第4話 母はチェシャネコのように笑う

 亀山千鶴チヅルの夕食は、母の亜希アキとの二人きりであることが多い。父はいつもお昼前に仕事に出て、帰ってくるのは千鶴が寝た後だ。

 食卓でのいつもの話題は、それぞれ一日にあったことで、話したいことだ。

 そして、しばしば千鶴の学校で口に出せない怒りが母との会話の中で吐き出される。

 臼井ショウとトイレをめぐる騒動そうどうもそうだった。

 一通り千鶴の話を聞いて、亜希はふうんと口を尖らせた。

「もう、そこまで思ってるならクラスの子に言っちゃえばいいのに」

「言えないよ!」

 千鶴はムキになって応えた。

「なんで?」

 亜希は楽しげにそう問い返した。

 この母は、娘の話をいつも冗談じょうだんっぽく相手にするところがある。真面目に聞いていないわけではない。千鶴が思いつめてしまわないように、明るいほうに、あるいは笑い話にすりえられる方に、話の流れを持ち込むために、わざとそうしている。もちろん、千鶴もそれはある程度わかっている。

「男子と女子が毎日同じトイレに入ってるんだよ!?」

 母は大きく声を出して納得なっとくした。

「それなー。え、けどさ。別にとなりのトイレでおしっこしてるだけでしょ? しかもそういうこともありうる男女共用のトイレで」

「そうじゃなくて!」

「そうじゃないの? あれあれ? それだけじゃないのかなぁ?」

「それじゃなくな……それだけだけど!」

 冷やかされて、千鶴はすでに半分笑いかけている。母はしてやったりという顔になる。

 どうにか笑いをこらえて、わざと怒ったような顔をつくる。

 これに負けたように、母は声の調子を少し落とした。

「いやわかってるよ。わかってるけどさ」

「わかってるってなにが!?」

「今日のちーちゃんこわいよ?」

「こわくもなるよ! 怒ってる話だもん」

「そか、そうだよね……よくわからないけど『やらしー』って言われるとか思ってるの?」

 千鶴はしゅんとして、こくりとうなずく。

 ふうん、と母は顔をそらして、それから何か思いついたようににやりと笑った。

「ねえねえ、逆に、そういう仲だとまわりに思わせちゃう、っていうのはどうよ」

「はぁ!? そんなのムリだから」

「なんで? オカマあつかいされてるのがかわいそうだから怒ってるんでしょ? それなら、女の子とやらしーってなるくらいの子ならオカマなんて言われないと思わない?」

 母はみょうににこにことしながらそう言った。

 だが面と向かっている千鶴の顔は必死だった。顔を下に向けて、首をぶんぶんと横に振る。目もはっきりと涙ぐんでいる。

 これに亜希ははたとした。もう一度照れ笑いさせるつもりが、完全にハズしたのだ。

 亜希は娘のとなりに座りなおした。そして数枚引きぬいたティッシュペーパーをさし出す。

 それを受け取る手を、母はきゅっとにぎった。

「ごめんなさい。今のは、お母さんがふざけすぎました」

 その手はあたたかく、千鶴は手をほどいて涙をふいて「そうだよ……」といった。

「かっこいい子だってきいてたから、つい調子に乗りました」

「それは……臼井くんは、かっこいいよ。足早いし、顔もいいし、歌も上手だし」

「そうなんだ」

「4年生の時、保健委員だったでしょ?」

 これは千鶴自身のことだ。亜希は「うん」とうなずいた。

「他の年の子の使うトイレとか、見に行くと、手洗い場のいろんなところに水たまりができてたり、鏡に水のあとがたくさんついてたり、排水溝はいすいこうかみの毛とかからまってたりするの」

「うん」

「私、そういうのあんまり好きじゃないの。私達が取らなきゃいけないから」

「うん、きれい好きだもんね。洗面所の鏡とかも結構拭いてくれるし」

「すぐ拭けば白くならないんだよ。学校のだって洗剤で拭いておくだけで白くならないのに、だれかが水かけて流しちゃうの」

 亜希は娘の生真面目さに少し笑みをこぼした。それから、こうたずねた。

「共同のおトイレもそうしてるの?」

「ときどき見てる。けど、男女共同のトイレは、本当に私達しかつかってないみたいで、そういうよごれが全然ないの」

「きちんとしてるんだ」

「そうなの! すごくきちんとしてるの!」

「そういう子が悪く言われるのがイヤなんだね」

「そうなの……」

「そのきちんとした子が、学校に来れなくなったのが、悲しいの?」

「うん、けど悲しいのとはちがう、くやしいの」

「うん?」

「私がしっかりしてたら、きちんとあいつらに言ってたら、自分がいじめられるの怖くても、きちんと言ってたら……」

 千鶴はそれ以上は言わなかった。言えなかったという方が近いかもしれない。その顔はまたぼろぼろと泣き始めていたからだ。

 母はうんうん、と何度もあいづちを打ちながら、うちふるえて泣く娘の頭を抱きすくめた。

「そうだね……そういうことなら、お母さん、臼井くんのお母さんとお話してみようかな」

「え?」

「お話しできるかは、あちらのお母さん次第だけど、千鶴がそう思ってるってことは、私はわかってもらいたい」

「えっ……いいよ……」

「だって、学校で皆に話したらまたいじめられるかもしれないけど、臼井くんにだけは、味方だってわかってもらうのは、いいことじゃない?」

「うん……」

 そう応じるころには、千鶴の涙もひいていた。

 母はそっと体を放し、「さあ、冷めないうちに食べよ」とうながした。

 千鶴はゆっくりうなずいて、はしを取った。

 その日の夕食は、どりの甘酢あんかけ、カブとキャベツの浅漬け、ワカメと油あげのみそ汁に雑穀ざっこくごはん。そして千鶴の好物のニンジンしりしりと、母の好物の高菜づけも出ている。

 平日の父の帰りは遅いから、皿もはじめから二人分しか並んでいない。

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