第10話 それは恋かと聞かれたら

 臼井邸へと行った日の夜は雨がふった。

 そしてそれは翌朝未明には止み、通学路は水たまりが残る程度となっていた。

 その水たまりを飛びこえながらの千鶴の通学路は、荷物にもつがわずらわしいほどに軽やかだった。

「おう、元気そうじゃないの」

 隣の席の柴田アツシが、教室の席につくなりそう言った。

「そう?」

「うん、昨日となんか違う」

「そんなことないよ」

「まーゴールデンウイーク前だしなー。それにお前の場合、去年が地獄じごくだったからなー」

 千鶴は少し嫌そうな顔をして苦笑いをした。思い出したくない話だ。

 だが、昨日のおかげで苦笑いをするくらいには元気はある。

「……いま1組と2組に別れてるあいつら、お前がいないときつくえとか勝手にいじってただろ」

「うん……知ってたの?」

「知ってたよ。先生にも言ったけどさ、あいつらずるがしこいじゃん。お前学校来てない時に、お前の机に花瓶かびんなんか置きやがってさ。渡辺とか田村とかがちょくで注意したら、ぎゃーぎゃー騒いで、なぜか田村が職員室でしかられてさ。あれは気の毒だったわー」

 千鶴は「そんな事が」とまゆを開いた。

「まあ、そういう奴らだから、わざとクラス分けたんだろうね……で、どうよ」

「うん、そういう意味では、元気かも」

「そいつぁよかった。田村の死は無駄むだじゃなかった」

「田村くん、死んでないから。さっきドッジボールしてるの見たから」

「あいつ家近いからなー。足も速いし。はぁ、田村が今年は2組なんだよなー、臼井くんなんとかなんねーかなー」

「どうかしたの?」

「いや、不登校じゃん」

「それはそうだけど」

「別にトイレなんてどうでもいいのになー。けど新入りにはきついよなー」

 そう、この柴田という子はそういう子だった。

 彼は2年生の時、男子トイレでウンコをし「もらすよりいいじゃん!」と自分で言い切った子である。その後も堂々どうどうと男子トイレでウンコをし続けていると聞く。いわゆるクラス屈指くっしごうの者である。

 千鶴は、一瞬言いよどんでから、思い切るように続けた。

「そんなに仲良かったっけ?」

「ん、話したこともねーよ」

「じゃあなんでそんなに心配を」

「なんでって、ゴールデンウイーク明けたら運動会の演目の練習はじまるだろうがー。リレーだけでもでてくんねーかなー」

 そういわれて、千鶴は納得した。

 体力測定の時点で、8秒の壁を越えたのは3人だった。

 ショウ、野田くん、国井さんである。野田国井は3年連続でリレーの選手だ。ふたりとも校外の陸上競技クラブに通っている。

 リレーの選手選考という意味では、ふたりはほぼ確定と言っていいほどの有力選手だがまだ決定ではない。選考をかねた徒競走ときょうそう練習が運動会の準備の期間中にある。

「学校来てくんねえかなー……先生にどんだけ聞いても全然教えてくれないし、お見舞みまいも禁止だろ? まあ見舞いにいけるほど仲いいヤツいないんじゃないか説もあるけどさー」

 千鶴は「そうだねー」と軽々と嘘をついた。

 『しーちゃんがどうしたいかは本人が決めればいい』千鶴はそう思っていた。

 そもそも、運動会に出るとなれば、男女の区別は強くなる。

 運動着の色からしてこの小学校は男女で違うのだ。

 ましてや今年は5年生、毎年5年生はソーラン節を舞う。

 この学校のソーラン節は毎年男女でよそおいが違う。

 男子は仮面をつけ、女子は稚児舞ちごまいのような化粧をする。

 5年生のリレー選手は、女子は化粧のまま、男子は長鉢巻ながはちまきをつけたまま走るのがかっこいいということにすらなっている。

 それをきっかけにしーちゃんがいじめられるとしたら、千鶴は運動会への参加を止めたいくらいだ。

 だが、それを柴田相手に言い合う必要もない。

 彼は彼なりにショウを心配してくれているわけで、そこに悪意はない。ただ、千鶴としては本当のことを全て話してしまうわけにもいかない。

 軽めの嘘をついてでも、受け流すしかないのだ。

 柴田はつづけた。

「このまま、もしかして卒業式まで来なかったりすんのかなー」

「イヤなの?」

「やっぱ気になるじゃん。たとえば集合写真のはじっこに丸くなってる子がどういう子かってさー。ほら1年から3年までそんな感じで、急にいなくなった子いるだろ。名前忘れたけど」

 千鶴は少し思い返した。たしかに、そういう子が学年にはいた。集合写真の中で一人だけスナップ写真を切り出したような、雰囲気の違う丸い写真である。

「うん」

「あれも病気なのか、転校なのか、本当は死んじまったのか、結局は俺たち知らねー」

 柴田の言葉に、千鶴はいちいちうなずいた。確かに、その子について自分たちは何もしらない。

「そういうの、実は薄情はくじょうなんじゃねえかなーって」

 千鶴は考えてみたこともないことだった。

「うん、そういわれれば、たしかにそうかも」

「それに臼井くん女子にモテてたじゃん?」

「うん」

「そういうトコ考えてもさー、なんかもったいねーなって」

 千鶴は少し笑った。

「結局そこなの?」

 だがこれに、柴田の後ろの鈴木さんがぬっと顔を出してきた。

「わかるー」

「おーうおはよう」

「おはよう、っていうか柴田、あんたいいやつだね。見直したわ」

「見直したってなんだよーこらー」

「え、あんた授業中鼻くそホジるじゃん。ただの不潔だと思ってた」

「うるせーなーティッシュ忘れた時だけだよー」

「今日は持ってきたの?」

 そういわれて、柴田君はポケットに手をいれ、ランドセルも確かめる。

「忘れたよばかやろー」

「昨日は? ほじってたよね?」

「昨日もだよ、勘弁してくれよー」

 これに鈴木さんと千鶴はそろって笑い、それぞれにポケットティッシュを差し出した。

「おーうありがとよー」

「もう机の中にしこんどきなさいよ、いっこ」

「そうするわー。ありがとなー」

 そう言って柴田は机にポケットティッシュを2つともねじこみ、席を立った。廊下で隣のクラスの男子が手招てまねきしていた。

 それを見送って、鈴木さんは小さくため息をついた。

「ほんとね、せめて顔だけでも見せて欲しいよね……保健室登校とかでもいいからさ」

「そんなに来てほしい?」

「うん、だって好きだから……たぶん私だけじゃないけどさ、っていうか私なんか付き合えっこないんだろうけどさ。それでも、好きだから。顔だけでも見たいよ」

 チヅルはこの言葉にただうなずいた。

(教えてあげたい)

 千鶴は心からそう思った。

 だがそれはいけない。昨日の夜、母から説明されたのだ。

 心の性と体の性の授業でも習ったことだった。本人の許可なしに誰かに言うことは、アウティングといって悪い事だと。

 だが、千鶴はどこからどこまでが当てはまるのか、いま一つわかっていない。

 臼井ショウが『しーちゃん』であることは、本人が言うまでは絶対の秘密だ。これは間違いない。

 だが、しーちゃんにかわいいブルゾンを借りたことは?

 フリースクールに通っていることは?

 自分が来週もしーちゃんの家にいくことは?

 ……ひとつ話せばみ物の毛糸がほどけるように、いずれ全て話さなければいけない気がした。

 千鶴はぎゅっと目をとじて、席を立った。

「ごめん、ちょっと用事思い出した」

 そういって、廊下に出た。

 顔をふせて渡り廊下を抜け、階段を駆け下り、職員室の前を会釈しながら抜ける。

 そしていつものトイレに入った。

 いつもどおり、誰もいないトイレだ。

 誰も使わないから蛍光灯もつかず、換気扇も回っていない。だから天井近くをよく見るとうっすらクモの巣がある。

 いつもの個室に入り、しばらく腰を下げる。家でませてきたから、出るものもない。

 そして、誰も入ってこない。

 いつもどおりに個室を出て、手を洗う。となりにも、背後にも、誰もない。

 妙に、さびしく感じた。

 昨日の朝までは、いや、臼井氏の防音室でしーちゃんと出くわすまでは、感じなかったさびしさだ。

 千鶴は、昨日の夕方から胸にいた温かさが、まるで真っ暗な森でただ一つの焚火たきびが消えるように、すっと失せるのを感じた。

「これは……ちがうよね」

 そのふくらみかけた胸に、煙たい薄ぐれのような不安がわき出てきた。

 ……あの温かさが、美しい親友を得た喜びなのか、初恋なのか。それが急にわからなくなったのだ。

 ……そして、相談できるあてもない。

「どうしよう」

 そう問いかけた鏡の中の千鶴は、けわしい顔をして黙っていた。

 ほどなく、予鈴がなった。

 千鶴はかつてのように、こそこそとトイレを出ることよりほかになかった。

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