第11話 皮の部分はにがい

 臼井邸でのレッスンの予定の日、千鶴が帰宅すると奇妙なことがあった。

 異変いへんはマンションの玄関げんかん先で感じた。バターとチョコレートの強い匂いがしたのだ。

 千鶴ははたと気づいた。

(あ、お母さん今日休みか)

 納得してうなずきながらいつも通りに玄関に入ると、土間にどこかで見たパステルカラーのスニーカーがあった。

 千鶴は直感的にショウの存在を感じた。

(え、来てるの?)

 急に緊張がわいてきて背筋が伸びる。それを自分で感じながら、靴を脱ぎ、玄関先の鏡で前髪と服の前をととのえた。

 カバンもいつものように玄関にどさっとなどは置かない。そっと両手で持って、まるでよその家に上がるようにふんわりと靴を脱いであがる。

「ただいま」という声はこころなしか上ずった。リビングに入る。

 なお、この時点でテレビがついていたら、十中八九、父も家にいる。そしてテレビゲームをしている。それがなく、ラジオが鳴っていたら母が、ダイニングかキッチンで何かしている。今日は後者だった。

「おかえり」

「おかえりなさい」

 と二つの声がキッチンからした。母と、ショウの声だった。

 そこには、エプロン姿の亜希と、同じくエプロン姿のショウがいた。ショウは前髪をヘアバンドであげていた。太眉がくっきりとあらわになっていて、少しひたいがせまい。

「え、なんでいるの?」

「フリースクール、今日お休みなの。それでメッセしたら、お菓子一緒につくる? って」

 これに千鶴は一瞬真顔になって母、亜希を見た。

「お母さん?」

「やー、ぱぱっと作ってちーちゃんに持たせるつもりだったんだけど、家ですることある? ってきいたら、特にない、っていうから」

 亜希は何かをごまかすように少し大げさに明るい声で応えた。対して千鶴はいよいよ真顔になる。

「いやそうじゃなくて。メッセって。携帯の連絡先、交換してるの?」

 亜希は聞こえないふりのように手元の作業を見つめ続ける。しかたなく、ショウがかわりに千鶴を見てうなずいた。

「うん、ちーちゃんキッズ携帯だっていうから、お母さんと交換を」

 これに千鶴は鼻の穴をふくらませて母をにらむように見た。

「ねえ! やっぱり私も欲しい。スマホ!」

「よそはよそ、うちはうち!」

 母は目も合わせず言い切る。

 これをきいて、なげやりな気持ちのかわりのように抱えたままのカバンをソファになげた。

「これだよ……ほんとヤになる」

「なにいってんの、かわりにゲーム機買ってあげたでしょ」

「それはそうだけど……お父さんだってやってるじゃん。ゲームもスマホも」

「それはソフトを買ってくれるのがお父さんだからでしょ。うちは中学から!」

 千鶴はふくれっ面でソファに座った。

「それで、焼けてるの?」

 いら立った声で娘がきいた。

「焼きたてを冷ましてるところ」

 と亜希は『よそはよそ』と同じ声の調子で返す母。

「この辺片付けて、お茶入れて先につまみ食いしようかって……お母さんと……」

 剣呑な親子の空気の中で、ショウはおそるおそるそう言った。これがまた千鶴の怒りの燃料になる。

「お母さん!?」

 更に食ってかかる娘に、母は「もー」と音を上げた。

「焼いたの私らなんだからそれぐらい良いでしょ。あんたもカバンおいて手洗って来なさい。片付け手伝って一緒に食べよ?」

 千鶴はそういわれて、顔を困ったような怒ったようなけわしい具合にした。

「うー……わかった」

 ……亜希には、この時の千鶴がやけに高ぶっているように思えていた。

 高まった気持ちのやり場がほかになく、まるで照れ隠しがすべて自分に向いているようだった。考えうる原因はただ一つ。娘を出し抜いて家にまねいた、この美しい不登校児である。

「んふふ、さてはヤいてるのかなー」

「はぁ!?」

 千鶴はそう声をあげた。ショウはあ然としている。そちらに向かって、それとなく説き明かすように言った。

「翔羽さん、女の子だけどまだいくらかは男の子でしょ? 案外あるかなーって。顔もカワイイし、足も速いそうじゃない。男の子だったら間違いなく女子にモテてる」

「え、あ、はあ……」

 反応に困るショウ。それに比べて千鶴は目をひんむいて口を開いた。

「な、なに言ってんの。馬鹿じゃないの。しーちゃん女の子だし! 私、先週遊びに行ってから、そうだってはっきりわかったもん!」

 勢い任せにそう言い切った。だが、千鶴は自分の言葉に心の奥がややゆれるところがあった。

 それをきいて、亜希はまっすぐに娘を見た。

 その視線に、千鶴は何か胸の奥を射抜いぬかれるような感覚をうけた。

「そっか、それなら結構」

 母は、いたっておだやかに言った。

「う、うん」

 千鶴は、何かプレッシャーのようなものを感じながら、うなずいた。

「ま、子供のうちは男も女もそんなに違いやしないから」

 そういって、母は自分で笑った。

「お母さん?」

「はいはい、今のは私が悪うございました」

「ううん、いまのは、たぶんその通り」

 母子のやりとりをほぼ傍観していたショウは、それまで驚きばかりだった表情をゆるめた。

「うん、ぼくもそう思う。ちーちゃんの4年生の時の話きいて、一緒だと思ったから」

 それをきいて、千鶴は鼻の奥につんと来るものを感じた。

「……私、うがいと手洗いしてくる」

 そういって、廊下の奥へと小走りで消えた。

「エプロン貸しちゃってるわよ」

 ショウが身に着けているエプロンが、千鶴が家で使っているエプロンである。

「みればわかる」

 そう応えながら、あらっぽく自分のカバンを自分の部屋にほうりこんで、風呂の脱衣場を兼ねた洗面所にはいった。

「……あの子、泣き虫だから、そのつもりでね?」

「うらやましいです。ぼく、なかなか泣けないから」

「そうなの?」

「涙が出そうな気持になる前に、真っ暗な気持ちになって、まぶたが痙攣けいれんするようになってしまって、それからはあんまり」

「……そう」

 ショウはショウで、心に重荷を抱えているのだ。亜希はそれだけをくみ取って、それ以上は何も言わなかった。

 ふたりとも、これからどんどんと心が複雑になっていく年頃である。体の変化はそれが整うのを待ってくれないほどに急速に進んでいく。

 ショウはそれを止める薬を打ってはいても、周囲はそうではない。個人差があるとはいえ、変化の差異さいは止まってはくれない。思春期というのはそういう時期だ。

 ふたりの間にどの程度の友情が育まれるかはわからない。どれほどのものであったとしても、亜希は母としてそれを見守り、時に支える事しかできない。

 それきり、二人はしばらく黙って洗い物やテーブルの拭き直し、といった後片付けを続けた。

 千鶴戻ってきたのは、5分ほどしてからだった。その目はやや赤くなっている。

 それを見て亜希はすぐに気付いた。彼女は少し泣いたのだ。

 ショウが心配した顔をして近づこうとした。だが亜希はその肩をそっとおさえて、大丈夫、というように目くばせだけして、先に口を開いた。

「さて、あとは切って詰めるだけ。最後のつまみ食いの権利が欲しい人は手伝って」

 母は平然とした調子でそう言った。

 ――気付かないふりをした方がいい涙、というのもあるものだ。

「はーい」

 と、千鶴はすたすたと寄った。

 香ばしいそれは、既にオーブンの天板からクッキングペーパーごと外されている。かわいたまな板の上で粗熱の抜けつつあるそれは、こげ茶の生地に黄色い花のような輪が連なっていた。

 作っていたのはオレンジブラウニーだった。

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