第7話 驚いたけど、似合ってる。

 声の大きさに目を丸くしている小学5年生の女の子に、臼井光42歳は「あ、いきなりごめんね」と軽い調子でわびた。

「声、大きいんですね」

 千鶴は路地裏ろじうらですくみあがった猫のような細い声で言った。

「うん……それが仕事だからね」

 太い、まるでチェロやコントラバスのような響き豊かな声で臼井氏は応えた。

「声の出し方、ですか」

「それもだけど、大きな声で歌うのが元々の専門」

「ああ、なるほど……あの、マイクとかは?」

 臼井氏の背丈は、岩井先生ほどではないが小柄なほうだ。先程あったショウのお母さんとほとんど同じくらいだろうか。その分、横にがっしりと大きい。顔はヒゲをたくわえている分もっと大きく見えるし、目はショウに似てキリンのように長いまつげでくりっと大きい。

「うーん、録音の時は使うけど、コンサートとかでは、使わずに歌うことが多いかな」

「それで、大きな声を」

「うん。楽器に負けずに、一番後ろの席まできちんと聞こえるように歌うには、声の出し方からきたえないといけないから」

「楽器って、ピアノとか?」

「うん、ピアノだけの時もある。フルオーケストラの時もある」

 フルオーケストラ、指揮者を中心に、半円形に何十人もの様々な楽器の演奏者が囲んだあの形である。

「そんなに」

「もちろんオーケストラの方で手加減をしてくれる場合もある。けどオペラなんかでは、どちらも力強くやらなければいけないところもある。そういう時はちょっとしんどいかな」

「すごい……私じゃ無理」

 そう恐縮する千鶴に、臼井氏はにこりとした。

「大丈夫、すぐは無理だろうだけど、きちんと練習すればできるよ」

「そうなんですか?」

「うん、声はボール投げと一緒だから」

「ボール投げ」

「そう。いきなり野球のボールを渡されて『時速100キロでは投げて』って言われてできる?」

 千鶴は少し笑って首を横に振った。

「無理です。子供だし」

「子供だからか……リトルリーグの日本代表投手は時速120キロ近く投げるって聞いたよ?」

「それはきたえ方も、投げ方も、全然違うもの。メンタルトレーニングとかも」

 臼井氏は笑顔でうなずく。

「そう、まさにその通り。私のやってるのも全部同じことだよ。たとえば声の鳴る、のどにある声帯せいたいという部分は筋肉で出来てる。そこだけで声を大きくするのは限度がある。同じように、手首のスナップする力だけでもボールは投げられるけど、それでは大人でも100キロの球なんて絶対に投げられない。無理にやれば手首をケガしてしまうだろうね。声も同じで、声帯やのどだけで大きな声を出せばのどはすぐに怪我をしてしまう。――きちんと少しずつきたえながら、全身をうまく使って、野球であればボールの速さを、歌であれば声の響きをふくらませる。それをさらにコントロールして、狙い通りの変化や表現にしていくのが技術。そして、それがちゃんと出せる心の状態を整える。……まあ、まずは体の使い方とリラックスだよ」

「へえ……じゃあ、私にもできるかな」

 これに、臼井氏は黒々としたヒゲの間から白い歯を見せた。

「いいねえ。やる気出て来たかな?」

「出てきました」

 その背後、防音室手前の次の間のあたりの壁がこんこんとなった。

「やっときたか」

「パパ、カラフが驚いて二階まで逃げてきたよ」

 ショウの声だ。千鶴は反射的にきゅっと首をすくめ、猫背になった。だが、鏡越しに見えたショウの姿に、そのすくめた首がゆるゆると伸びる。

 そこにいたのは、たしかに臼井翔羽ショウだった。

 だがその服装は、あまりにも意外だった。

 ライン柄の淡いピンクのカーディガンにパステルブルーのスカート。前髪はビーズ飾りつきのヘアクリップで横に分けている。靴下は白、ソックスというよりタイツのようでスカートの中まで薄くしわもなく伸びている。

 千鶴はまずびっくりした。だがそれ以上に奇妙なことに、心からこう思った。

「――かわいい」

 千鶴も一応は女の子である。かわいい服には興味がある。

 そしてそもそも、色白で目が大きなショウは、顔立ちからして整っている。加えてその長い手足が着こなし以上の見目の良さを引き出していた。

 ――だが千鶴のその一言で、室内はなぜか急に凍り付いたように重たい空気になった。すこしの気まずい表情と沈黙ちんもくである。

 よりかみくだいていえば、全員が戸惑っていた。

 臼井氏が父親としてどう感じているかはともかく、ショウはトイレでの知り合いとの思わぬ遭遇そうぐうと、ほめられたことへの恥じらいでもある。

 ……だが、千鶴はその沈黙に、ある種のアレルギーのような反応を起こした。

 千鶴は、急に息ができなくなったように感じた。

 その顔色もどんどんと青ざめる。

 その脳裏に一瞬でよみがえったのは『あの子達』から受けたいまわしい『無視としての沈黙』だった。

 千鶴は丸まった背をさらに小さくしてちぢこまり、飢えた子猫のようにか細く鳴くように言った。千鶴の体は息の苦しさとともにどんどんとこわばっていた。

「あの、あの、ごめんなさい」

 これに二人はぎょっとして彼女を見た。

 その顔はぽろぽろと涙を流しながらひきつった息をしていた。

「えっ……いや、千鶴さん、君は何も悪くない。あやまるようなことは何もないよ」

「亀山さん、違うんだ。ぼく、びっくりしたんだ。ありがとうって、すぐに出てこなくて」

 二人はほぼ同時に彼女にそう言葉をかけた。だが千鶴の顔色は青ざめたままだ。

「――もしかして、息ができないの?」

 ショウがずばりきくと、千鶴は青い顔でうなずいた。

 これをきいて臼井氏はピアノの椅子を跳ね倒すようにして立ち上がり、千鶴のそばに寄った。

 そのまま、そっと背中に手を当てた。

「休憩しよう。大丈夫、何も怖いことはない。わたしに呼吸を合わせて、ここは安全だ。君が不安になるものは何もない」

 臼井氏は千鶴に、チェロのような深い声でそう言った。ショウも、その表情は父親と同じく心配の一色である。二人ともに、千鶴の心身に何がおこったのか見抜いているようだった。

「亀山さんのお母さんとママ、呼んでくる」

「いや、リビングに連れて行こう。いいかい、このままだっこするからね」

 そういって、ショウの父はひょいと千鶴を横抱きにかかえた。

「呼吸を浅く、ゆっくりと。大丈夫、息ははいに届いているよ。背中に意識を集中してごらん……吸った息をすこしとめて、ゆっくり吐いて……」

 抱えられた全身に、臼井氏の声が響いて伝わる。千鶴はその言葉にしたがった。温かい腕に赤ん坊のように抱きかかえられて、いくらか気持ちは安らいではいた。だが、肝心の息のつかえはなかなかとれない。

 千鶴の身に生じたのはいわゆる過呼吸というものだった。

 臼井親子は千鶴の身に生じていることが、本人以上にわかっているようだった。

 ――無理もなかった。

 臼井ショウが不登校になった週の月曜の朝、この家の玄関で、同じように過呼吸を起こしていたのだから。

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