのほっぺを、千鶴が両手で包んだ。

「大丈夫、しーちゃんはかわいいから」

 そう機嫌きげんをとられて、ショウはあっさりと表情を緩める。

「千鶴さんさ、音痴おんちを気にしてるってきいてたけど、全然そんなことないじゃない」

 臼井氏はさらっと言った。千鶴は身をすくませて、首を横に振った。

「そんな、わたしなんて」

 だが、ショウも意外そうな顔をしている。

「音痴なの? いまので?」

 千鶴はおずおずとうなずく。

「そんなのウソだよ。全然普通だったよ。パパの化け猫ガエルまでは音も外してないし」

 化け猫扱いされて、臼井氏は低くひとこえ「んゃあ」と鳴く。これに二人はまた笑った。

「……わかんない。今日のは楽しかったからかな」

 これをきいて、臼井氏は少し照れたように鼻をこすって、壁掛かべかけの時計をみやった。

 千鶴もつられてこれを見る。4時を少し回っている。

「まだ少し時間あるし、もう一つやろうか。ショウのは、そのあとでいいか?」

 ショウがうなずくのを見て、臼井氏は

「ふたりで部屋の真ん中で向かいあって」

 と指示した。言われるままに立つ。

 あらためて向かい合って見ると、長身に思えたショウが、千鶴には以前より小柄に見えた。

 千鶴はこの一月で1センチ近く背が高くなっていた。ましてや、いまは縮こまっていた背筋がぴんと伸びている。

 臼井氏はピアノを鳴らす。二人は声をそろえてその音を発した。

「今のふたりの距離きょりの音が、この音ね、次の音で半歩下がって」

 そう言われて、一音高い音が鳴る。互いに半歩ずつさがって、その音の声を発する。ふたりの声色は重なって、いわゆるハモった音になる。

「おたがいに向かって、声をかけ合うイメージで、そのつもりでやり直すよ。一歩戻って」

 そういわれて、近づく。ため息をついたら届きそうな距離感だった。

 ショウもそれに気づいていて、わざと息をふきかけてきた。さっき食べたブラウニーの匂いがする。

 千鶴はこれをくすぐったがって手で避けながら少し笑って、息を吹き返す。向こうもくすくすと笑う。

「はい、もうちょっとだから、ふたりとも真面目にやろうか」

 臼井氏の言葉に、二人は「はーい」と仕切り直した。

 音が鳴り、共に声を発する。

 一音高まり、半歩下がりながら声を発する。

 後ろ歩きをさせるように、もう一音、さらに一音と高い音に移ろう。

 そろった声が、さらに部屋のすみとすみとまで遠ざかる。そこから階段を降るように一音ずつ低くなる。これにあわせて、ふたりは再び近づく。

「……ちーちゃん、音のイメージ、タテに取ってない?」

 ショウにおもむろにそう問われ、千鶴は首をかしげた。

 臼井氏もショウの言葉にうなずいて、ピアノから手を放した。

「音鳴らさないから、一歩ずつ下がりながら片方ずつおーいって呼び合ってみて」

 言われた通りにする。

「おーい」

「おーい」

 千鶴は気恥ずかしくて少し笑った、だがショウは真面目に続ける。

「おーい」

 ショウの声は一歩遠ざかるごとに山なりに飛ぶボールのように、距離感があった。

 千鶴も気をとりなおして、これに応じる。

「おーい」

 声がいびつにゆれる。

「ちょっと、真面目にやって」

 ショウは少し笑いそうになるのをこらえながらそう言った。

 千鶴もまだ少し照れながら、首を横にふる。

「やってるつもりなの!」

 彼女としては仕方がなかった、なにしろショウは美形である。それを真正面から呼ぶのに、いまだに恥じらいがあるのだ。

 これに、臼井氏はまじまじと千鶴を見た。

「この練習はね。音の高さを上下でなく、遠近感におきかえるための練習です」

「上下じゃだめなんですか?」

「うん、高い低いが上下だと、上に行くほど背伸びしてるみたいで苦しくなります」

「そうですか?」

「同じ声色で歌うと、どんどん声が詰まって、歌ってても聞いてても苦しい音になる。それを奥行きにかえると、のどや体の使い方に変わる。そのつもりで、もう一度やってみてください。はい、最初の位置に戻って。この音からはじめるよ。今度も一歩ずつ声を揃えて」

 といって、臼井氏はピアノを鳴らした。半歩ずつ、同じ音の声を発しあう。

 遠のくほどに高く、近づくほどに低く。それを数度くりかえしたところで、不意に臼井氏のおしりの辺りから電子音が鳴った。

 臼井氏は表情を変えず、ポケットからスマートフォンを出して画面に触れ、「もう一回」といった。

 うなずきあい、ふたりはまた、近づいて、はなれて、というゆっくりとしたダンスのような歌声のかけ合いを交わした。

「はい、お疲れ様。急かすようでごめんね」

 臼井氏は止めたスマートフォンをいそいそといじりながら言った。

 ショウの母は先ほど出かけたばかりだ。臼井氏は駅まで夕方からの教え子の迎えに出ねならない。二人とも迎えの車中でショウの母からもそう聞かされていた。

「楽しかったです」

「うん、ぼくも」

「それじゃあ、私はどうしましょう。歩いて帰ったほうがいいですか?」

「いや、一人では帰せない」

 臼井氏はしっかりと言った。横からショウが千鶴の手をつなぐ。

「6時になったらうちのママが帰ってくるから、それまで二人でなにかやっていよう。それからママに車で送ってもらえばいい」

 そうすすめられて、千鶴は臼井氏をみた、こちらもそれならいいというようにうなずく。

「千鶴さんのお母さんには私から電話しておこう。いいかな?」

「はい」

 そううなずく千鶴からはなれて、ショウは父親の腕をつついた。

「ねえ、最後にもう一回だけにブランブランやらせて」

 ショウはすこしだけ甘ったれるように父に言った。

「やりたかったの、それか?」

「うん」

「真面目にやるか?」

「うん」

「じゃあやろう、ぶつからない程度にはなれて」

 はじめのうちにやった、体をひねってほぐしながらのゆったりとした鼻歌である。

「私も、すきなやつだ」

 千鶴はそういって、鏡の前にショウと並んだ。

 臼井氏はピアノを鳴らし、二人は間合いを取った。

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