第4.5話 夫婦の会話(子供は読み飛ばしても可)
千鶴の父、亀山
既に千鶴は眠っている。起きているのは隆矢と亜希だけだ。
隆矢の食事はふたりと同じだった。ただ、米とみそ汁はない。既に遅い時間ということもあるが、酒を飲むからだ。この酒には亜希も付き合う。発砲酒をひとり一缶ずつだ。
千鶴の両親は共働きである。母の亜希は自宅から3駅隣の駅前にある内科クリニックの医療事務と受付をしている。
父の隆矢は室岡という旧姓で、建築分野を専門としたジャーナリストをしている。公共建築のニュースが話題になると、ラジオに出たりネット記事がバズったりしている。
二人だけで話している時の話題は、大抵はそれぞれ一日の間にあったことになる。
その夜は、当然のように夕食時の千鶴の話になった。千鶴が泣きながら臼井ショウの事を熱弁した事である。
「……保護者会って、いつだったっけ。先週?」
「うん、先週の水曜」
「ああ、それじゃあ、その子が休みだしてすぐか」
「うん。一応ご挨拶もしてるし、連絡先も交換はしてるけどね」
「え、まさか保護者の人全員と?」
「ううん、前から連絡取り合ってる人と役員になった人以外では、臼井さんだけ」
「なんでまた、トイレ友達の親同士だからか?」
「ううん、それは今日、千鶴から聞いて知った。その子ね、実はうちの病院の患者さんなの。初診受付が私で、おたがい顔覚えてて」
そういい、亜希は頬杖をついた。
「ほう、なんか持病でもある子なのか?」
隆矢になにげなくきかれて、亜希は嫌そうな顔でのけぞって見せた。
「ちょっと、守秘義務ー」
そう、事務職といえども一応は医療業務を仕事とする身である。患者については話せない決まりがある。
「ああそうか、すまん。聞かなかったことにしてくれ」
「まったく……まあ、長い付き合いになりそうな子ではあるのよね」
「なるほど。それじゃあ患者とクリニック関係者は気まずいですか」
「んー、その時はそうでもなかったんだけどね。『力になれそうなことならなんでもお気軽に』って感じで。――けど、今日ちーちゃんの話きいて、ちょっと空気変わっちゃったな、って」
「その子の状態が、千鶴のいじめのトラウマにも引っ掛かるのか」
「うん、まあね。ただ、そっちに関しては、できることはしてあげたいと思ってる。違うの」
「聞きましょう」
隆矢がそう身を乗り出すと、亜希は困ったように額に手をあてた。
「うーん、それがなんとも、言いたいけど言っちゃダメって奴で」
「守秘義務にかかって来るのか」
「そうなの」
「わかった、守秘義務に触れないように、遠回りして話をしよう。その子がいじめられてる原因は、そのトイレで変な疑惑がついてるからだよな。その大をしたか、してないかっていう、子供特有のくだらないやつ」
「そう」
「そもそもその子はなんで、教室に近いトイレを使わないんだ」
これに亜希は隆矢にてのひらを見せた。
「はいストップ、それより線の内側に入らないで」
「もう守秘義務のラインに引っ掛かるのか……まて、男女共用トイレって言ったよな。いわゆる『だれでもトイレ』だよな」
これに亜希はテーブルの下で隆矢の足を蹴った。
隆矢は「いったあ」と大げさに痛がってみせる。
対して亜紀は頬を膨らませている。
「んもう、なんで内側に入るなって言ってんのにすり足で入ってくんのよ!」
「一応、公共建築のそういうのも僕の仕事の分野だから!」
「あーんもう、わかってるならさっさと下がる!」
「はいはい」
……二人が暗に言い交していることを、わかりやすく書き下すとこうなる。
公共施設における男女共用トイレというのは、男女のトイレを分けて設置するスペースが足りないという理由のほかに『性的少数者への配慮』として設置されるものである。いわゆる『だれでもトイレ』である。
特に学校のような施設に作られる場合、そうした背景が強い。
むろん、千鶴のように近くの教室のトイレを使うことに精神的苦痛を感じる生徒が利用することもある。だがこちらは単に教室から遠いトイレを使えば済むという点で、そこまで重視されていない。
そして本人がいうように隆矢のジャーナリストとしての専門分野は公共建築である。そういう事情を少なからず知っている。
……そして一方、亜希の勤めている内科クリニックは、すぐ上の階に精神科クリニックが入っている。
その精神科は性同一性障害および性的少数者の心理的問題について長けた開業医で、その病院からの紹介でホルモン剤の注射を受けに来る患者というのが少なからずいる。
このふたつが重なって出る推察は一つである。
臼井ショウが、なんらかの性的少数者である可能性である。
そして亜希はそういった事情について病院関係者として外に漏らすことはできない。
これがさっきから下がれ下がれと言っている『守秘義務のライン』である。
「――じゃあ『白線の外まで下がって』考えるかぁ。そうだなぁ、亜希ちゃんがひやかしでいった、そういう、男女の仲が図星ってことか?」
これに亜希はあごを横に振った。
「ううん、たぶんそっちはシロ。あの子の話してる感じだと、そっちはごくごく清らかな、トイレで挨拶するだけの関係」
「じゃあ、そうなると、僕と君との間に引かれた守秘義務の線のそっち側の話だな」
「そういうこと」
そう言われて、結婚15年の連れ合いは悟ったように遠い目で腕組みをした。
「そうか、では勝手に独り言をいいながら想像するしかないな」
妻も明後日の方を向いて「そうして」とつぶやいた。
「男女共用トイレ、風潮的なことを含めて考えれば性的少数者に配慮したトイレか。オカマトイレという通称は実態としてはある意味で当を得ている」
これに亜希は少し険しい顔で隆矢をすがめ見る。
「んー、あと半歩で夫婦ゲンカかなー」
「マジか。そっちでもないのか? いや待て、ちがうな……今度は、俺は何の地雷をふみかけてるんだ?」
「言葉の選び方の問題」
「あー、はい、わかった。少なくともオで始まってレで終わる6文字は禁句だな」
「正解」
「そういう配慮を含めて、実に繊細で敏感な問題。そういうことか」
亜希はほんのり小さくうなずいた。
「あの子に何て言おう……。そういう事情もわからないで傷ついてるから」
そう頭を抱える妻に、隆矢はしたり顔で言った。
「それは俺らが言う事じゃないだろう。そういうの『アウティング』っていうんだろ」
そう言われて亜希ははたと顔を上げた。
「うん、そう! 言っちゃダメだ」
声が大きくなる妻に、夫は顔を覆った。
「おいおい奥さん、リアクションがデカいよー。それじゃあ誘導尋問に引っ掛かったようなもんじゃないか」
「あっ……」
と悔しそうに渋い顔をする亜希。隆矢はため息をついた。
「とりあえず、その臼井さんと連絡とってみるって言っちまったんだろう」
「うん……さっきお茶の約束までした」
それをきいて、隆矢は目を丸くした。それからゆるゆると肩の力を抜き、そのまま発泡酒をぐびりと喉に落とした。
「なるほど、いままで聞かされたのは、相談でなく『王様の耳はロバの耳』か」
亜希はうなずく。だがその表情はまだ浮かない。隆矢は亜希の缶を指でつまむように持って、そのまま軽く振った。中身は空だ。
(いつもより酒のペースが早いな。これは思ったより精神状態がよろしくない)
夫は、妻の顔をテーブル越しに仰ぐように見た。
「……もう一缶出してこようか?」
亜希はテーブルの上の虚空を見つめたような目で、小さく首を横に振る。
隆矢は息をついて妻の隣に座りなおした。そのまま肩に手を回す。亜希も頭を寄せた。
「PTA、今年も何かやるの?」
「役員のノルマは去年で済んだ」
「そっか……お前さんさ、時々一人で子育てしようとしてないか?」
「そんなことない」
「ほんとか? いまのだって俺は『妻の話を聞く』以外なにもできてないぞ」
「うん……」
「面倒なら俺にも振れ。そうだ俺が朝飯作る回数増やそう。千鶴の話を聞く時間も増える」
「うん……」
亜希がなにか心が軽くなったように大きく息をついた。これに合わせて隆矢も息をした。それから唐突に、何かに気付いたような声を出した。
「ん?」
「円形脱毛症」
そういわれて、ぱっと髪を抑える亜希。
「うっそー」と言う夫の悪ふざけに、亜希は目を見開いた。
隆矢はけらけらと笑う。妻は驚いた顔のまま、夫の缶に手を伸ばし一気に飲みほした。
「あ! 俺の!」
「おみそ汁でも飲んでください。まだ鍋に残ってるから」
急につっけんどんにそういいながら、亜希は二つの空き缶を手に立った。そのままキッチンへ周り、ゴミ箱に缶を落とす。
これを一人座って見ながら、隆矢はため息をついて、それから軽い調子で言った。
「そこにいるならみそ汁ちょーだい」
「いま温めなおすからちょっと待って」
亜希の声の調子が、普段の母として、妻としてのものに戻る。
「温めなおすのはみそ汁だけですか?」
そうぼやきながら、自分の御飯茶碗を取りに席を立つ隆矢に(何か言った?)といわんばかりに亜希は顔をあげた。
「ぬるいままでいいよ。それより少し一緒に食べよう」
「え、わたしもう食べてるし、太るよ?」
「俺だけ太るよりはいい。一緒にブタになろう」
そういって鼻を鳴らす。亜希は少し笑って、水切り棚にかかった自分の茶碗もとった。
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