第8話 うれしいけれど、涙は出る

 亀山千鶴はリビングのソファに移された。

 彼女の過呼吸は、臼井家総力をあげてのケアの甲斐かいもあってすぐに落ち着いた。

 ――千鶴自身、頭では理解できていた。さっき防音室にいた人は誰も悪くない。何かのはずみでああなってしまった。

(もしも誰かが悪いとすれば、それは自分自身かもしれない。いまだにいじめられていた日々を克服こくふくできない自分の弱さだ)

 千鶴はそう思った。加えて千鶴には臼井ショウに対してい目がある。

 負い目というのは自分が悪いと感じる心である。

 実際に、いじめられたときはだれかに助けてほしいと心から思っていた。それを自分はショウに対して行えなかった。それは悔やんでも悔やみきれない。

 ――むろん、実際は彼女が思うほど、千鶴の罪は重くはない。なにしろそうなってしまうほどに深く『あの子達』に痛めつけられてしまっているのである。彼女自身、まだその心の傷から立ち直っていない。だが、彼女にそうした自分を許すだけの余裕はなかった。

 いずれにせよ、実際に現実に、千鶴の身はまだ『あの子達』との日々にむしばまれている。その一部である『歌うこと』を克服するために、ここに来たはずだった。

 ――親同士は、ダイニングでスマートフォンのグループチャット機能でなにかを話し合っている。

 親たちの表情は真剣ながらおだやかで、ときおりうなずき合うのも見て取れた。

 そもそも、いじめ被害歴ひがいれきのある子の親同士である。その痛みは決して時間が解決してくれるものではなく、ひたすらに分かちあっていやすものだとよく学び知っている。

 そのためにこれからどうしていこうか、という話を、子供たちに聞こえないように交わし合っているのである。

 ――それを遠くにぼんやりとみる千鶴の涙はかわきつつあった。

 ショウは千鶴に寄りって座り、彼女の肩にブランケットをかけて、ずっと背を優しくさすり続けてくれている。

 その千鶴のひざでは、ソファの主であるキジトラ柄の猫がごろごろとのどを鳴らしている。

 ――千鶴の回復で最も役立ったのは、実はこの猫である。

 これが千鶴のふところに入るなり呼吸が落ち着いたのだ。

「この子、人なつっこいね」

 千鶴がようやく発した言葉がそれだった。涙に水分をとられて、少し声がかれていた。

「うん、温かいところが好きだからね」

「わたし、あったかいのかな」

「ぼくは、あったかい人だと思ったよ。おトイレで会った時に」

 そういわれて、千鶴はなんと返していいかわからなかった。

 かろうじて「ありがと」と応えて、猫の背をでた。

「名前は?」

「カラフ、お父さんがつけたんだ」

「そうなんだ。へえ、なんかかっこいい」

 そういうと、ショウは少し笑った。

「名前の意味を聞いたら、きっと違うと思うよ」

「どういう意味なの?」

「この子さ、こっちに引っ越してきてから、里親募集ぼしゅうから引き取った子なんだ。前に住んでたところはペット不可だったから。それでさ、夜になると家じゅう走り回って大騒ぎするんだよ。最初の夜にそれでみんな起こされて、お父さんがどうにかつかまえて『お前はカラフか』って。それで、名前もカラフに」

「カラフってそういう意味なの?」

「『誰も寝てはならぬ』って歌、知ってる?」

「ううん」

 そういわれて、ショウは軽く一節鼻歌で歌った。

 千鶴はああと相槌あいづちを打った。

「聞いた事ある。もっと低い声の、男の人の歌だけど」

「うん『トゥーランドット』のアリアで、アイススケートとかでよく使われてる」

 ふうん、と千鶴がうなずく。ショウはつづけた。

「で、曲名が『誰も寝てはならぬ』で歌ってる役の名前が『カラフ』」

「ふうん、じゃあ男の子?」

「うん、まだね」

「まだ?」

 ショウはただうなずいた。

「……ぼく、カラフがいなかったら、オカマトイレの話をきいた時点で学校にいけなくなってたと思う。帰ってきて泣きそうになってると、この子がなぐさめてくれたから」

「猫を学校につれて来れればいいのにね」

「だめだよ。この子もいじめられる。オカマだって……去勢きょせいしなくちゃいけないんだ。里親の会からそういう約束で引き取ったから」

 千鶴は何かいいかけて、口をつぐんだ。

「かわいそう?」

 彼女がいいかけたことを、ショウがかわりに口にした。これにこくんとうなずく。

「この子は、数が増えすぎて野良になるしかなかった子かもしれないんだって。だから、これ以上増えないために、子供をつくれなくするって」

「そんなの続けてたら、そのうち絶滅しちゃいそう」

 それをきいて、ショウは少し笑った。

「まあ、その時は去勢をやめるだろうね」

「ああ、そっか。そうだよね」

「けど、なんでそうなるのかはカラフ自身は知らないし、知ることもないんだろうなって。――けどね、去勢するのって悪い事ばかりじゃないんだよ。去勢することで、その部分におこるかもしれない病気がおこらなくなるんだって」

「……性病とか?」

 これに、ショウはぷっと吹き出す。

「猫に性病があるのかは知らないけど、そうだね。そういうことだよね」

 すでに並んで座っているショウと千鶴。千鶴の視線は自然とショウのスカートにうつった。すそがひざにかかり切っていない。

「ねえ、このスカートのたけ、微妙に短くない?」

「うん、冬に買った時は大丈夫だったんだけど、ちょっと短くなってきてる。背が伸びたせいかな」

「……きみはこれから、どうするの?」

 ショウは少し考えこむように天井をあおいだ。

「それはずっと迷ってる。ぼくはこの子と違って、何もしないで大きくなったら何が起こるか解ってるから……」

「体が変わること? ヒゲが生えたりとか」

「うん……」

「スカート、似合わなくなっちゃうかな。あ、けどヨーロッパにあるよね。男の人のはくチェック柄のプリーツスカートみたいなの」

 ショウは少し笑った。

「キルト、ね。あれはスコットランドの民族衣装だから……ぼくも、最初は男の人もスカートはいていいんだって思って喜んだんだけどね」

「ちがうの?」

「日本人ではいてたら、ちょっとヘンって思われるかも。それに、ぼくも男の人としてそういう恰好かっこうをしたいわけじゃないから」

「そうなの?」

 ショウはうなずいた。

「うん、最初は自分でもわからなかったんだよ。ぼくが自分で女の子のほうがいいと思ってるなんて」

「そうなの?」

「うん、ちっちゃい頃は男の子の友達もいっぱいいた。ただレンジャーごっこでは女の子をやりたがってた。魔法少女もね」

「うん」

「その方がしっくりきたんだよ。逆に男の子っぽくしてる方が、ちょっと違う感じだった。しばらくして、女の子と一緒に人形で遊んでたり、ゴム段をしてる方が落ち着くって気づいた。そこからは、なんでスカートはいちゃだめなんだろう、ヘアピンは? って……小学校の入学式の時に、はっきり気付いた。ぼくは男の子っぽくしてるのがつらいんだって。周りが男の子なのはいいけど、ぼくが男の子なのがダメなんだ。……なんでそうなのかは、ずっとわからない」

 千鶴は、納得してうなずいた。

 そういう子も世の中にはいるし、そういう子が大人になった大人も、大勢ではないけれどいる。そういう話は保健委員だったとき、『心と身体のこと』として見聞きしている。

「わからないけど、女の子のほうがいいの?」

 臼井ショウははっきりとうなずいた。

 千鶴は少し考えてから、あえて口にした。

「まだ、ついてるの?」

「……これのこと?」

 そういってショウはカラフの尻尾の付け根をつまみあげた。カラフはこれを嫌がり、ねるようにして離れた。その尻尾の上がった後ろ姿には、ちいさな睾丸こうがんのふくらみがある。

「いっちゃった。見せなくてもいいのに」

「けど、ぼくのを見せるわけにはいかないから」

 これに千鶴は笑った。

「んふふ、当たり前じゃないの。んふふふふ」

「だよね、へへ」

 ふたりして照れてしばらく笑い合った。

「――学校、大変じゃなかった?」

「男の子っぽくしてるの?」

「うん、騒がれる前から我慢してたってことでしょ?」

「それは、裏技があってね」

「なあに?」

「実は足に、ネイルアートしてたの」

「え、本当?」

「うん、今はタイツはいちゃってるから見せられないけど。ここだけは女の子、ちょー女の子って、自分に言い聞かせるの。それで我慢してた」

「すごい」

「けど、そろそろそういうのも難しいらしい」

「夏になったらプールもあるから、裸足だもんね」

「ああ……それも辛かった。前の学校で一番嫌だった。何度わざと毛虫に刺されたか」

「そんな、あれ結構痛いよね?」

「それでも嫌だったの……一応、ラッシュガードっていうの? 上に服を着てプールに入っていいとは言われてたけど、それでも一人だけみんなとは明らかにちがって、それをいじられるのがイヤだった。ぼくがどういう子かわかってて、わざと『なんで臼井くんだけ服着てるんですか』って先生に大声で質問する子とかもいて」

 これをきいて千鶴は心底嫌そうな渋い顔をした。

「それはいやだったね」

「わかる?」

「うん、気にしてること、人前でわざと言いふらされるの、すごくイヤだもん。わたしも何度もやられた」

「そうなんだ……」

「だからわかる」

「よかった、ありがとう」

「先生に言ったらなんとかならないかな。例えば、日焼けが気になる子は着てきていいですよ、とかもっと気軽にそういうの着られれば、ひとりだけラッシュガード着てるって感じにはならないと思う」

「んふ、そうだね、そうなったら、少しは気楽かも」

「そしたら、多分女子は半分くらい着ると思うよ。おっぱい大きくなってきてるの、恥ずかしがってる子もいるし」

「おっぱいか……」

 千鶴ははたとして、気まずそうな顔になった。

「……ごめん」

「なんで?」

 ショウは軽く言った。千鶴はすこし言いにくそうに、それでも唇を軽くかんで、応えた。

「……気に、してるかなって」

 そういって、ちらっとショウの胸を見た。この視線をうけてショウはああと納得したような声を出した。

「あ、ぼくにおっぱいが無いこと?」

 千鶴は申し訳なさそうにうなずいた。

「ううん、気にしないで。そういうの、まだ早いらしいんだ。気にするの」

「そうなの?」

「うん……たとえば、たとえばね。ぼくが将来、性転換せいてんかん手術を受けるとするでしょ?」

「うん」

「それって、20才になるまでできないんだって」

「そうなの?」

「うん、それに、性転換するまえにも、ホルモン治療っていうのがあって、それは18才くらいから受けられるらしいんだけど」

「ずっと先じゃん。それまでの間にどんどん男の人になっちゃうよ」

 千鶴は自分のことのように心配した顔でいった。ショウはそれを少しよろこぶようにはにかんで、うなずいた。

「うん、……実は病院で『二次性徴がはじまりかけてますね』って言われたんだ」

「え、もう? 男の子なのに早くない?」

「うん、10才すぎたら始まっちゃう子は始まっちゃうんだってさ。実際、背も伸びるの早くなってきたし……それで、二次性徴を止める薬をはじめたの」

「そんなのあるの?」

「二次性徴遮断薬っていって、たとえば声変わりとか、筋肉とか、毛の生え方とか、そういうのが出てくるのを止める薬があるの。毎月注射をうたなきゃいけないんだけどね……」

 これをきいて、千鶴はまっすぐにダイニングの自分の母を見た。

「うちのお母さん、知ってたのかな?」

 千鶴はすこし不満そうに言った。

「わからない。最初に打った時、別の人が受付だったから」

「何曜日?」

「木曜日、かな」

 それをきいて、軽くうなずいた。

「それならきっと違う。お母さん休みの日」

「知ってたら、隠してたら、怒る?」

「わかんない。けどムカついたと思う」

「なんで?」

「きみ良い子だもん。男の子にしとくのがもったいない。ちゃんとしてる子だと思ってた」

 そう言われてショウは目を丸くした。

「私、保健委員だったの。そういうのうるさいの」

「そう……それは、ありがとう」

「私こそ、謝らなきゃって……黙ってたから」

 千鶴のその言葉に、「え?」と少し眉をけわしくする。

「――真面目でいい子なのに、なんでトイレをまともに使えないあんたたちがそんなに馬鹿にするんだって。――私が男子たちにそう言ってたら、ああいう風にならなかったのかなって」

 それを聞いて、ショウは表情をゆるめた。

「そっか、けど、僕は黙っててくれてよかったと思ってるよ……君があんなこと言いふらすわけがないって、信じていられたから。何も言わず、自然にしてくれてたから」

 千鶴はそれをじっと聞いていた。そして、再び目をうるませた。

「あの、ちょっとティッシュとってくれる?」

「え、え、うそ、なんで?」

 突然泣き始めた彼女に、ショウは戸惑った。戸惑いながらも、言われた通りにティッシュケースに手をのばし、それを差し出す。

 千鶴は泣きながら、少し笑って、照れ隠しのようにティッシュで顔の下半分を隠した。

「違うの。これ、うれしいの」

 そういってぽろりぽろりと大粒の涙をこぼした。千鶴はそれをぬぐい、鼻を一回かんでから、両腕を大きく開いた。そしてショウを抱きすくめた。

「私ね、ずっとずっと私が悪いってそれしか思ってなかったの。だから、うれしいの」

 ショウもこれを受け止めて、背をぽんぽんとさすった。

「そんなことないよ。ありがとうだよ」

 親たちはこれをややはなれたダイニング側のテーブルから見て、それぞれのスマートフォンから手を離した。

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