第3話 元保健委員としても

 臼井ショウは、それから数日の間、本当に人気者だった。

 だが、ある出来事をきっかけに、彼を取り巻く人間関係は変わった。

 『臼井翔羽ショウがオカマトイレに入っていたのを見た』という話がもちあがったのだ。

 むろん女子はほとんど総出で彼をかばった。だが、男子の間でオカマトイレに入ることは、よほどのことのようで、彼女たちの声はまるで届かなかった。

 逆に聞こえてくる話は『臼井はウンコをしたのか、それともオカマか』である。

 しかも、彼らは誰も本人に直接聞く勇気もない。それでもうわさ話は本人の耳に届く。

 ショウは休み時間のたび、長い前髪で目元を隠すようにし目がちに、くちびるをかんで一人でどこかに消えていた。

 それがまた、オカマトイレにこもっている、という噂の火の燃料になった。

 だが、根も葉もない話ということでもなかった。

 ――なにしろ、実際にショウは男女共用トイレを利用しているのだ。

 それも、彼が転入してきたその日、つまり5年生になった始業式の朝からである。

 千鶴も、誰にも話したことはないが、おそらくその最初に利用した日と思しき初日以来、何度となくそのトイレで顔を合わせている。

 ――男女共用トイレは、実際のところただせまいだけのトイレだ。

 個室が3つで男性用の小便器はない。便器は全て和式、鏡付きの流し台も用具入れのとなりに1人分しかない。

 そもそも作りが古っぽくて、オカマトイレなどというより『オバケが出るトイレ』と言われたほうがまだ雰囲気がある。

 この男女共用トイレがせまい理由は、すぐ隣りにある障害者しょうがいしゃ用トイレだ。これが入り口側の個室二つか三つ分のスペースをえぐりとっているのである。

 もっとも、その男女共用トイレを毎日使っている千鶴は、ほかの人の使用については、なんの抵抗感ていこうかんもなかった。ただただ『あの子達』でさえなければいいのだ。

 それでもはじめてショウとはちあわせた時は内心とても戸惑とまどった。

 始業式の朝、自分がいつも通りに一人きりで用を足しているとき、誰かが入ってきたのだから。

 それがまずはじめての体験だった。(自分以外にここを使う人間がいるんだ)というおどろきだった。

 その誰かはおもむろに隣の個室に入り、カギをかけ、少しずつ水でも落としているような音をさせた。

 女子が用を足しているときとは、だいぶ音が違う。それで(男の子だ)と気づいた。

 その時、先に用がすんでしまったのは、当然ながら千鶴のほうだった。

 気まずいながらも支度したくをすませて個室を出て、流しの前に立って手を洗う。

 できれば、隣の人が出てくる前に男女共用トイレを出たかった。だがきちんと手も洗いたかった。これはいじめられていた時『不潔ふけつだ』といわれて傷ついた事の名残なごりでもある。

 石鹸せっけんを濡らして手にこすっている間に、問題の個室のカギが開いた。

 あえてそちらを見ず、いそいで手の泡を流す。6年生や下級生なら何もおそれることはない。いや、同級生であっても気付かなかったことにすれば、おたがい問題はないはずだ。

 そこまで考えることはできた。だが、相手の動きまでは考える余裕がなかった。

 その子は、順番待ちですよ、と言わんばかりにややななめ後ろに立ってきたのだ。

 流し台には鏡がある。そして不覚にも、鏡ごしにその人と目が合ってしまった。

 見知らぬ、まつ毛が長くて色白で、背の高い美しい子だった。

 千鶴は学年では背の低いほうだ。だから別に同級生でも不思議はないが、こんなきれいな子に覚えはない。その上背が高いから、てっきり上級生だと思った。

 ――それが、臼井ショウだった。もっとも、千鶴がショウは自分のクラスの転校生だと知るのはもう少し後である。――

 むろん、びっくりした。

(こんなきれいな子がうちの学校にいるんだ)とさえ思った。

 だが、人間というのは不思議なもので、緊張した上で驚くと、心のどこかがこおりつくのか、表情にすら出ないものだった。

 無言で一瞬見つめあうも、向こうの方から鏡ごしに(どうも)というように会釈えしゃくをしてくれた。

 つられる形で軽く頭を下げ返し、水を止め、場所を空ける。

 彼は何食わぬ顔で、自分に続いて手を洗いだした。

 それを背に、千鶴は気配を消すようにトイレを出た。そのまま、まるで幽霊ゆうれいにでもなったつもりで、音もなく、ほとんど走っているような早足で、教室に戻った。

 ――例のトイレの美しい子が自分のクラスの転入生だと知ったのは、それから30分後。クラスの新しい担任の岩井先生と共に彼が教室に入ってきた時だった。

 はじめは彼とトイレで遭遇そうぐうするたび小さく驚いていたが、これが毎日1度か2度ある。さすがに1週間とたたずに二人の間では当たり前なことになった。

 これが女子同士、男子同士とかであればなにか話しをしたりするようにもなるのだろう。

 ところが、あいにくそこまで二人は近づかなかった。そもそも彼の席の周りにはいつもスポーツ好きの男子と、自分が可愛いとわかっている女子が取り巻いていた。

 教室の席も臼井くんは廊下ろうか側の後ろから2番目、千鶴は2列目の1番前と遠い。授業の合間に世間話ができるほど近くはない。

 気が付けば『無言で用を足し、後に入った方が鏡ごしに無言であいさつする』関係である。

 ――臼井ショウとオカマトイレの噂が流れるようになったのは、その関係が出来上がって、さらにしばらくした後だった。

 ショウを悪く言う彼らに、千鶴はもんもんとしたものを感じた。

 これは千鶴が4年生の時、保健委員として毎週、校内のすべてのトイレの様子を見てきたからわかる事だった。臼井くんはどうやら、トイレをとてもきれいに、というより正しく使うのである。

 ――他のトイレに行くと、大抵の鏡には水しぶきのあとが点々と、あるいはれたあとのようについている。これは手を洗ってもハンカチなどでかず、鏡に向かってぱぱっと水気をはらって終わりにしてしまうからだ。そのしぶきが鏡に付き、それがかわいて、いわゆる水垢みずあかという白いものになって残るのである。

 ――そういう水垢が例の男女共用トイレの鏡にだけはない。

 これは、去年までは自分しか使う生徒がいなかったせいだ。だが今年は違う。少なくとも臼井ショウはそういうずさんな手の拭き方をしないということだ。

 いや、それ以前に、千鶴にはもっと言いたいことはある。

(あのトイレは男女共用なんだから誰が使ったっていいはずだ。臼井くんはオカマなんかじゃないし、自分から挨拶あいさつできて、きちんと手を洗い、手洗い場もきれいに使ういい子だ!)

 ……ウンコウンコと騒ぐ連中めがけてそう言い切る勇気があったらどれだけよかったか。

 逃げるように教室から消えるショウに、千鶴は後ろめたさと不安を感じていた。

 そしてそれはある日、決定的な罪悪感ざいあくかんに変わった。

 ――彼が、臼井くんが学校に来なくなったのだ。

 担任の岩井先生は『病欠』とだけ言っていた。だが、彼とクラスの最近の様子を考えれば、それはいじめに近い環境からの『逃避とうひ』そのものだった。

 それが、少なくとも千鶴にはよく理解できた。千鶴自身、4年生で生理がはじまってから何度となく生理痛を言いわけに学校を休んだことがあった。

 ほかでもない『あの子達』という生理以上の苦痛から、逃れるためだった。

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