しーちゃんのスカート

たけすみ

第1話 8秒の壁と心の傷 その1

 出席番号4番の転入生がゴールラインを抜けてなお、男子らはおうおうとうなっていた。

 5年生最初の体育の時間は体力測定、その50メートル走でのことだ。

 一緒に走った子は体一つおくれてゴールラインをまたいだ。出席番号5番大沢ミナミ、彼女は去年6月の運動会の通年リレーの選手だった。

「臼井翔羽ショウくん、7びょー88」

「大沢未海ミナミさん、8秒17」

 本日見学の斉藤ミアのまったりした声と、5年3組担任岩井セイジのしゃがれ声がそれぞれタイムを読み上げる。

 それを聞いて、男子たちの声はすげえすげえという歓声かんせいに変わった。

 ――季節はまだ、もう散り終えるという桜の花びらが木の下に積もっているようなころである。運動着の半ズボンではすこし寒く、シャツの中にひざをいれてすわっている子もいる。

 次の走者がスタートラインに立つ。

 緑の芝生しばふのふちとふちの間の太い白線のように砂地の競技路トラックがある。それをはさんでゴールラインの両側にみえるストップウォッチを手にした二人は、実に対照的だった。

 斉藤ミアは色白で発育がよく、たてにも横にもふっくらと大きい。岩井先生は、それより少し背が高い程度ていどで、大人の男の人としてはかなり小柄こがらで、色黒でやせている。髪も日当りで銀色に見えそうなほど白髪が目立つ。

 男子たちの興奮こうふんは無理もなかった。この学年初の7秒台を記録したのは、始業式から今日まで大人しい子としてふるまい続けていた転入生だったのだ。

 立ち上がる子まで出たのを見て、先生はビビっとホイッスルを鳴らした。

「順番じゃない人はきちんと座っていなさい!」

 これにおずおずと男子たちは列にもどり、しゃがみなおした。

「二人ともいいフォームだったな」

 先生は名簿めいぼにタイムを書きながら、ぽろっとつぶやくように二人をたたえた。

 大沢さんは大きく息をしながら、臼井くんにおどろきのまなざしを向けている。彼はまゆげをかくすような長い前髪をゆらしてうなずくような返事をして、走り終えた人の列に回った。

 大げさにさわぐ男子らとは別に、女子の間にもさざ波のような高まりがうまれていた。

 それこそ、ほとんどの女子が、臼井ショウにつつあった。

 もっともそれは今に始まったことではない。始業式の朝、黒板の前に立って名前を言った時から、見目の良い臼井に、女子の何人かは心うばわれていた。

 色白ですらりとした手足、目は大きくつぶらな二重で、はにかむ顔ははなやかだった。誰かが話しかけても、どこか小動物的なしぐさが常にあり、それも愛らしく見えた。

 それがここにきて予想もつかない足の速さである。意外にもほどがあるというものだった。

「いやあ出てしまいましたなあ」

「どこのシューズ使ってるんだろう」

「大丈夫、俺ならこえるから」

「またまたー」

「芝生なら、はだしならワンチャン」

 男子たちはそんなやり取りをいつまでも続けている。女子はこれにくらべていくらか静かだが、自然とほころぶ口元をかくしたり、うっとりと見ていたりしている子もいる。

 それに対して、まるで別の世界にいるかのように、一人真っ青な顔をした子がいた。

 ――次の走者、スタートラインの片側、出席番号6番の女子、亀山千鶴チヅルである。

 彼女に目の前をかけていった二人を見ているゆとりなどなかった。

 今の彼女の頭と心につまっているのは、おそろしさと不安、そして気後れである。

(転んだら、笑われる、悪目立ちする、変な風に見られる……!)

 頭の中はなにかに追いつめられるような、そうでなければ悪いのろいでもあびているような感覚が止まらない。

 手のひらの冷や汗をふくこともできないままにぎりしめて、50メートル先の先生の

「用意」

 という声にかろうじて、かまえだけは作る。

 まもなく気持ちが体にあらわれはじめた。体育着のえんじ色の半ズボンのすそのあたりが寒気のようにそわそわとする。

 桜は先日の雨ですっかり地面に落ちている。実際、まだ少しはだ寒い。


 ――千鶴は今朝から、自分でも気付かないほどかすかにふるえていた。不安からだった。

 それでも、4年生のころに比べたらはるかによい気分だった。

 なにしろこの5年3組に『あの子達』はいない。千鶴をいじめた『あの子達』だ。

 いるのは去年の保健委員会でも一緒で、保育園ではずっと同じ組だった斉藤ミアちゃんなど、いずれも千鶴にとって無害な子ばかりだった。

 『あの子達』について、千鶴本人から誰かに話したのは、カウンセラーの先生が最初であり、知るひとはそう多くない。

 なによりいじめられたことは、そう何度も話したいことではなかった。千鶴にとって『あの子達』にされたことのひとつひとつを思い出すことでさえ、とても苦しい体験だったからだ。


 ――千鶴は4年生の時『あの子達』からいじめを受けていた。

 それは去年のうちに学校側も知るところになった。千鶴の出席日数がこのままいけば進級できないというところまでったのがきっかけだった。クラスがえによりいじめっ子グループである『あの子達』は分断された。

 そして千鶴自身もかくまわれるように違うクラスになることができた。

 それでも、トイレだけは今でも職員室前の男女共用トイレを使っている。休み時間に『あの子達』と出くわさないようにし続けるためだ。

 そのトイレは職員用トイレと車イス用トイレの間にあった。他のトイレより個室の数が少ない、校内で一か所だけの男女共用のトイレだ。

 そのトイレは男の子の間では『オカマトイレ』などと呼ばれている。

 職員室前という場所は、4年生や5年生の教室からかなりはなれている。そのせいもあって、ほかの同級生はほとんど誰も使わない。

 特にオカマトイレなどと呼ばれているくらいだから、他の学年の生徒の利用も少ないようだった。そのせいか、いわゆるおしっこくささもほとんどせず、換気扇かんきせんが止まっているのもいつものことだった。だからいつも、とても静かだった。

 4年生の時は、このトイレに来る時はかならずポケットに入れるものがあった。生理用ナプキン、消しゴム、手の中におさまる長さにお父さんに切りつめてもらった鉛筆えんぴつと、鉛筆キャップをねた小さな鉛筆けずりだ。

 ――どれも4年生の頃、教室の机をはなれている間に何度となくかくされたものだ。

 もちろん、ナプキンくらいは保健室に行けば保健室の先生にわけてもらえる。けれど他のものはとてもいやなタイミングで隠された。

 例えば、小テストがあるとわかっているときは、必ず消しゴムがなくなっていた。

 漢字ドリルをまるごとトイレのそうじ用具入れの上にかくされて、2週間近く宿題を出せなかったこともある。

 けれど、とくに千鶴が傷つけられたのは、目に見えず、証拠しょうこの残りにくいやり方だった。

 たとえば音楽の時間だ。『あの子達』はわざと千鶴の近くに座った。

 一人で歌うテストでもリコーダーでも、『あの子達』は、千鶴の番になると

「うっわ、オンチの番だ」とか

「耳ふさごう、オンチがうつる」

「オンチじゃなくてウンチじゃない」

「いえてるー」

 などと、千鶴のまわりにだけ聞こえるようにささやいて、笑い合っていた。

 そうしていざ千鶴の番になると急に筆箱を落としたりして大きな音を出す。とたんに千鶴はのどがきゅっとしめ付けられたような感覚がして、まるで呪いにでもかかったように、思った通りの声や音が出なくなるのだ。

 これは、音楽の先生もすぐに気づいてくれたようだった。

 だからそういうことがあるたびに「そこ、うるさいよ!」ときちんと注意してくれた。それから

「……おしかったね、あとでもう一度呼ぶから、それまで練習していてください」

 と、千鶴にはやさしく、そして少しもうしわけなさそうにいってくれた。

 それでも、テストはテストだった。あの子達が近くにいる授業中では合格できず、毎度、次の授業の直前まで居残りでテストになった。

 そして居残りになると、必ず教室で『あの子達』は千鶴の持ち物に何かをした。

 たとえば、千鶴は5年生になってランドセルをやめた。『あの子達』にやられた傷が増えすぎて、見るのも痛々しくなってしまったためだ。

 ――そんな日々から、クラスがえで開放された。そのはずだった。


 しかし、この5年3組でまた笑い者になれば、また別の子にいじめられるかもしれない。

 そのあせりが、最初の体育の今日、小さなふるえとなって彼女の体に出てきた。

 ――岩井先生の、スタートの合図の笛がなる。

 千鶴の足は、さっそく力みすぎた。じゃりっと音を立ててふみ切った右足がすべる。

(ああ、ダメ! 笑われる。いじられる)

 後ろ順番待ちの列から「あっ」と声がする。スタートの失敗に、後ろの誰かが気付いたのだ。

 ふんばろうともう片方の足を出すも、こちらもバランスをとりきれずによろける。

 ゴールまでまっすぐに引かれた白線をななめにまたぎ、となりの子の背後をよろよろと追うように数歩進んだ。そしてまるで生まれたての子馬が前のめりに転ぶように、ゆっくりとうつ伏せに転んだ。

 ……後ろの列の声は、いまだに転入生の話題一色だった。

 むろん目の前で転んだ子をかわいそうと同情する思う目はあっても、馬鹿にする子などいるはずもない。

 しかし、混乱した千鶴の耳にそんなものを聞き分ける余裕はなかった。

 すでに頭の中にいっぱいにひろがった不安は、千鶴を打ちのめし、すべてを馬鹿にして笑われている声のように聞かせた。

 それによって心が折れてしまって、彼女はすぐには立ち上がれなかった。

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