世界が生まれた5分前

アクリル板W

世界が生まれた5分前


 皆様は『世界5分前仮説』というものをご存知だろうか。


 これはイギリスの哲学者、論理学者であるバートランド・ラッセルが提唱したもので、世界が生まれたのは5分前であり、それ以前の記憶は作られたものであるという仮説である。


 この世のあらゆる常識や歴史を否定するこの仮説は、しかして明確に反証することは叶わず、懐疑主義的な思考実験として、今もなお多くの識者を悩ませ続けているのである。


………………………………


 さて、そんな小難しい話は脇においといて、今彼は走っていた。


 彼の名前は『火遠理ほおり れい』、この物語の舞台となる小墾田市おはりだしの高校に通う男子生徒である。


 いや、正確には本日から通い始めることになる転校生である。もう梅雨が明け、夏休みを間近に控えた頃なのだが、この時期となってしまったのには、ある理由があった。


 本来は新学年となる4月に合わせて転入する筈であった。しかし、直前に交通事故に遭ってしまい、昨日ようやく退院し、本日から登校と相成ったのである。


 そして、彼は今走っている。


 休み明けということもあり、両親からは自動車で送ることを提案されたのだが、リハビリも兼ねて自分の足で歩くと固辞していた。


 しかし、久方ぶりに歩く外の世界、天空から燦々さんさんと放たれる恒星の輝きは、思いの外、身体に負担を与えてしまうものらしく、途中で小休止を挟んだ結果、始業開始まで後5分となってしまったのである。


 それでも、当初は急ぐつもりなど毛頭なかった。自分の身体のことは自分が誰よりも理解しているし、今更遅刻を気にするような身分でもないからだ。


 堂々と悠然に、何一つ恥じることなく通学路を闊歩かっぽしていた彼が、しかして今、全力で疾走しているのは、なぜだろうか。


………………………………


 彼の後方には、同じく全身全霊で走り続ける、一人の少女の姿があった。


 彼女の名前は『翡翠ひすい 霧人みすと』、彼と同じく本日から登校を始めた転校生である。


 本来は4月に転入する予定だったことも、交通事故に遭って昨日退院したことも彼と同じである。


 唯一の違いがあるとすれば、彼女が追い掛けて、彼が追い掛けられていることくらいだろうか。


 「ま、待ちなさいよー!」


 「お前には感謝しているんだ! だから、お願いだから成仏してくれ!」


 彼が妙なことを口走っている。それはこっちのセリフなのにと彼女は独りちた。


………………………………


 まだ今よりも風が涼しく、陽光が優しい春分の頃、ある交通事故が起こった。


 小墾田市おはりだしの繁華街の歩道に一台の乗用車が乗り上げた。そして、運悪くそこには二人の高校生が歩いていた。


 原因はドライバーの居眠り運転とも、アクセルとブレーキの踏み間違えとも言われており、未だ法廷での決着を待つ状態ではあるが、ただ一つだけ確かなことがあった。


 それは、事故により一人の尊き命が失われてしまったということだ。


 あのとき、彼女が自分を突き飛ばさなかったら、それは二人になっていたことだろう。自身の命をかえりみず、懸命に手を伸ばして自分を救ってくれた彼女には、どんなに感謝しても足りることはない。


 顔も名前も声すらも知らなかった彼女のことを、新聞に穴が開くほど読み返し、彼は脳裏に焼き付けた。あのときの不甲斐ない自分を恥じ、もし同じようなことがまた起こったときには、今度こそ救える存在になるのだと。


 しかし、人間とは薄情なものだ。そんな命の恩人でも、いざこうして目の前に現れると恐怖の方が勝ってしまう。


 彼は怪談、それも幽霊が大の苦手だった。普段はそんなものは存在しないと息巻いてはいても、こうもはっきりと実物を見てしまっては、気が動転するのもやむを得ないことだろう。


 「お前はもう死んでいるんだー!」


 「ちょっと、それはあんたの方でしょ!」


………………………………


 あのとき、迫り来る乗用車を前に、身動き一つ取れなかった自分。そんな自分を動かしたのは、横から伸びた彼の腕だった。


 自分は気の強い方だと思う。前の学校の友人にもそう茶化されたし、もっとはっきりときつい性格だと言われたこともあった。

 

 それなのに、あのときは何も出来なかった。ただ救われただけの自分を嫌悪し、身代わりとなってしまった彼を想って、病院のベッドで枕を濡らす日々が続いた。


 そんな心も現金なもので、身体の癒えとともに少しずつ前向きになっていた。後ろを振り返ってばかりはいられない、今はもういない彼のためにも、恥ずかしくない生き方をしなくてはいけない。そして、もし同じようなことが起こったときには、今度こそ救う側になるのだと。


 そう決意して登校を始めた日、目の前には彼の姿があった。不思議と恐怖心はなかった。あるとすれば驚きと、そして彼に感謝の言葉を伝えたいという想いだけであった。


 しかし、彼は逃げ出してしまう。おまけにこちらを幽霊扱いする始末だ。思わず、それはあんただろと叫んでしまい、一瞬だけ罪悪感にさいなまれたが、とにかく後を追いかけた。


 やがて、彼は高校の校舎へと入っていった。そこは今日から自分が通う予定のところであった。ひょっとすると、彼もまたそうだったのかも知れない。


 彼は高校生活に未練があるのだろうか。それもそうだ、もし自分が同じ立場だったら、やはり同じことをしていたのかも知れない。


 そして、階段を駆け上がり、ちょうど在籍する予定のクラスの前へとやって来たとき、中から響く担任の先生の声に合わせるように、彼は扉を開いた。


 「あー、今日から転校生が来る予定なんだがな。確か名前は……」


 「火遠理ほおり れいです!」「翡翠ひすい 霧人みすとです!」


 教室に入る彼の手を掴みながら、二人同時に叫んだ。そして、世界は反転した。


………………………………


 気が付くと、目の前には真っ白な空間が広がっていた。前後左右上下ともに全て白に塗り潰され、何もない空間に二人は立っていた。いや、地面も感じられないのだから、浮かんでいると表現した方が正しいのかも知れない。


 「「あ、あの……」」


 二人は顔を見合わせると同時に声を発した。どうやら出鼻を挫かれてしまったようで、共に続く言葉が消沈してしまう。お互いに言いたいことは山ほどあった。感謝、謝罪、そして何故という想いが、あの日から出たり消えたりを繰り返している。


 しかし、いざこうして向き合うとなかなか切り出せない。しばし、二人は無言で互いの出方を伺うことしか出来なかった。


 そんないつ終わるとも知れぬ千日手せんにちてを破ったのは、真っ白な空間から響いた不思議な声であった。


 『だから言ったじゃないですか、統合なんてやめましょうって』


 『どちらか一方を選べなど、斯様かように残酷な真似は儂には出来ぬ』


 『それで両方とも消えてしまっては意味がないでしょう?』


 辺りを見回しても声の主は認められなかった。しかし、それが二なる人物、或いは神物じんぶつであることが想像できた。


 『残念じゃが、おヌシらの世界はもうない』


 『ちょっと、ストレート過ぎませんかね』


 『ええい、こんなときに遠回しに言っても仕方なかろう!』


 何やら声が喧嘩をしている。しかし、事態がとんでもない展開、それこそ幽霊の一人や二人では済まないことは明らかであった。それとも夢でも見ているのだろうか。


 『平行世界が数的限界キャパシティを超えてしまったため、どちらかを消す必要があったのですが…、こちらのバカ様が統合しようと言い出しやがりました』


 『いや、ほとんど変わらぬ世界だから問題ないと思ったのじゃ』


 『しかし、いざ蓋を開けてみたら、共存し得ない者同士が衝突して木っ端微塵となってしまいましたとさ』


 二人はその言葉に目を見張った。ひょっとすると、それは自分たちのことではないだろうか。確かにあのとき、クラスに入った二人の手が触れ合ったとき、世界はこのように変化してしまったのだ。


 『あなたたちは互いの世界で、互いを犠牲にして生き残ったのです。彼の世界では彼女が犠牲となり、彼女の世界では彼が犠牲となりました』


 『正直、儂は感動した。見ず知らずの者を命懸けで救い、分岐させた世界であったとはな』


 『まあ、そうやって増えるからすぐに数的限界キャパシティを超えてしまうんですけどね』


 二人は互いに見つめ合い、そして朧気ながらに理解した。荒唐無稽な話ではあったが、不思議とすんなり理解している自分たちがいた。異なる世界において、自分は相手を救うことが出来たのだと、言い知れぬ安堵感に満たされていた。


 『ちょっと、なに満足そうにしてるんですか。本題はここからですよ。これからあなた達にはある選択をして貰います』


 『うむ、いずれかの世界を5分前に復元してやるから好きな方を選ぶのじゃ』


 『あの、もう少し言い方ってありません?』


 それはつまり、こういうことなのだ。どちらかが救われ、どちらかが犠牲となった世界…すなわち、どちらか生きる方を選べと、そう言っているのだ、そのとうのどちらかに向けて。


 二人の視線が交差する。生きるべきはどちらなのか、そんなことは決まっている。この世界に命よりも大事なものはない。そして、命は自分ひとりのものではない。


 家族が恋人が友人が知人が、関わる者がいる、悲しむ者がいる、過去に現在にそして未来に、あらゆる可能性と繋がりがあり、そこまでを含めて、一人の人間の命なのだ。


 だから、答えは当然に決まっていた。


 「彼女の生きる世界にしてください」「彼の生きる世界にしてください」


 二人が叫んだのも、また同時であった。


………………………………


 大暑たいしょの季節を迎え、小墾田市おはりだしの朝は今日も暑い。


 転校初日、正確には学籍は春に移っているはずだが、それでも初の登校日に通学路を疾走する人影があった。始業開始までは後5分しかない。


 やがて、高校の校舎へと辿り着き、一目散に階段を駆け上がる。そして、クラスの前までやって来て、その扉に手を掛けた。


 「あー、今日から転校生が来る予定なんだがな。確か名前は……」


 「火遠理ほおり れいです!」「翡翠ひすい 霧人みすとです!」


 ようこそ、僕の世界へ。


 ようこそ、私の世界へ。


 世界は今日も昨日から明日へと続いていく。

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