高天原特別区域


 皆様は『国家戦略特別区域』というものをご存知だろうか。


 如何いかにも軍隊調で重苦しい雰囲気をかもす言葉であるが、これは「国家戦略特区」とも言われ、れっきとした現代日本に存在する制度である。


 時の政府の成長戦略の一環として、地域振興と国際競争力向上を目的に、特定地域における一部の規制を緩和するという政策である。


 例えば、東京圏(東京都・神奈川県・成田市・千葉市)では、国際ビジネス・イノベーションの拠点として、新潟市では大規模農業の改革拠点として、また仙台市では女性活躍・社会起業のための改革拠点として、関連規制の緩和が進められている。


 なお、これらは本編とは一切関係はない。



 ………………………………



 日本のどこかに『高天原たかまがはら特別区域』というものがある…そんな噂を耳にしたのは、地元の市立 葦原あしはら高校に入学し、吹く風に熱気を感じ始めた夏の頃であった。


 そこは日本の一部でありながら政府による完全統治がされない地域、わば自治区のようなものであり、憲法や法令の適用が制限されるのだという。


 しかし、その存在は世間一般からは秘匿ひとく、タブー視されており、社会科の教科書にもマスコミの報道にも上がることはない。そして、それがどこにあるのかも定かではないという。


 そんな典型的な都市伝説とおぼしき存在に対して、当時はしたる興味も湧かなかったのだが、どこか浮世離れしたネーミングだけは記憶の片隅に居座り続けていたようで、やがて訪れた寒冬かんとうによって積み上げられ、ある日唐突に表層化した。


 僕、『火遠理ほおり れい』が彼女と出会ったのはそんな季節であった。世界中を襲った感染症の蔓延により、日本でも緊急事態宣言が発令され、高校は臨時休校、僕たちにも厳しい外出制限が課せられていた。


 そのような状況下で如何にして彼女と出会ったのか、疑問や疑念を抱かれてしまうかも知れないが、僕たちには決してやましいことなどはない。


 いや、そもそも前提条件に瑕疵かしがあったようだ。正確には出会ってなどいない。その存在を認知し、友誼ゆうぎを深めたと言った方が正確だろう。


 そう、既にこの世には物理的な近接を図らずとも、相手と面識を持つ手段が存在する。そうなると『出会う』ことの定義自体が変質しており、やはり出会っていると言っても良いかも知れない。


 少々、話が脱線したが、つまりはインターネットで知り合ったのだ。巣篭すごもり状態とも揶揄やゆされた僕たちに許されたのは、学校からの課題とネットくらいなものだった。


 動画配信サービスに大手掲示板、SNSを彷徨ほうこうする日々を繰り返していた僕は、偶々たまたま訪れたサイトで目にした投稿写真に、全身が震えるような衝撃を覚えた。


 それは自然風景をうつした写真であったが、山紫水明さんしすいめいを体現としたような清浄な美しさに、僕はそこが日本であるとにわかには信じることが出来なかった。


 しかも、何故かその写真は投稿直後に削除されてしまったらしく、僕のつたな語彙ごいが総動員された渾身のコメントには、ただエラー文のみが返ってくるだけであった。


 まさに鏡花水月きょうかすいげつ、存在自体を錯覚していたかのような出来事であったのだが、それが現実のものであることを僕のスマートフォンのキャッシュが証明してくれた。


 しばし迷った末、僕は思い切ってそのSNSサイトにメッセージを送った。その管理者が彼女、『翡翠ひすい 霧人みすと』であった。



 ………………………………



「まったく、あのときはどこのナンパ野郎かと思ったわよ」


 そう言って、モニターの向こうで彼女が笑う。きれい、美しい、可愛い、どんな表現でも合うし、それでいて満たせない。それは僕が彼女に恋をしているからなのか、それとも第三者視点においてもそうなのか、確かめる術はないし、その気もない。


 僕と彼女が出会って、いや友誼ゆうぎを深めてから二つほど季節は変わり、また夏になっていた。既に緊急事態宣言は解除され、代わりにやや緩やかな自粛が占めるようになり、外に出ようと思えば、それこそ会おうと思えば会える筈であった。


 しかし、それは叶わなかった。理由は彼女との関係性が一定以上に達していないから…という訳ではなく、いやそれもあるのかも知れないが、僕たちが知り合う切っ掛けとなったあの写真とも密接に関係していた。


 写真について問うメッセージに、最初は彼女もその存在を否定した。しかし、僕がキャッシュから取り出したデータを添付すると、観念したかのように自分が投稿したことを認めたのだった。


 元々は内輪向けにクローズにしたはずのものが、誤って一般に公開されてしまったらしい。あまりにも有り触れたSNSの失敗談ではあるが、無名の個人のサイトであり、しかも直後に気付いて操作したため、誰の目にも触れていないと思っていたそうだ。そう、間の良い、いや悪いのか、一人の僕を除いては…。


 写真に強い興味を持つ僕に、彼女は危機感と不信感を抱いたようだったが、何度か繰り返されたメッセージの末、それが純然たる美的感動であることを理解してくれたのか、次第にその態度は軟化されていった。


 あの写真は、くだんの『高天原たかまがはら特別区域』で撮影されたものらしい。そして何故、彼女がその写真を持っていたのかというと、他ならぬ彼女自身がそこの住人であるからだそうだ。


 あまりにも荒唐無稽こうとうむけいな話に、当初は彼女に揶揄からかわれているのかといぶかしんだが、それはそれで暇潰しになるかと思い、しばらく話に付き合ってみることにした。


 いわく、そこが日本のどこにあるのか彼女にも分からないそうだ。実際に住んでいる筈なのに怪しい事この上ないが、本人もそこから出たことがないため、他の日本の場所を知らない、故にその位置関係を知る手段がないのだと言う。


 彼女たちはそこで生まれ育ち、教育を受け、就職し、結婚し、世代を繰り返しているそうだ。生活は基本的には自給自足だが、あくまで国籍は日本に属しているため、域内でまかなえない生活必需品は日本政府から支給されるという。


 インターネットなどの社会インフラも一部共通しており、みだりに正体を明かさなければ制限なく使えるようだ。まあ、こうして僕に明かしていることが、それに該当するか否かは深くは考えないでおくことにしよう。


 彼女にも何故その特別区域が存在するのかは分からないそうだ。区域の地理的要素は重要機密のため、どの程度の規模があるのかも不明であり、またGPSも区域内に限定して表示されているらしい。ただ、社会構造から勘案して、最低でも政令指定都市くらいの規模はあると思われた。


 そして驚くべきことに、その区域では感染症の蔓延は起こってはいなかったそうだ。もっとも、話を聞く限りでは極めて閉鎖的な環境であるため、病原体の持ち込みが阻止されていたのだろう。


 彼女もまたその環境に閉塞感を抱いていたようだ。皮肉にも感染症の有無に関わらず、僕たちは同様の境遇に置かされており、互いを通じて新しい世界を知りたいという強い欲求に突き動かされていた。


 そして、文字だけのメッセージから次第にビデオ通話へと移行し、現在に至るという訳である。自分でも随分と親密に話が出来るようになっていると思う。しかし、どうしても会うことだけは出来ないまま、ただ年月だけが過ぎていった。



 ………………………………



 高校卒業を控えた年、僕は十八となり成人の日を迎えた。そして、秘密にされていたいくつかの社会的事実が開示された。


 かつて、世界を震撼とさせる感染症のパンデミックがあったそうだ。それは僕が入学してから体験したものの比ではなく、本当に世界が危機的状況に陥ってしまったらしい。


 しかし、程なくしてワクチンが開発され、当初は供給面での混乱もあったようだが、次第に世界中に浸透していったという。


 とはいえ、ワクチンの安全性は決して100%保証されたものではなかった。何もこのワクチンに限ったことではないが、どうしても接種者の体質や病状、体調などの影響により、身体に悪影響を及ぼし、最悪命を失ってしまう事例が少数ながらも報告された。


 そのような事情から、日本政府もワクチンの強制接種には及び腰となり、各個人の判断に委ねられることとなった。


 ところで、ワクチンとは病原体を弱性化、或いは不活化、無毒化させたものを接種し、体内に抗体を作ることで発病や重症化を防ぐものである。つまり、感染そのものを防ぐものではない。言い換えれば、感染しても特段問題がないようにするためのものである。


 感染症に伴う規制や自粛は経済を麻痺させ、深刻な不況と失業をもたらす結果となった。そこに到来したワクチンの普及により、多くの人々が元の生活への回帰を強く望んだことは当然のことであろう。


 しかし、それはワクチン接種者と非接種者の間に、決して交わらぬ、深遠なるへだたりを生み出した。そして、幾度かの議論と衝突の末に生まれたのが、非接種者向けの保護地区『高天原たかまがはら特別区域』だった。


 当初ははなはだしき人権侵害、旧世紀のまわしき隔離政策の再来だと糾弾きゅうだんされたようだが、やがては合理的かつ人道的な解決手段として、消極的に受け入れられていった。


 なお、特別区域への移住もまた、あくまで個人の判断に委ねられた。そこでもまた様々な葛藤、混乱が生じたようだが、現在は特別区域外でワクチン接種を受けてない者はいない、という一つの事実を残すのみである。


 そして、この政策が決して差別の温床とならぬように、区域の場所は厳重に隠され、存在自体も成人になるまでは秘密とされることになった。


 もっとも、人の口に戸は立てられないし、世界的な問題でもあったことから早くに見聞きした者もいただろう。彼女がそうであったのかは分からないが、今となっては同じことだ。


 当然のことながら、区域を跨いでの移動は特別な許可を受けた者を除いて禁止されており、違反者には厳罰が課せられる。


 それというのも、この病原体はまだ完全には死滅しておらず、むしろ人類と共生関係にあるという。ワクチンを接種すれば重篤化することは稀であるため、ほとんどが生活の面で障害となることはないが、それはあくまでこちら側での話である。


 やはり、過去にも特別区域に興味を持ち、極秘裏に情報を得て潜入を試みた者がいたらしい。結果的に内部の警察組織に見つかり、本人と支援したジャーナリストが逮捕されたが、その過程で数十人の区域住民に感染し、あわや大惨事となるところだったそうだ。


 感染住民の症状の経過は明らかにはされていないが、更なる感染を防ぐためにも犯人が区域外に引き渡されたことにより、住民の不満と怒りは最高潮へと達した。


 しかし、一方で区域外に出ることの危険性も再認識され、その抗議活動は内部に留まったことから自然と沈静化し、以後、区域に関する情報統制と越境警備が強化されたのだという。



 ………………………………



 僕は彼女を愛しているのだろう。彼女もきっと僕を愛してくれているのだろう。


 だけど僕たちが会うことはない。決してその道が交わることはない。


 いつかどちらかが現実を受け止め、別れのときが来るのだろうか。


 それでも僕はここにいる。そして彼女はそこにいる。


 同じ世界の同じ時代を過ごす、同じ人間として存在している。


 だから僕は願う。だから彼女は夢を見る。


 いつか、僕が昇り、彼女が降る、そんな日が来ることを……。

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