勇者の国と魔王の国(前編)


 皆様は『キャスティング・ボート』というものをご存知だろうか。


 その語源は議会や委員会などの採決において、可否同数の場合は長の職権で決するというものである。


 基本的に長は議事の進行を務めるものであり、公平を期すために表決権を有しない。つまり初期段階においては、勝敗には直接的な影響を及ぼさないのだが、同点になると一転して裁決権が与えられるのである。


 これが転じて、拮抗する二大勢力に加わる第三の勢力、少数ながらも勝敗を左右する存在に対して、キャスティング・ボートを握っていると表現される。


 日本におけるその最たる例は、1993年(平成5年)の第40回衆議院議員総選挙における『細川内閣』の誕生であろう。


 第79代内閣総理大臣に任命された細川護熙ほそかわもりひろ衆院議員(当時)は、日本新党の党首ではあったが、獲得議席は35議席、同じく連立与党を構成する日本社会党70議席、新生党55議席、公明党51議席に次ぐ4番目であった。


 しかし、細川氏は戦国大名の末裔たる卓越した立ち回りにより、政権交代のキャスティング・ボートを握り、自身らより議席の多かった3政党に先んじて内閣総理大臣となったのである。


 なお、当時の自民党はそれを遥かに上回る223議席であった。35議席の党首が223議席に対して、実質的な勝利を収めたのである。


 これは平和な時代でありながら、日本史上稀に見る奇跡の大逆転劇といえるだろう。



 ………………………………



「これは兄様、よくぞお越しくださりました」


 名残惜しき大型連休が彼方へと過ぎ去り、肌をこするシャツに微かな汗ばみを感じ始めた日の放課後、僕『火遠理ほおり れい』は県立 瓊音ぬなと高校の生徒会室を訪れていた。


 そんな僕を迎えたのは、およそ公立には似つかわしくない華奢かしゃな会長席で美脚を組みながら、赤みがかった髪先を肩上で弄る一人の女子生徒であった。


 県内トップの偏差値と進学率を誇る高校らしく、優雅さと清楚さを健全交際の約定のもと同棲させたような制服ではあったが、今では窮屈な生活の反動からか大胆に緩められており、第二次成長期には何ら問題が生じていないことを言外に主張していた。


「あー、寝葉ねるははいる?」


 見た目ルックスとは全体を包括して一物いちぶつなのか、それとも相貌そうぼうと体型を切り離別カウントして二物にぶつと成すのか、天はどちらの意で与えたのかと悩ませる、そんな整った顔立ちで妖艶な笑みを浮かべる彼女を無視して、僕は自分を呼び出した親友の名を告げた。


 『聖約であて 寝葉ねるは』は近所に住むひとつ歳上の幼馴染だ。幼少の頃より文武両道、質実剛健で勇名を馳せており、瓊音ぬなと高校の生徒会長も務めている。


 残念ながら同じ高校には入学できなかったが、僕の通う市立 葦原あしはら高校とは目と鼻の先であり、教育課程カリキュラムや部活動の共有化など、学校同士の交流が活発に行われていた。


 それというのも、どうやら少子化の波を受けて、公立高校に統廃合の動きがあるようで、これもまたその布石と言えるだろう。


 放課後に瓊音ぬなとの生徒会室に来るようにと、スマートフォンにメールがあったのは午後の授業が始まる直前であった。


 宛先は寝葉からのものであったが、いざ来てみれば本人は見当たらず、代わりにその妹が鎮座していたという訳である。


 彼女の名前は『聖約であて 沙那さな』、親友の妹であって決して僕の妹ではない。しかし、なぜか僕のことを実の兄以上に兄として慕うため、周囲を混乱させることもしばしばであった。


 兄と同じ瓊音ぬなと高校に通ってはいるが、寝葉を秀才と評するのであれば、彼女は控えめに言っても天才であった。


 何もテストの点が良いとか、その程度のことで天才扱いをしている訳ではない。彼女はその思考からして常人とは一線も二線も画しているのだ。


 例えば、高校までの教育においては、便宜的な手段として、実際の学問とは異なる結果を教えることはままある。


 特に小学校では、児童の純粋な疑問に対して応えられない教師は多い。限られた時間の中で多くの子どもを抱える身としては、教えたこと以外は学んでほしくないというのも無理からぬことではある。


 そんな誰しもがどこかで割り切りながら過ごす日々を、彼女は決して妥協することなく、自家の支援を受けながら独力で学び続けた。


 今では大学どころか、最先端の研究レベルで物事を理解しており、加えて独自の仮説をも構築しているらしい。


 そんな彼女にとって、テストとは高校レベルにまで思考を落とす障害物競走であり、たまに凡ミスして首位を逃すこともあるそうだ。


 頭脳明晰、容姿端麗、おまけに家は県内有数の名家とあらば、兄妹揃って学内はおろか地区内でも知らぬ者はいない存在であった。


 その人気は凄まじいもので、男女問わずファンが多いが、特に女子には熱狂的な信者がおり、こんなところでなければ二人きりでは話せないほどだ。


 しかし、葦原の女神と讃えられる僕のもう一人の幼馴染とも、そして天はなぜ同じ時代に三人の天才を生んだのかと嘆かれる、僕の実の妹とも犬猿の仲である。


 よく三人揃えば文殊の知恵というが、文殊が三人揃えば天下三分の計となってしまうのかも知れない。


「まったく、兄様を待たせるとは…我が兄の不明を嘆くばかりよ」


 相変わらずの京言葉ともくるわ言葉とも付かぬ物言いに軽い目眩を覚えながらも、言に反して怒気の感じられぬ表情を見据えて、自分が謀られたのではないかと訝しんだが、敢えて口には出さないでおいた。


 そんな僕の内心を知ってか知らでか、彼女はにんまりと笑みを浮かべると、も唐突に思い付いたとばかりに、一冊のノートを差し出してきた。


「愚鈍な兄を待つ間の余興として、妾の作ったゲームでもいかがですかな」


 言われるがままにそれを受け取ると、表紙にある『勇者の国と魔王の国』というタイトルが目に入った。中を開くと、綺麗な文字が可愛らしいイラストとともに綴られており、どうやらゲームはゲームでもゲームブックのようである。


 今どき珍しいなと思いながらパラパラとページを捲るが、顔を赤くした彼女に取り上げられてしまった。何か怒らせてしまったのかと謝ると、どうやらそうではないらしく、恥ずかしそうに照れた様子で言葉を漏らした。


 「初めての事ゆえに、あまりその…ジロジロと見ないでほしいのじゃ」


 果たして、それでどう読めというのだろう。いや、きっとネタバレを避けたかったのだと自己完結すると、再び受け取ったノートの表紙を捲るのであった。

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