愛人の傘

@natsuto_aki

愛人の傘



愛人の傘 



 そういえば、七月はもう夏だ。あまりに梅雨が長引いたせいで、頭が重くて何も考えていなかった。

 そういう時に、町田は死んだ。

「町田と仲よかったよね?」


 町田、バイクにぶつかって死んじゃったって。


 まーちゃんから五年ぶりのラインで、町田が死んだことを知り、町田のことを忘れていたことも知った。土曜日の昼間だった。梅雨が続いていて、久しぶりに晴れて、午前中に行ったスーパーは買い物客で賑わっていた。エアコンの音が急に大きくなった気がする。もう一度外に出て、コンビニでいつもは買わない瓶のウイスキーを買った。


 町田は、男とも女とも言い難い、不思議なひとだった。町田自身も、あまりそういうことに頓着がなった。町田はクラスでは浮いていて、私もクラスで浮いていた。体育の授業の時、ペアで組まされた時、町田と初めて話した。

「体硬いの、ぽいね」

 前屈をしてもうんともすんとも前に行かない私に、町田はアホそうに言った。交代してみるとアホみたいに体が柔らかかった。背中を押すと、ちょっとの力でぺたん、と地面に張り付いて、ジャージに人工芝のチップがへばりついていた。町田は立ち上がり、それを両手で払い除ける。町田のことで一番思い出せるのは、その時の首筋の白さだった。


 町田、バイクにぶつかって死んじゃったって。

 ちょうどこの頃、一度だけ町田と一緒に帰った。雨の予報だったのに傘を持っていなかった。昇降口で立ち往生していると、町田が後ろからやってきた。

「置き傘ないの?」

「うん」

「意外」

 町田が傘立てから引っこ抜いたのは、大きな黒い傘だった。高校生が持つには似つかわない、黒くてゴツい。

「いれて」

 私がいうと、町田はちょっと嫌そうな顔をした。

「いれてよ、駅まで」

 開いた傘の左側に入ってしまえば、町田はもう断れない。そういうひとではないからだ。

「雨やば、てか傘でか」

 雨は酷くて、それこそお互いの声もよく聞こえないくらいだった。

「でかいよね」

「町田の?」

「ううん」

 雨のせいでいつもより歩くのがゆっくりだった。既にローファーはグショグショになっていて、明日くさくならないと良いなぁ、と思った。

「愛人の」

 私の足元と町田の足元。同い年なのに、町田の足は私のそれよりずいぶん大きい。

「愛人の傘」

 そうなんだ、ととりあえず答えた。本当は大騒ぎして聞きたかった。まじ? とか 嘘、とか。全然ノリノリで聞こうか迷った。町田の言い方が妙に本当っぽかったのだ。

「でもこないだ老衰したんだ」

 妙に本当っぽかった。町田は同じクラスの、体育のペアの、同じ高校生の、同じ傘に入って、ここにいるのに、そういうお話の中の出来事にいても、そうなんだろう、と思ってしまうところがある。

「そうなんだ」

 結局、私に言えたのはそれだけだった。それから町田は何も喋らなくなり、私も何も言わなかった。


 私と町田は反対方向の電車だった。ホーム行きのエスカレターをあがっている時、前を行く町田の首は細長くて、なんとなく、そこに触ってみた。

「うわっ」

 町田はアホそうにすっとんきょうな声をあげた。

「なにすんの」

 傘に入れるのは嫌そうだったくせに、今はあまり嫌そうではなくて、町田の老衰した愛人も、こういうことをしてたのかもしれない。

「どんまい」

 人に置いていかれるって、どういう気持ちなんだろう。

「町田、どんまい」

 町田の乗る電車がすぐホームに来ていた。町田はグショグショのローファーのまま、気まずそうに走って行った。

 なんとなく寂しくて、町田があの傘を持っている理由が、少しわかる気がした。


 町田、バイクにぶつかって死んじゃったって。

 学年が上がったクラス替えて、私たちは別のクラスになった。町田は勉強ができなかったけど、私は普通にできたから、当たり前だ。時々顔を見ることもあったけれど、なんとなく目を合わせるくらいで、卒業してからは私と町田は会うことはなかった。

 だから、もう、ほとんど私と町田は他人だった。私にできることなどきっとなかった。町田と私はそもそも、友だちという程ではなかったと思うから。

 どんまい、と言った時のことを、私はちゃんと覚えている。でも、もっというべきことや話すべきこともあったのかもしれない。ともすれば、ちゃんと友だちになれていたのかもしれない。私は町田のことが嫌いではなかったし、町田も多分。でも、私たちは友だちではなかった。

 電車に乗って下北沢まできた。ずっと行きたかったカフェの飲みたかったコーヒーがあった。なんとなく、今日、飲みたかった。

 やはり、雨上がりだからだろうか。人通りがなんとなく、多いような気もする。カフェに入って、写真を撮って、少しだけ仕事をして、外に目をやると、窓際の椅子に黒い傘が引っかかっていた。はっと目を凝らすと、なんてことない、大きく頑丈な日傘だった。所々レースが縁取られていて、持ち手は木製な、お洒落な傘だ。隣の席の女性の持ち物だろう。線が細く、髪が長い、柔らかな容貌の女性で、彼女が持っていそうな傘だ。町田のあの黒くて無骨な傘とは似ても似つかない。

 入り口から、20代後半くらいだろうか、この街によく馴染んだ、ゆったりとしたシルエットの服を着た、手ぶらの男性が入ってくる。女性はゆっくり顔をあげて、嬉しそうに笑った。

 あぁ。

 なんてことない。

 よくある待ち合わせの、よくある光景だ。カフェで仕事をすることもよくあることなのに、今日、もう、町田はいない。


 コーヒーを一息で飲みきって、足早にカフェを出た。泣きはしない。どうもしない。まだ仕事は残っているし、普通に家に帰るし、町田が死ぬ前と町田が死んだ後で、日常は変わらない。

 雨上がりだからだろうか、西日が眩しくて、目に刺さる。

 だから少しだけ、ほんの少しだけ、あの女性のような黒くて大きい日傘が欲しいと思った。

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