第2話 8秒の壁と心の傷 その2
「……亀山さん、立てるか?」
気が付いた時には、岩井先生がすぐそばまでかけよってきていた。
千鶴はうなずいて、すりむいた手のひらをかばうようにひじをついて体をおこした。
立ち上がってみると、足もすりむいていた。ひざについた白い砂が、傷からわき上がる血でういているのを見て、先生は生徒たちを見回した。
「ええと保健委員……はまだ決めてないから、経験者」
これに50メートル先から斉藤ミアが「はーい」と手を振る。
「おおそうか、悪いが保健室ついてってやってくれるか」
彼女はまた「はーい」と応えて、大きな彼女はきょろきょろと既に走り終えた5人を見た。
最初に歩みよったのは話題の臼井ショウだった。彼はストップウォッチを受け取り、斉藤ミアが入れかわりに小走りで千鶴の方へよってくる。
「なんだあいつ、走れんじゃん。
男子の誰かがそう言い、すぐに誰かが小突いたのか同じ声が「いてっ」と聞こえる。
「村田はデリカシー無いわー」
「ほんと、ねー」
そう言いあう女子。
「でりかしーってなに?」
「あんたに足りないものよ」
「脳みそか」
「あははは言えてる」
「言えてねえから、せんせーいじめでーす。渡辺さんがいじめてきまーす」
「村田くん、斎藤
やや強めの口調でいう岩田先生に気おされる男子と、ひそひそとなおも何か語らう女子。
そこに到着した斎藤ミアはぱたぱたと手を振りながら、「せんせーべつにいいよー」とまったりという。
彼女はクラスで2番目に背が高い。体重は間違いなく1番である。ひょっとすると先生よりも重い。ふっくらとして、既に胸もふくらんでいる。
「べつに隠さなくていいよ。生理せーり」
これに女子らが小さく悲鳴をあげる。
「美愛ちゃん言わなくていいよ、そんなこと」
「ほんと、みゃっち大らかすぎだから」
「こいつらに言ってもわかんないから」
そんな反応を背負いながら、ミアはよいしょと千鶴に肩を貸す。身長だけでも千鶴より頭一つ半は大きい。
「あ、あの、あるけるから」
「ちーちゃん、とりあえず洗い場いこ。砂落とさないと保健室いっても消毒できない」
ミアと千鶴の仲は、通っていた保育園までさかのぼる。いまだに『ちーちゃん』と呼んでくれる子はこのミアと、5年1組のりーちゃんこと倉田リイサくらいである。
――『あの子達』の一部も、以前は千鶴をちーちゃんと呼んでくれていたのだが――。
そろりそろりと二人で朝礼台の裏を通って水道のあるところへと向かった。
その途中、千鶴は目元が熱っぽくなるのを感じていた。その熱が涙となってあふれて、小鼻から口の
だが、そんなことつゆほども知らないミアはあわてた。
「え、どうしたの。やっぱ足首痛い? おんぶしようか?」
「ううん、大丈夫、大丈夫だから」
そういい、足の裏を地面にこすりながら歩き続けようとした。
「けど、変なころび方してたし、足首痛かったりしない?」
「ううん、いい、歩ける、いいの。それにミアちゃんだって具合よくないんでしょ」
「まあ、それはそうだけど、おんぶくらいは弟で
「ううん、いいの。じゃあ肩だけかして」
千鶴は泣きながらそう言って、肩をかりて歩き続けた。
ミアは仕方ない、というように千鶴の
「ちょっと、やりすぎ」
そう言われて少しだけ下げ、ふたりは二人三脚のように歩きだした。
「ちーちゃんは軽いねえ。うち弟より軽いよ」
「ミアちゃんの弟が大きいんだよ。この前
これに対してミアはかかかと笑う。
「確かに、あいつ3年生で一番デカいらしいからねえ」
そんなことを話しつつ、洗い場にたどり着く。そしてそっと、低いほうの蛇口のまえに片ひざを差し出すように少しかがんだ。
ミアは蛇口の
千鶴は足を
これにミアの表情がさっと不安げになる。
「そんなに痛む?」
「ううん、冷たい。冷たくない?」
「ちょー冷たいよ。けどガマンガマン」
「うん」
そのやり取りを、遠くから見る目がある。
ふと顔をあげた千鶴は、その人と目が合った。
臼井ショウだった。
千鶴は一瞬、時間が止まるような感覚をうけた。それほどに彼の姿が目に残ったのだ。
男子用の
だが、千鶴は思った。
(なんか、男の子っぽくない気がする)
それは妙に丸く整った髪型のせいもあるのだろう。まるでファッションショーに出るような低体重気味のモデルのようだった。
だが、千鶴が感じたのはそれだけではない、強いていうなら
さらに一歩、考え方を広げて、――それなら、どうあれば男子と女子はちがうのだろう。
まず、女子と男子は体の育ち方はある程度の年からはっきり変わる。
特にわかりやすいものが、月経や
たとえばいま千鶴を
目の前の転入生には、まだその
どちらかというと、男子っぽさがいまひとつ無いのだ。
(不思議な子)
もっとも、不思議なのはその見た目だけではない。彼と千鶴には、ひとには話しにくい共通点が一つだけあるのだ。
それは――千鶴の逃げ場である職員室前のトイレである。
そこを彼も利用しているのである。
これは誰にも話していない。話す必要もないことだった。
男の子にも個室のほうが使いやすいという子がいるらしいという話はきいてる。それに、男子トイレの場合個室を使うとウンチをしているというレッテルをはられるという。そういうのを
――彼は、先生の笛の音とともに視線を戻した。その顔の先では出席番号18番土屋ユウトが大きな体をゆらしてどたどたと走っている。その手がすれ違いざまにストップウォッチを振る。
「土屋
臼井くんの声は高く清らかだった。木管楽器のような、温かく心地の良い、よく通る声だ。
「田中
遅れてそういう先生の声は少ししゃがれている。まるでウグイスとカラスのような声色の違いだった。
「――これだけ流せばいいかなー」
ミアにそういわれて、千鶴ははたと自分のひざを見た。ミアの手はずっと水を受け止め続けてくれていた。それに気づいて、少し申し訳ない気持ちになった。
「ありがとう、多分大丈夫」
そういって千鶴が足をひっこめると、彼女は蛇口をしめてくれた。
そしてまた大きなミアに気づかわれながら、今度は保健室のサッシ戸口に移動する。
その千鶴の頭の中に、スタート地点を見すえる臼井くんの横顔があまく残っていた。
だが2歩3歩と進むと、まるで寝ぼけた頭がすっきりとさめるように、ゲンジツが見えてきた。
臼井ショウは、足が速くて顔もいい。典型的なモテる男子で、実際すでにモテている。
(……それに比べて、私はどう?)
今の千鶴の自分への点数は、自分で自分をあわれむこともできないほどに、低い。恋愛する女の子としての自分はもっと低い。これは長くいじめられ続けたことで、そうねじ曲がってしまったのだが、そんなことにも気付けないほどだ。
(私が仲良くなれるような人じゃない。もしも仲良くなったとして、またいじめられる。ひょっとしたら、私だけじゃなく、臼井くんももいじめられるかもしれない。それならどうにもならなくていい)
誰かの好タイムに拍手があがっている。名前の番号順から考えて、おそらく4年生で最速だった野田ソウタくんだろう。
その声を背に、千鶴は保健室へとむかえ入れられた。
「見てたよー。ハデにずっこけたねえ」
保健室の竹下先生は、千鶴から見ておばあさんに思えるほど年配の女性である。
中に引き入れられ、長いイスにこしを下ろす。
「竹下先生、足首見た方がいいかも」
ミアも一緒に上がり込んで、心配そうに言ってくれた。
「ううん、大丈夫です、別にひねったとかはないです」
「そう? 一応確かめさせてね。えーとどっちの足で
「右足から出して、だから、左?」
「はい、それじゃあ左足の
先生はシップを出しながらそう言った。千鶴は言われた通りに左足を素足にした。
「わたしひざの消毒やるねー」
後ろでかいがいしく動き続けるミアに、先生は顔を向ける。
「ありがとー、けど、授業に戻って?」
「いいのいいの。どうせ見学だから」
「あら、
「ううん。わたし今日お月様だからー」
あけすけに言うミアに先生が低い声で笑う。
「それなら調子はどう? ふらふらしたりしてない?」
「それはだいじょうぶー、わたし始まる前のほうがしんどいタイプだし」
ここでもミアは隠そうともしない。
その言葉に、千鶴は少しだけ気持ちがわかった。生理が始まる数日前くらいから、体の調子がおかしくなるのだ。気分もイライラする。だが、始まってからはもっと大変だ。
初めての時は自分の体からこんなに濃い血がたくさん出て、死んでしまうのではないかと思った。それにずっとお腹が痛い。冷えると特に辛い。そのお腹の痛さで体育の授業を休んでいるのかと思いきや、それより前の方が辛いというのだから、きっとよほど辛いのだろう。
「え、そんななのに私の世話してくれたの?」
ミアはにやっと笑った。
「ちーちゃんと私の仲じゃーん」
千鶴は目を丸くした。誰かにこんなにフレンドリーなあつかいを受けたのは、両親以外では本当に久々だった。
「う、うん」
とっさのことにうまい返しもできず、戸惑ってとりあえずうなずいた。
「あらー仲良しさんなのねー。それじゃあ右ひざの消毒、おねがいしようかな。……カイロとかつかってる?」
「うん、貼るヤツつけてきた」
そういって、ミアはぺろっと上着の前をめくって見せる。これに先生は吹き出すように笑った。先生とミアは本当に親しそうだった。
千鶴もつられて、少し笑った。だが、ふと目をよそにやって、そのおかしさが失せるのを感じた。
そこに見えたものに、自分達3人以外の誰かを感じて、思わず息をひそめた。
カーテンで仕切られた奥の半室だ。そこの奥の
保健室登校の子のものだ。
向こうの半室の、
千鶴はなんともいえない気持ちになった。
もしも『あの子達』とまた同じクラスだったら――千鶴もそちら側の半室にいたかもしれない。そう思うと、なんともいえないつらさが胸にわいた。
今後『あの子達』から完全に
受験には
――保健室の先生が、そっと千鶴の靴下を
「……どう、動かしてみて、痛いところある?」
「いいえ、大丈夫です――はい、それも、そっちも普通です」
「そっか、痛みはなしか、大丈夫だと思うけど、念のためシップ貼っておくね。
「はい……あの、先生」
「ん?」
「私は、その、運がいいほうなのかな……」
入ってきた時とは一転した、重苦しい表情の千鶴。それを見て、なにかに気付いたように後ろを振り返った。
千鶴が気付いたのと同じランドセルをちらっと見て、それから竹下先生はあはーと笑って見せた。
「新しいクラスはどう? イヤだった子、いる?」
先生は、千鶴の4年生の頃のことを知っている。
なにしろいじめの相談を最初にした相手が、この保健室の竹下先生だ。そして竹下先生に同席してもらって、一緒にスクールカウンセラーに『あの子達に何をされたのか』を話をしたのだ。
「いません、みんないい子しか。ミアちゃんとか」
「聞いたー? ミアちゃん、いいこだってさー」
「うん、そうよー。わたしとちーちゃんはマブダチだもん」
ミアははずむような声で言った。これに竹下先生は低い声でうふふと笑う。
「それならいいじゃない。もう忘れちゃいなさいよ」
先生は千鶴の足首にひやりとしたシップを張りながら、軽い調子でそう言ってくれた。
温かい手で、冷え性気味の千鶴の足を温めるようにさすってくれる。
「――まあ、そう言って、かんたんに忘れられたら、つらい気持ちになんてならないわよね」
先生の言葉に、千鶴はまじまじとうなずいた。
「はい、ほんとにそうです」
「……まあ、しばらく様子見て、つらくなったらまた来なさい。わたしもカウンセラーの先生も話聞いてあげるから。絶対ガマンしちゃだめよ」
その言葉に、千鶴はようやく表情を
「はい、しばらく様子を見ます」
「足もね」
「他に何かあるんですか」
千鶴がすっとぼけるように言うと、先生はくしゃっと顔をしわだらけにして笑んだ。
「その調子よ。それでどうする。授業
「はい、戻れます」
「そう。それじゃあがんばって」
千鶴も同じようにくしゃっと笑んで見せて、うなずいた。
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