第12話 はじめてのボイトレ その1
臼井邸への道のりは、ショウの母の
着いてすぐに、千鶴は防音室の大きな鏡で自分の口の中を見た。
「まだ苦い気がする」
ブラウニーに使われていたオレンジの皮がやや厚かったのだ。千鶴はそれが苦手だった。
苦みを少しでも薄めようと、口をすぼめて頬の内側からつばをしぼりだしていると、すぐ隣に立ったショウが鏡越しに変な顔をしはじめた。
自然と始まる変顔対決は、千鶴がショウの脇腹をくすぐるというズルで終了した。
「ちょっ、それは負けと一緒じゃないの」
けらけらと笑いながら、ショウも負けじとくすぐり返してくる。
「死なばもろとも」
「あははははそれ使い方ヘン、わかったギブギブ」
「勝った」
「いやノーカンだから……ふう……ちょっと大人の味だったね」
深呼吸しながらそういうショウに、千鶴はぶんぶんと首を振る。
「気使わなくていいよ。オレンジの皮を使ったうちのお母さんが悪い」
そこにすっとショウの父、臼井氏が現れた。
「んー? 私はこの味も悪くないと思うよ」
「食べてきたの?」
「ママが食べてるのを一口だけもらいました」
そのやり取りの背後で、せわしなくショウの母の理絵が顔を見せた。
「じゃ、わたし配達いってくるからー」
「はーい」
「気をつけて」
臼井父子がそう声をかけると、理絵は風のように玄関から出ていった。
配達というのはショウの母の副業である。いわゆるウーバーイーツのような飲食の個人宅配業をしている。
ほどなく防音室のドアは閉ざされた。音は壁材に吸われ、ややこもって聞こえる。今日の防音室には
臼井氏は、立ったまま二人を見比べ、さてというように手をすり合わせた。
「それじゃあ、えーと、何をするんだっけ?」
思わず顔をショウの顔をうかがう千鶴。しかしショウはふっと鼻でわらって、
「え、とりあえず『ブランブラン』?」
これに臼井氏は、何をおっしゃるというように、ぱたぱた手を振る。
「そのまえにあるだろう」
そういわれて、はたとした顔をした。
「あ、『鼻』か」
このやりとりを千鶴はぽかんとして見ている。それを見て臼井氏がショウをうながす。
「ほら、何のことって顔してるよ?」
「それ教えるのがパパじゃないの?」
「それはお仕事だもの、料金発生しちゃうから。翔羽がおしえてみなさい、手伝うから」
これに、すこし煙たそうな顔をした。しかしまっすぐに自分を見つめる彼女の視線に、気を取り直してうなずく。
臼井氏はピアノの椅子に腰かけ、
「それじゃあ、ふつうにハミングしてみて。音は……」
丁度良く、臼井氏が鍵盤をなでるように一音鳴らす。ミの音である。
んー、と慣れた調子でまずショウが歌う。高く抜ける海外の
千鶴は少しだけ懐かしさを感じた。
まだ『臼井くん』として学校にいた頃、音楽の授業で何度か聞いた声だった。
しーちゃんはその姿勢は背筋がすっと伸びて、顔は真正面を向き、ほんのりあごを引いている。その左手は自身のうなじに、右手は鼻と目の間をつまむようにしている。
臼井氏のピアノの音は、息
これにならって、千鶴も「んー、んー」と鼻を鳴らした。
一声聞くなりショウは千鶴の背後に回った。そのまま耳元でささやく。
「背中を伸ばして、水平線を見つめるイメージ、しずかな海の水平線を見るイメージで」
そういわれて、すっと首を伸ばした。
「そう、無理に伸ばしすぎないで、力をぬいてその姿勢がつくれるくらいの感じで」
続いて両肩、というより腕の付け根を外側からそっと
「力まないで、ぼくにまかせて」
言われるままに肩の力を抜く。ショウの手はそのまま肩や背筋をほぐすようにゆらゆらとゆすり、肩甲骨の周りをぐりぐりと大きく回した。
臼井氏のピアノの音は、ミの単音に和音の動く
千鶴が発しているのはミの音だけなのに、すでにそういう歌のような雰囲気が出てくる。
ずっと同じ声しか出していないのだから、音楽の授業の
「お客さん、こってますねえ」
これに千鶴は思わず少し笑う。確かにこれはまるでマッサージだった。
「翔羽、いまは冗談はナシで」
父の注意に口をとがらせるのが、鏡越しに千鶴にも見えた。
「はーい……痛かった所とかない?」
千鶴は鼻歌を続けながら首を小さく横に振る。ショウは今度はそっとうなじに手を当てる。
「じゃあ、次はここに音を当てることを意識して」
「音をあてる?」
「声を鼻から前に出すんじゃなくて、この辺で響かせるの。そこから、背骨を伝って全身に響きを伝えていくから。だから、まずここで響かないと」
言われた通りに、意識して音をそこに引き寄せるイメージで声を出した。自分でも鼻歌の音色が変わるのが分かる。
「そう。だけど、声をのどの奥に押し込める感じにしないで。ゴムひもみたいに、音だけを後ろに引っぱって」
言われた通りにイメージを変える。イメージしたことを体に示すという事は、意外に難しい。
――歌もそうだが、音楽の練習というのは基本的にある
少なくともプログラミングなどのかたちで機械に自動
つまり、体を使うのである。体の使い方が、楽器の音色になる。歌であれば、歌声そのものになる。
運動神経が問われるといったが、これはやりかたを見て教わって、あっさりと側転ができてしまう子がいるように、教わった通りに体を使う事が得意な子とそうでない子がいる。
では、不得意な子は永遠にできないのか。
それも違う。やり方のコツを掴むまで、正しい方法が分かっている人から丹念に学んだり、正しいやり方とそうでないやり方の違いを自分で確かめながら、じっくりと理解を進めれば――その動きを不可能にする、たとえば身体の障害のようななにかでもない限り――いずれできる。
ショウは丁寧に千鶴の音の響きの変化を伝えた。そうしてほどなく、ショウはうれしそうに笑んだ。
「そう、少しずつ響いてきた。自分で触ってみて」
そういわれて、手を重ねるように同じところに手をやる。たしかにびりびりとしている。
ショウは千鶴のすぐ目の前に回って、もう一方の手を自分のうなじに当てさせた。
――その鼻息がかかるほどの距離に彼女はどきりとした。だが、既に散々肩回りを解されているせいか、いまさら首がすくむような感じはない。
ショウはすでに集中していて、その視線は伏せ気味である。千鶴もこれにならって、手先と首筋に注意をかたむける――。
次のミの音から、二人の声が重なる。
千鶴は自分で感じるよりもだいぶ強い震えを、ショウの首筋から感じた。
「すごい」と思わずつぶやくと、ショウは少し笑んで「続けよう?」と小声で応えた。
もう一声ミの音を歌ってから、説明は続いた。
「自分の声が体の前側でなく、頭の付け根で鳴ってるのを意識して」
そう話す声すべてがびりびりとうなじで響いているのが、触れた手からよく伝わる。
しばらく向かい合ったまま鼻歌とわずかな息吹を交わす。
千鶴はショウからココアの匂いを感じた。菓子の匂いがまだかおっているようだった。
ショウは、父を見た。
「パパ、これであってるのかな」
臼井氏は休符の合間に鍵盤から手を放し、ショウと場所を入れ替わる。
「はい、ちょっと触るよ」
千鶴がうなずくと、臼井氏の大きくあたたかい手が、そっと千鶴の後ろ首を包んだ。
ピアノはショウが引き継いで、再びミの音の単音だけに戻った。千鶴は鼻歌を続ける。
「うん、少しのどが鳴ってるね、もう少し首の後ろの高い位置を意識して。音を飲み込むんじゃなくて、首筋から頭蓋骨に火花が散っているイメージ」
「火花」
「そう、その火花が振動……その調子、うん、いいよ、だいぶできてるよ。ためしに鼻先を触ってごらん」
言われるままに、先ほどのショウにならってもう一方の手を鼻につける。
「首の後ろの方が響いているのがわかるかい?」
千鶴はうなずく。
「これが、声の出し方、ここから音の響く位置を広げていくんだ。背骨にそって、頭の先からかかとの底まで。そろそろ次のをやろう。『ブランブラン』だ」
そう言われて、ショウはピアノから手を放し、場所を入れかわった。
再び二人は鏡を向き、やや間を取って並ぶ。
「肩の力を抜いて。背すじのほかは、糸のたるんだ
臼井氏は軽く和音を転がしてから、そっととド・ミ・レ・ドと音を鳴らした。
ショウが手本として先に体を動かす。両腕を肩から先の力を抜ききって、まるで力なく揺れる
「力まないで、ただ音の鳴り方だけに集中して」
千鶴もその動きにならい、軽く左右に体をねじりながら、3音の鼻歌を繰り返す。寝息のようなゆっくりとした音の流れだった。
「音の響く位置を広げてみようか。首だけじゃなく、体の軸にそって、背すじを下って」
「翔羽、今日は千鶴さんにあわせて。千鶴さん、あせらないで少しずつ」
いつの間にか、
ショウは少しボリュームを落とした。千鶴も気おされず、自分のことに集中する。
次の反復からショウはだまり、そっと彼女に近づいた。
「声を大きくする必要はないよ。響くところが広がれば、自然と音量は増えるからね」
そうささやかれるのにうなずきながら、千鶴は何気なく目を閉じた。
「そう、響かせることを意識して、響くのはわかるね、びりびりしているところを大きくするんだ。ただし力まないで。力むと逆に響かなくなるからね」
そういって、ショウは再び千鶴に声を重ねた。そのまま何度か歌う。
「……ようし、とりあえずこれはここまで」
その合図とピアノの終止音で、『ブランブラン』は終わった。
臼井氏は「次は?」とショウに聞いた。
これに間髪いれずに「ネコ」と答える。
だが、臼井氏は少ししぶるような顔をした。
「その前に、体を使う感覚をつかんでもらった方がいいと思う」
「じゃあガンガン? ススキ?」
「ススキで」
「わかった。ちーちゃん、ぼくの
そういって、ショウは鏡の前に並んだ。片手をそっと耳の横まで
「このまま、後ろにのけ反りながら声を出して。いくよ」
臼井氏は、和音を鳴らしてから、ソ・シとやや
ソの音の時は直立、シに高まると同時に、体を伸ばすように軽く背中をそらした。
「何回かは声を出さないで、動きだけで」
そういわれて、言われるままに何度か背中をそらす運動を繰り返す。
「ススキが風を受けるみたいに、高い音になると、のけぞるイメージで。次の音から声を出すよ。ハミングでいいからね。いちにさん、はい」
臼井氏の音頭と共にピアノと二人の声が鳴る。
声を発しながらのけ反る。千鶴はじきに体が熱くなるのを感じた。
そして指示通りに声を出すほどに、高音になるたびに背中に力がこもり、声が強くなるのを感じる。
「これは上手いね。自分でそらした方が声が大きく伸びてるのがわかる?」
千鶴は半笑いで首を横に振る。
実際、やることすべてがはじめてづくしで何が正解かもわからなかった。ただ、のどの力加減は全く変わらず、自分の体のびりびりと肩甲骨の間まで下がるのだけは感じられた。
「あと3回で次のをやるよ。これ疲れるからね」
二人とも声を出しながら身振りで返事をする。そして言葉通り、3回で終止音が鳴った。
「……はい、この感覚を覚えておいてください」
体が
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