#12
「うえーん、うえーん」
広い荒野に独り。
プライドが高く、人前で弱みなど絶対に見せないハーフエルフの少女ユーフェンが、誰憚ることなく大声で泣いていた。
「くすんくすん。もうおうちにかえりゅのー! ママー! パパー! どこー!」
しかも幼児退行していた。
緑に輝く艶やかな金髪も、今や腐ったパンに生えたカビのようだ。しかも廃屋に絡まる枯れた蔦のように木の葉やゴミが絡まり合っている。
顔にこそ怪我はないが泥だらけ、それ以外は隈なく傷だらけだ。
衣服――自慢のエルフ装束をハンナに剥ぎ取られて素っ裸で草原に放り出されたため、森で素材を採取して作ったあり合わせの衣装だ――はさまざまな色に汚れていて、血だか泥汚れだかもわからない。
その血だって、自分のものだか獰猛な獣のものだかも分かりはしない。
女子として――というか、人間としてあるまじき醜態である。
周りに誰もいないことだけが幸いだった。
シスター・アンナのしごきが始まってすぐ、ユーフェンが「このままでは死ぬ」などと思ったのは明らかに誤りだった。
というか、まだ始まってすらいなかった。
死は最悪の結末だと思っていたが、むしろ死んでからが本番だった。
死んでも死んでもぎりぎりで蘇生され、その度により過酷になった。
何度「嘘でしょ」と思ったかわからないが、初めは「こんなめちゃくちゃなことをさせるなんて嘘でしょ」だったのが、「死なずに済むなんて嘘でしょ」になるのもあっという間だった。
そしてその直後に「やっぱ死ぬんじゃん」と思い直させられる。
いつしかユーフェンは「生きるとは、死ぬこととみつけたり」といった妙な悟りの境地に達していた。
さすがはハンナ・ヒギンスだ。
これであたしも強くなれる――と思ったら、そこがやっと入り口だった。
そして冒頭の体たらくである。
「もう無理ぃ……誰かちゃんと最後まで殺してぇ」
「最後まで殺して」――パワーワードの誕生である。
すると、誰もいなかったはずの草原にフッと嗅ぎ覚えのある
いつの間にか、タバコを咥えたハンナが立っていた。
「リタイアかい? なら冒険者なんてやめて、森へお帰り」
「ぐすっ、ぐすっ……もう、やめて……」
「いいぜ? 一言「やめます」とさえ言えば、暖かい日常が待っている」
ふー、と落ち着いた様子で煙を吐き出す。
「想像してみろ。蒸留しなくても好きなだけ飲める清潔で透明な水。お腹いっぱい食べられる暖かくて毒のない食べ物」
「あああああ」
「雨も、風も、寒さも、暑さも、命を狙う獣も、蛇も、毒虫だっていない安全な部屋。ふわっふわの布団」
「もうやめてぇえええ」
「思い出せ。たっぷりの湯に肩まで浸かり、傷ひとつない肌を撫でながらゆったりとくつろぐ入浴時間を……ああ、なんて心地よいんだろう」
「やめてって言ってるでしょおおお?!」
ぶへぇ、と涙と鼻水を飛び散らせながらユーフェンは怒鳴った。
「心が折れるからやめて、ハンナぁ!」
「折れろ折れろ。やめっちまえ。なんだってお前、何もかも完璧に満たされた日常を手放してまであんな
「うぇええええん!」
「ああ、子エルフの鳴き声は心地よいねぇ……さて、まだ心が折れないようだから、あたしゃ可愛い子供たちが作った美味しい飯を食って、風呂でも浴びてゆっくり眠らせてもらおうかね」
「うわああああん!」
「ああ、そうそう、
「?!」
サーっとユーフェンの顔から血の気が引いていく。
まだ引けるだけの血が残っていたらしい。
「す、睡眠時間は?!」
「寝ながら動け」
「?!」
ハンナのしごきは一から十まで全てこんな調子だ。
もちろんこんなことを繰り返せばいつか本当に死んでしまう。
だが不思議なことに、本当に危ない瞬間にはいつの間にかそこにハンナがいて、危険を取り払ってくれるのだ。
崖から落ちた時も、巨大ナマズに飲まれた時も、オオカミの群れに囲まれた時も、本当に死ぬと思った瞬間には助けられていた。
泣きながらお礼を言おうとしたら「何休んでんだ、動け」と言って蹴飛ばされた。
実のところ、ハンナの使う治癒魔術のレベルはそう高くない。
治癒魔術は神聖魔術だ。
神聖は火・水・土・光・風の基本五属性とは別系統の特殊属性だが、使える者は多くない。
使える者は教会に入るのが慣習であり、シスター・ハンナも例外ではない。
ただ、目覚めたのが冒険者を止める直前であったため、そのレベルは低い。
故に、何度死んでも生き返せられるというのはあくまで錯覚で、ハンナは「このくらいなら死なない」「後遺症を残さず治せる」というギリギリを攻めているだけだ。
もちろんそれを親切に教えたりはしない――ここでハンナを信頼し、心が折れなかった者だけが、このしごきに耐えられる。
そうでない者は、本当にトラウマになってしまう前に逃げ出すし、ハンナは逃げるものを追ったりはしない――むしろ、心を折ることに尽力する。
全ては、迷宮で命を落とさず生き残るため。
迷宮で恋人を含むパーティメンバーを全て失ったハンナの、言わばこれは慈悲なのである。
ぐぐぐ、と力を込めてユーフェンが体を起こす。
「……やります」
「物好きだねぇ」
「逃げません……っ!」
「そうかい。せいぜい頑張れ」
すぅ、とタバコの香りと共に姿を消すハンナ。
ハンナの職業は斥候である。
相当の実力者ならハンナが近くで身を潜めていることに気づくかもしれないが、ハンナは自分の姿を見せる時には必ずタバコの煙を嗅がせているため、気配察知の実力が乏しければ「タバコの匂いがしない」イコール「ハンナは近くにはいない」と判断する。
だからユーフェンも、すぐ近くでハンナが見守ってくれていることなどつゆ知らず、この広い荒野でたった一人だと思い込んでいる。
ユーフェンは歯を食いしばり、足に力を込めて立ち上がると、ヨタヨタと頼りない足取りで森に向かう。
武器を作り、獲物を狩らなければ。
朝までにやり遂げなければ、倍のノルマが課せられる。
だが、ユーフェンは信じていた。
自分と、自分を鍛えようとするハンナ・ヒギンスを。
噂に聞くハンナよりも実物ははるかに苛烈はあったが、ハンナが本気で鍛えてくれていること、そしてそのために全身全霊であることも、もはや間違いようがなかった。
「あまり無理するなよ」などと言う無責任な人々よりも、はるかに本気であたしを迷宮で生き残らせようとしてくれている。
だから、これは愛なのだ――。
それに、とユーフェンは思う。
孤児院の子供たちもあんな小さな体と少ない魔力でこの地獄を耐え切ったのだ。
あたしに耐えられないはずはない。
ハンナ・ヒギンスがあたしならできると信じてくれているのだ。
ユーフェンはボロボロの顔のまま不敵に笑い、とりあえず三匹じゃなく五匹くらいは狩っておこう、そしてハンナの驚く顔を見てやるのだと心に決めた。
翌日にはハンナに「なんだ、たった七匹かい」と言われてまた心を折られることになるのだが、この時のユーフェンには知る由もない。
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