第9話 クローゼット

 ショウの部屋は、よく片付いたきれいな部屋だった。

 ちなみに、千鶴の部屋のすみには分厚いマンガ雑誌ざっしが積み上がっている。ベッドは起きた時のままで抱きまくらサイズのぬいぐるみも奇妙な姿勢で放置されている。

 ショウの部屋にはそういう、よくいえば親しみやすく、悪く言えばずさんな様子がない。ベッドもきちんと整っていて、近しいのは6畳前後という部屋の広さだけだ。

 そして意外にも『いかにも音楽家のお子さん』といった感じのものもない。

 壁にはられたアニメのミュージカル映画のポスターや、同じ映画会社のマスコットが本棚の隙間を埋めている程度だ。

 カーテンはパステルピンクと紫とショウのスカートと同じ水色の水玉柄だ。

「この色、好きなの?」

 千鶴は窓辺を見て、そうたずねた。

 すでに自分のクローゼットをひらきかけているショウは、えっというように顔だけ向けた。

「……服と同じ色だから」

 そういわれて、ようやくカーテンを思い出したように振り向いた。

「うん。全部好きな色。本当はこれと薄い黄色も好きで、レースのカーテンをそれにしてもらおうと思ったんだけど、ママにタバコの黄ばみみたいで変だって」

「ふうん……全部あわせたらシャボン玉みたいでいい色なのに」

 千鶴がそうぼやくと、ショウは心底うれしそうに微笑んだ。

「そうなの! ぼくも一番好きなのはシャボン玉の色」

 そういいながら壁一面に作り付けられたクローゼットを開き、中の服たちをかき分けた。

 ほどなく、ハンガーにかかった上着を2着とりだして、両手にもって見せた。

「これとこれ、どっちがいい? いまは他の女の子っぽいのはダウンかダッフルかしかないんだ。着れなくなったものは出品しちゃったばかりで」

 片方はスポーツブランドの淡い色使いのブルゾンだ。もう一方は、チェック柄の裏地うらじのついたデニムジャケットである。

「え、どっちって……きみが貸してもいいと思う方でいいよ」

「えーと、それじゃあ、とりあえず着てみて。サイズも見なきゃ」

「あ、そうか」

 そううながされて、デニムジャケットに袖を通し、クローゼットの内鏡の前に立つ。

 背丈はショウのほうがやや高い。だが、いざ並ぶと、体型的な差は出始めていた。千鶴はほんのりと胸が出て、ショウはやや肩が広い。

「大丈夫そう?」

「うん、前をしめなければ」

「え?」

「うん、ちょっと、胸が……」

「あ、そっか……」

 ショウはすこし気落ちした声で応じ、脱ぐのを手伝う。

 ブルゾンに袖を通しながら、千鶴はクローゼットの中をちらりと見た。

 まず目に入ってきたのはどこかの学校の制服のようなデザインの、子供の正装めいたプリーツスカートと、同じデザインのスラックス、そして濃紺のブレザーである。ブレザーの襟には英字でロゴがが入っている。

「イーストボーイ、好きなの?」

 千鶴がそうたずねると、ショウは少し困ったような顔ではにかんで、小さくうなずいた。

「変、だよね」

「ううん、ぜんぜん。手足長いからよく似合いそう。スカートも足細いし、たぶんきれいだと思う」

「そうかな」

「うん、そうだよ」

「……ぼく、制服の学校、たぶん無理だから、さ」

 千鶴は、なぜそう思うのかすぐには理解できなかった。

「両方着ていい学校があればいいのに。男子もキルトみたいにスカート履いてさ」

 千鶴が無邪気むじゃきにもそういうと、ショウは少し笑って「そうだね」とうなずいてくれた。

「もうちょっと、見ていい?」

「うん、どうぞ」

 そういって、ショウはクローゼットの戸を全開にしてくれた。

 太い幅のピンストライプのシャツにデニム地のスカート、パステルカラーの服も多い。その合間に大人っぽいふっくらとした起毛のチュニック、ラインストーンでかざられたニットっぽいものまで見える。

「わー、これもかわいい。これも」

 千鶴はそれらを見てときめき、そしてため息をついた。少しの気後れを感じたのだ。服の趣味しゅみが、というよりファッションに対する意識が、明らかに自分より強い。

 千鶴が母と服を買いに行った時などは、まずキャラクタープリントものにしばらく食いつく。ひとしきり見てから自分をなだめ、適当てきとう無難ぶなんなものを選ぶ。

 むろん母には「本当にそれでいいの?」とは聞かれる。だが下手なものを着て誰かに何か言われないことが第一である。

 服選びの基準きじゅんが、そうした悪目立ちしないことを最優先した買い方とはまるで違う。より女の子らしく、よりかわいく、自分が着たいと思う感性をまっすぐに追及ついきゅうしている。

「わたしのタンスより女の子っぽい」

「そうなの?」

「うん、わたしのタンス、半分くらいデニムだもん。スカートもズボンもキュロットも」

「今度来たとき、試しに着てみる?」

「え、いいの?」

「うん、サイズが合えばだけど」

 そういわれて、千鶴はああ、とあきらめたようにうなずいた。

 千鶴とショウの背丈は頭一つ分近く違う。きっとショウがはけば膝丈ひざたけのスカートも、千鶴がはけばもっと下まで丈がきてしまうだろう。

「とりあえず、いまはこれを」

 そう言われて、ブルゾンにもそでを通した。こちらはスポーツブランドの薄手のせいもあって、ゆったりとした着心地だ。だが、色からして明らかにショウの気に入っている服だ。

「うん、こっちは大丈夫そう……汚さないように帰るね」

「軽い雨の日でも大丈夫なやつだから、気にしなくてもいいと思うけど、ありがとう……けど、やっぱり似合うね」

 これに、千鶴は目を丸くして、ショウを見た。

 ショウは千鶴のほおを両手でおさえて、くいとクローゼットの内張りの鏡を向かせる。

「うん、似合うよ。ぼくよりずっと女の子っぽいもん」

 鏡ごしの姿を見て、ショウはあらためてつぶやいた。

 二人の違いは、顔を別として、手足の長さ、ほんのり性差の出始めた体、そして髪型である。千鶴の髪は背中に掛かるまで長い。

「いまのデニムもだけど、髪が長い方が似合うね。ぼくが着るとビートルズっぽくなる」

「ビートルズって?」

「大昔の、ぼくみたいな髪型をした人達のバンド。ジョン・レノンとか、しらない?」

「あ、イマジンのひと? 丸いメガネの、髪型も、もっとふわっとしてた」

「それは結婚した後だよ。イマジンも解散した後のジョン・レノンの曲。バンドの最初は4人ともこんな頭だったの」

 そういうショウの髪型は、前髪をピンで避けていなければ眉や耳が隠れ、うなじまでが丸く切りそろえられた形をしている。

 マッシュルームカットやボブカットと呼ばれる形だ。

 だがこれはこれで、手足の長さを際立たせていて大人っぽい可愛さはある。

 しかしショウの言う『似合う』や『可愛い』は、そういうことではないのだ。

 千鶴はこの日、髪を片寄せのポニーテールにしていた。この時は服の着方のせいか、髪の毛束が肩にかかって前に出る形になっていた。

 『普通の小学5年の女の子っぽさ』というところで見れば、たしかに圧倒的に千鶴のほうが正解である。

 ため息をつくショウに、千鶴は思い切るように言った。

「ねえ、いまから呼び方変えていいかな。……なんか、もう臼井くんとは呼びづらいから」

「いいけど……」

「なにがいいかな。んー、ショウちゃん?」

「んふ、おばあちゃんにはそう呼ばれてる」

「じゃあショウ」

「それなら、チヅルって呼んでいい?」

 そう返されて、千鶴は戸惑った。

 誰かにバレたときを考えると名前呼びはデキている感が強すぎる。

「うーん、ちーちゃんの方がいいかも。ちっちゃい頃からの友達はそう呼んでる」

「それなら……しーちゃんって呼んでほしい」

「え、どうして?」

翔羽ショウっていかにも男の子の名前だし、そっちも名前の一文字目を伸ばして『ちゃん』付けでしょ?」

「あ! うん。しーちゃん、いいね」

「んふふ」

「うれしい?」

「うれしい」

「しーちゃん」

「なあに、ちーちゃん」

 その口ぶりも、心なしか柔らかさを増した感がある。

「しーちゃん」

「ちーちゃん」

「しーちゃん」

「ちーちゃん」

 と、二人がしばらく名前を呼び合ってじゃれていると、こんこん、と部屋のドアが叩かれる音がした。

「あのー、取り込み中かな」

 臼井氏の声だ。

 その声をきくなり、ショウは顔を赤くした。これに千鶴は可笑しくなって少し笑う。

「悪いんだがあと3分くらいでレッスンの生徒がくる。千鶴さんはそろそろ、いいかな」

 臼井氏の様子をうかがうような口調は、チェロのように低く響いて聞こえた。

「はい、今いきます」

 千鶴は笑いをかみ殺しながらそう返事した。そしてくすくすと笑い出す。

「もー、笑わないでよ」

「いや笑うでしょ。パパの前だとずかしいの?」

「……うん」

 そうもじもじと照れるショウの手を引いて、千鶴は彼の部屋を出た。

 そのままふたりは階段を下り、リビングにもどった。

 千鶴の母はすでに身支度をすませ、あとは娘を連れて靴をはくのみ、という姿だ。

「はい、それじゃあ長々とお引止めいたしまして」

「いえいえ、こちらこそおいそがしいところを」

 と大人同士の挨拶を交わしながら玄関、そして外の自転車のところまで移動した。

 臼井父子はともに見送りに出てきた。

 外はくもり気味で、風は少し冷えてきている。もしかしたら今夜あたり雨かもしれない。

「それではお気をつけて」などと大人同士で挨拶する横で、子供ふたりは向きあった。

 千鶴がばいばいと手を振って別れとしようとすると、ショウは両腕を広げた。

 彼女はえっという顔になるが、その背を母の亜希が素知らぬ顔でとんと突きとばした。

 押された拍子に半歩踏み出し、ショウの腕の中におさまる形になる。そして結果的にハグを交わした。

「またね」

 とショウが耳元でいった。その柔らかい口調は先ほどのしーちゃんちーちゃんと呼びあっていた時のままだ。

 だが、千鶴のほうは一瞬で緊張し、すっかりちぢこまっていた。ショウの、整髪料せいはつりょうか服の柔軟剤じゅうなんざいか、そのあたりのいい匂いがかおった。

「うん、またね」

 千鶴もそう応えるも、口の先にはなんともいえない心地よさがあった。その感覚をきっかけに胸が暖かくなるのを感じながら、ぽんぽんとショウの背中を撫で返して、離れた。

「はい、それじゃあ、また来週」

 臼井氏の音頭をもって、亀山母子は臼井邸前でペダルをぎだした。

 ――すでに桜も散った春とはいえ、寒の戻りという言葉通りのはだ寒さが、黄昏たそがれと共にせまっていた。薄着うすぎではまだまだつらい時期である。

「上着借りて、正解だったね」

「うん」

 下り坂をゆっくりとくだりながら、そう言いあった。

「あの子、いい子ね」

「うん」

「来週からもこれそう?」

 千鶴は、ハグの感触を思い出して、恥ずかしくなりブレーキをゆるめた。ここで母に振り向かれたら、顔が赤いのが見られてしまう。

 そのまますーっと追い越して、それから「うん!」と強く答えた。

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